<第1回はこちら> <第2回 前編はこちら> ――マンモス選手は、1999年11月23日・横浜アリーナ大会で同期の山崎直彦さんと組んで、ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)と対戦しています。ファ…

<第1回はこちら>
<第2回 前編はこちら>

――マンモス選手は、1999年11月23日・横浜アリーナ大会で同期の山崎直彦さんと組んで、ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)と対戦しています。ファンクスと闘った時の印象はどうでしたか?
マンモス:なんか掌の上で回された感じでしたね。それに尽きますね。

――この時、記憶が確かならマンモス選手と山崎直彦さんが「FMWのテーマ」で入場してきて、頭を下げた後に走ってリングインしているんです。あれは清々しいなと感じましたよ。ファンクス相手のチャレンジマッチだったと思うので、意気込みが伝わりました。
マンモス:実は試合後にご挨拶をさせてもらった時に、ドリーさんからロックアップを教えてもらったんですよ。そのロックアップは未だに使ってます。あと新崎人生さんにも新人時代にロックアップを教えてもらったことがあって、新崎さんの場合はどれだけ間合いがあっても、一気に間を詰めて一気にパワーを収縮するようなロックアップをされるんですよ。ドリーさんから教わったロックアップは、右手で相手の首を掴んで身体をコントロールして、左手は組んだ時に相手の頭をコントロールするというタイプでした。

――ドリーさんのロックアップはアマチュア・レスリングのような首の取り合いみたいですね。ロックアップも奥が深いですね。
マンモス:ドリーさんにロックアップを教えてもらった時は嬉しかったですよ。プロレス界の仙人みたいな方ですからね。

――ファンクスが参戦した横浜アリーナ大会がエンターテインメントプロレスFMWの社運が懸かった大会だったと言われています。この横浜アリーナ大会について何かエピソードがあれば教えてください。
マンモス:試合は金村さんVSボールズ・マホーニーのハードコアマッチが面白くて、あれもテレビカメラをうまく使った試合だったんですよ。あとショーン・マイケルズがレフェリーとして来日したじゃないですか。その時、愛弟子のアメリカン・ドラゴン(ダニエル・ブライアン/ブライアン・ダニエルソン)とランス・ケイドを日本に置いたじゃないですか。アメリカン・ドラゴンなんて後にWWEでスーパースターになるなんて思わなかったですよ。

――そうですよね。あとランス・ケイドも後にWWEでタッグ王者になっているんですよ。
マンモス:二人ともWWEで活躍されたんですね。あとリッキー・フジさんもショーン・マイケルズの流れにいるんですよね(笑)。

――リッキーさんは、表面上のショーン・マイケルズをカバーされていて、中身のレスリングはミスター・ヒトさん仕込みのテクニックですけど。
マンモス:テーマ曲が「セクシーストーム」を歌いながら入場しますからね、リッキーさんは(笑)。カラオケやん(笑)。

――メインイベント(H⦅ハヤブサ⦆VSハヤブサ⦅ミスター雁之助⦆)はいかがでしたか?
マンモス:現場で見てましたけど、二人には入り込めない世界があるんですよ。学生時代からの友人という関係もあって、リング上でも噛み合うわけですよ。

――確かこの時期にハヤブサを名乗っていた雁之助さんが、試合に向けてムーンサルト・プレスを練習していて、首を痛めたという話は聞いたことがありますね。
マンモス:それって実際に雁之助さんが語っているんですか?

――当時の週刊プロレスのレポートでそのような記載があったんですよ。
マンモス:実は道場で雁之助さんが「俺、ムーンサルトをやるから」と言っていて、僕が「バカも休み休み言ってくださいよ。練習終わったらチャンコ食べますか?」と言って、別の階でチャンコの仕込みをやっていたら、「痛っ!!」という声が聞こえてきて、「どうしたんですか?」と聞くとムーンサルトの練習をやって首から突っ込んで、痺れていたんですよ。今はないんですが、板橋の気功をしている有名な治療院があって、そこを首を痛めた雁之助さんに紹介したんです。すると首の痛みが取れて雁之助さんから「スゲーぞ、あそこは!何なんだ、あいつは!」って。

