「オープン球話」連載第91回 第90回を読む>>【まったく物怖じしない異質なタイプの高卒ルーキー】――前回までの土橋勝征…

「オープン球話」連載第91回 第90回を読む>>
【まったく物怖じしない異質なタイプの高卒ルーキー】
――前回までの土橋勝征さんに続き、今回からはドラフト同期の同学年で、ともに千葉出身の飯田哲也さんについて伺いたいと思います。以前、八重樫さんは「飯田と土橋は正反対のタイプ」とおっしゃっていました。まずはその点からお話しいただけますか?
八重樫 前回まででお話ししたように、土橋は黙々と練習に取り組むタイプで、どちらかといえば暗いというか、口数は少ないんです。でも、一方の飯田は正反対の性格で、明るくて人当たりがいい。先輩に対しても物怖じせずに積極的にコミュニケーションがとれるタイプで、コツコツと努力するというよりは、天性の素質、才能で伸び伸びとプレーする選手でしたね。

ホームインして喜ぶ飯田哲也(左)と古田敦也(右)
――飯田さんのプロ入りは1987(昭和62)年ですから、八重樫さんとは現役時代が重なっています。しかも、プロ入り当時は捕手としての入団でした。八重樫さんとの接点も多かったんじゃないですか?
八重樫 接点はありましたね。でも、彼は悪く言えばチャラチャラしていると言うのか、プロの世界にも臆することがなくて堂々としていましたね。あの時代は誰しも先輩たちの前では大人しくなっていたけど、飯田はまったくそれがなかった。当時は、僕や若松(勉)さんもまだ現役だったけど、空気を読まないと言うのか、とにかくマイペースでした。でも、不思議と憎めないと言うのか、叱れないんですよ(笑)。
――高校を出たばかりの若手選手としてはかなり異質ですね。
八重樫 今まで多くの選手を見てきたけど、このタイプは飯田と、かなりあとに入団した上田剛史くらいでしたから、珍しいタイプですね(笑)。
――飯田さんはキャッチャーとして入団するものの、野村克也監督時代に、セカンド、そしてセンターにコンバートされてレギュラーに定着します。キャッチャーとしてはどんな選手でしたか?
八重樫 本人も言っていたけど、キャッチャーとして「積極的にうまくなりたい」という思いは薄かったと思いますよ。彼は高校時代に監督の命令でキャッチャーになったんです。当時、「キャッチャーの経験は?」と聞いたら、「1年ちょっとです」って言っていましたから。
ただ、彼の性格的にはキャッチャーには向いていなかったと思います。細かいことを突き詰めるタイプじゃないですから。当時の安藤統男ヘッドコーチに、「彼は野手にしたほうがいいんじゃないですか?」と言ったことがあるけど、当時の関根潤三監督は「キャッチャーとして育てよう」と思っていたようですね。
【飛躍の契機となったセンターへのコンバート】
――結果的にセンターで才能が開花しますが、飯田さんの身体能力はずば抜けていたんですか?
八重樫 バッティングは荒かったけど、とにかく足が速くて、身体能力はずば抜けている印象がありましたよね。結果的に野村さんがセカンド、そしてセンターにコンバートして成功するけど、キャッチャーのままだったら成功はしていなかったでしょうね。セカンド時代は「なかなかゲッツーがとれない」と悩んでいましたが、センターは天職でした。まるで、野に放たれたチーターのようでしたから。
――後に「キャッチャー、センター、セカンド、どこでも守れる」と応援歌の歌詞にもなりましたけど、飯田さんの場合は間違いなくセンターが天職でしたよね。持ち前の俊足を生かして右に左に、グラウンドを駆け巡っていましたからね。
八重樫 センターなのに、レフトの守備位置まで打球を追いかけたり、ライトまで追いついたり、フェンスをよじ登る練習をしたり......本当にセンターとして才能が開花しましたね。もともとキャッチャーだったから、捕ってから投げるのが速い。モーションもコンパクトだからランナーをアウトにすることも多かったです。
――飯田さんといえば、1992(平成4)年、翌1993年の西武との日本シリーズですよね。ご本人も、92年第7戦の石井丈裕投手の打球をグラブに当てながら捕球できずに「現役時代、もっとも思い出したくないプレー」と語り、そして翌年の第4戦ではベンチの指示を無視して、前進守備からホームで封殺した名場面の主役となりました。
八重樫 92年の石井の打球をグラブに当てて捕れなかった場面はよく覚えています。記録はヒットになったけど、飯田の脚力ならば前進守備でも追いつけたし、実際にグラブに当てているわけだしね。守備の名手だったから、「油断していた」とは言わないけど、ちょっとした気の緩みもあったんじゃないかな? 一球への集中力が散漫になっていたのかもしれないね。
でも、93年の第4戦で、セカンドランナーの笘篠誠治をホームでアウトにした場面は僕もベンチで見ていたけど、飯田ならではの野生的な本能で生まれたプレーだったと思いますよ。ああいうものすごいプレーをできるのが飯田なんでしょう。一方では、せっかく足が速いのに盗塁がそれほど多くなかったのはもったいなかったな。
【飯田の自由にさせた野村克也の「放任主義」】
――確かにリーグ屈指の脚力を誇りつつ、盗塁王に輝いたのは1992(平成4)年の一度だけでした。
八重樫 彼はスタートが遅いんですよ。それは現役引退まで変わらなかったな。偶然タイミングが合った時は悠々セーフなんだけど、そうじゃない時は完全にアウトになったりしていました。それに、足の速さのわりには盗塁失敗も多かった印象があります。彼は何度も何度も繰り返して取り組むタイプじゃなくて、本能的に動いたほうが力を発揮するタイプだから、仕方がないことかもしれないですけどね。
――以前、橋上秀樹さんがおっしゃっていたんですけど、「野村さんは飯田には何も言わずに好きにやらせていた」とのことでした。ある意味では、飯田さんに関しては放任主義を貫いたようですが、八重樫さんから見て、野村さんは飯田さんにはどのように接していましたか?
八重樫 橋上の言うとおりですよ。野村さんは、「飯田には細かい注文を出して、あれこれ言うよりも、好きにやらせたほうがいい」と考えていたと思いますね。同じミスを何度か繰り返して、そのたびに怒られるんです。でも、その瞬間はシュンとするけど、また同じことを繰り返す。何度言っても効果がないなら、小言を言って委縮させるよりは好きにやらせたほうがいいと考えたんでしょうね。センターにコンバートしたこともそうだけど、やっぱりノムさんの人を見る目はすごかったです。
――野村さんの言う「適材適所」というのは、まさに飯田さんが典型例ですね。
八重樫 前回も言ったけど、土橋については「何も言うことはない。みんな土橋を見習え」と接していたし、同期の飯田に対しては「飯田には細かいことは言わずに、好きにやらせたほうがいい」と判断していましたよね。そういう意味でも、飯田と土橋は対照的なんですよ。次回はそのあたりについてお話ししましょうかね。
(第92回につづく)