――雁之助さんは飛び技を使う方じゃないんですよね。
マンモス:ミサイルキックぐらいですよ。

――本当にそうですよ。技のチョイスを見誤ったのかもしれないですね。次の話題なのですが、マンモス選手は2000年から保坂秀樹さんとコンビを組むようになって、エディ・ファトゥ(ジャマール/アルマゲドン1号)&マッティ・サムゥ(ロージー/アルマゲドン1号)を破って初代WEWハードコアタッグ王座を獲得します。これがプロレスラーとしての初戴冠となります。まず、FMWに上がり、後にWWEで活躍するファトゥとサムゥはどんなレスラーでしたか?
マンモス:巨体の割には動きが細かくて、なんでもできるんですよね。ジャマールもロージーも本当に身体能力が高くて、ムーンサルトとかやりますからね。彼らはアノアイ・ファミリー(ワイルド・サモアンズでの活動で知られるアファ・アノアイの兄弟や親戚で構成されているプロレス界を代表するサモア系の一族)なんですよ。あの一家は凄いですね。

――あの二人はFMWで上がっている段階で、すぐにメジャー団体に上がっていいほどのポテンシャルがあったので、保坂さんとマンモス選手という肉体でも対抗できるライバルがいてよかったなと思いましたよ。
マンモス:しんどかったけど彼らと闘うのは面白かったですよ。試合をしながら、自分を成長させてくれました。

――ちなみに2000年からマンモス選手とタッグを組むようになった保坂さんは、どんなレスラーでしたか?
マンモス:保坂さんは……簡単には言えないですけど、お世話になりました…。ハヤブサさんと初めてシングルマッチで対戦した時に保坂さんがセコンドについてくれて、荒廃の僕をすごくバックアップしてくれて…。一緒に組んだ時は保坂さんが試合をリードしてくれました。当時は若かったので、ハードコアとかでもめちゃくちゃにしてやろうかなと暴走しても、保坂さんがうまくなだめて試合として成立させてくれたんですよ。試合後でも「あれはやめとけよ」とか「こうした方がいいんじゃない」とアドバイスしてくれて…本当にいい先輩でしたね。

――マンモス選手にとって保坂さんは手綱を握ってくれた方だったんですね。
マンモス:本当にそうですよ。実力はあるのに、自分が前に出ないんですよ。保坂さんと出逢ったことは本当に大きすぎましたね。色々と勉強になりました。

――その言葉は、天国にいる保坂さんも喜んでいると思いますよ。ちなみに2000年に本名の佐々木嘉則から、マンモス佐々木に改名しているんですよね。
マンモス:確か新人時代に冬木軍興行で、マンモス佐々木というリングネームで上がっているんですよ。それで改名した後にシングルマッチ何番勝負とかで、ハヤブサさんと闘ったんですよ。

――その話を聞きたかったんですよ。2000年9月17日ディファ有明大会で、マンモス選手は団体のエースであるハヤブサさんと初の一騎打ちを行い健闘されましたが、敗れています。実際に対戦してみて、ハヤブサさんはどんなプロレスラーでしたか?
マンモス:ハヤブサさんは他のレスラーとは手数の多さと間の取り方が違うなと感じました。

――それは他の選手と比べた場合、どのように違うんですか?
マンモス:グラウンドにしても腕や足の取り方とかも多彩なんですよ。基礎という引き出しをバンバン出されて、圧倒されましたね。ハヤブサさんの基本的なテクニックに全然追いつけないんですよ。ハヤブサさんとの一戦はファンクスと対戦した時よりも、自分はまだまだ実力が足りてないなと感じましたね。

――ハヤブサさんといえば、数々の華麗な空中殺法を得意にしていますが、基礎のレスリングの攻防においてもかなりの実力者だったんですね。
マンモス:凄かったですよ。多分、ハヤブサさんは全日本プロレスに継続参戦していた時にレスリングスキルを磨かれたのではないでしょうか。

――ハヤブサさんは全日本ではみちのくプロレスの新崎人生さんとのコンビで「世界最強タッグ決定リーグ戦」にエントリーしたり、世界トップクラスの選手たちと闘って、経験を積まれて、そこからプロレスラーとして実力が向上されたのかもしれないですね。ちなみにハヤブサさんの間の使い方というのはどのようなものだったんですか?
マンモス:ハヤブサさんが常に試合の主導権を握っていて、自分が攻めるにしても、受けるにしても自分の間でやられていて、実際に試合をしても動かされているような感覚はありましたね。ハヤブサさんと闘った後に「あの人の後を追っかけてもしょうがない。自分なりのレスラー像を作らないといけない」と感じました。

――ハヤブサさんと同じことをやっても敵わないので、違う道を歩こうということですね。恐らく、ハヤブサさんの基礎や間の取り方が凄いという話はこれまでクローズアップされていないと思うので、大変貴重な証言ですよ。
マンモス:これはリングで対戦してみたら分かると思いますね。

――次の話なんですが、2000年11月にハヤブサさんが古傷のヒジを治療するために半年間欠場されて、代わりに新エースとなったのが黒田さんでした。黒田さんはチーム黒田というユニットを結成して、あの手この手で、話題を作られて試合でも結果を出していって活躍していきます。マンモス選手も途中からチーム黒田に入られています。ハヤブサさんがいなかった2000年末から2001年春までのFMWについてどう思いますか?
マンモス:この頃のFMWは何でもありという感じで、悪ノリ時代でしたね(笑)。東京スポーツさんとかは喜んでくれたんですよ。

――確か東京スポーツさんでの紙面で、この時期は目立つようになった時期でしたね。マンモス選手はチーム黒田での活動は乗り気だったんですか?
マンモス:面白かったですよ。焼肉屋で食事をしている冬木さんをチーム黒田で襲撃して、盛岡冷麺とかを入れる鉄のお椀を被せて殴ったら「めちゃくちゃ痛かった!」と怒られたりとか(笑)。

――それはムチャなことやりましたね(笑)。黒田さんからはどんなことをしてでもFMWを守るんだという気概は感じてましたか?
マンモス:そうですね。ハヤブサさんは欠場していて、田中さんはFMWを辞めてましたから、黒田さんは団体を引っ張っていこうと頑張っていたと思います。

――黒田さんは本来は二番手とかで実力を発揮するタイプだと思うんですが、不測の事態があって団体のトップになっても、きちんと役目を果たされるんですよね。だからハヤブサさんが帰ってきたときに、実はチーム黒田でややヒール的役割をされていた黒田さんが「俺はお前がいない間、FMWを守ってきたんだ!」と言った時に大歓声が起こったんですよ。ファンはきちんと見ているなと思いましたよ。
マンモス:確かにそうでしたね。

――そこからハヤブサさんが怪我から復帰されるのですが、2001年10月22日・後楽園ホール大会のメインイベントで、マンモス選手とハヤブサさんが一騎打ちを行いますが、ハヤブサさんがセカンドロープからのムーンサルトを放った際に、頭から落下してピクリと動けなくなり、そのまま試合終了。この一戦でハヤブサさんは頸椎損傷、全身不随という大怪我を負い、事実上の再起不能状態に追い込まれます。
マンモス:はい。

――この時の状況については、以前、単行本「インディペンデント・ブルース」(彩図社)の取材でマンモス選手に語っていただいたのですが、まずこの事故が起こった瞬間はどのように思われたのですか?
マンモス:ちょうど自分がリングで寝ている左側で、ハヤブサさんの事故が起こったんです。見たことがない身体の曲がり方や首の詰まり方をしていたんです。それであのハヤブサさんが動けないので、これはただ事じゃないと感じましたね。首を怪我されたのはすぐにわかったので、まずハヤブサさんを動かしたらダメだと。それで試合が終わって、場外のマットを担架代わりにして救急車に乗せるまで運んだんですよ。

――ハヤブサさんはマンモス選手との試合が結果的にはラストマッチになりました。今年(2021年)でハヤブサさんの事故が発生してから20年が経ちました。マンモス選手はこの事故について、どのように向き合ってきましたか?
マンモス:そうですね…。あれから、僕に関しては幸いなことにあのような事故が目の前では遭遇していないんですよ。何か起こった時に自分達の力ではなかなか対処できなくて。GEN(GENTARO)ちゃんが脳梗塞で倒れた時も、控室で保坂さんが様子がおかしいと発見してすぐに救急車を呼んでくれて、入院はされましたけど、回復されて復帰しているんですね。あれもハヤブサさんの件があったから生きた経験だったのかなと思いますね。だからGENちゃんは保坂さんが亡くなった時は「俺のことを助けてくれた人なのに…」とものすごく悲しんでいましたね。

――ちなみに入院中のハヤブサさんにお見舞いとか行かれたのですか?
マンモス:はい。「何が食べたいですか?」と聞いたら、「マンモ(マンモスの愛称)が作った豚の角煮が食べたい」と。それで道場で作って病室まで持っていったんですよ。ハヤブサさんは「うまい! うまい!」って言ってくれましたね…。
(第2回終了)

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取材・文/ジャスト日本
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【ジャスト日本】 プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログやnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』