プロレス界とは離合集散の歴史である。多くの団体が誕生し、多くの団体がさまざまな事情で消えていった。そんな消滅した団体の中にも今でもプロレスファンの記憶に残る団体が存在している。 1989年~2002年の13年に渡り活動してきたFMWは…

プロレス界とは離合集散の歴史である。多くの団体が誕生し、多くの団体がさまざまな事情で消えていった。そんな消滅した団体の中にも今でもプロレスファンの記憶に残る団体が存在している。

1989年~2002年の13年に渡り活動してきたFMWは、伝説のインディー団体として今なお我々の記憶の中で生き続けている。

FMWは、1989年7月、元全日本プロレス所属選手の大仁田厚がわずか5万円の資金で設立された。日本におけるインディー団体の草分け的存在と言われ、日本で初めてミックスファイトと女子選手による単独興行も手がける男女混合プロレス団体。また新生FMW時代にはデスマッチ&ハイクオリティなプロレスを展開し、世界のハードコアスタイルのパイオニアとなった。大仁田が立ち上げたFMWの成功により、それに倣ったインディー団体の乱立を呼び、1990年代以降の日本のプロレス界が多団体時代を迎える影響を及ぼした。社長兼エースとした八面六臂の大活躍を遂げた大仁田は”涙のカリスマ”と呼ばれ時代の寵児となった。創世記のFMWは異種格闘技戦路線だったが、やがてデスマッチ路線に移行。特にノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチは団体の看板商品となった。1995年、大仁田が2度目の引退により、社長を辞任したことにより大仁田体制は終焉。創世記からリングアナウンサーを務めた荒井昭一が社長に就任し、新たな運営会社の下でメジャー級の身体能力とスター性を誇る”不死鳥”ハヤブサをエースに据えて、新生FMWとして再出発を果たす。1998年からエンタメ路線に移行し、エンターテインメントプロレスを標榜し、日本版WWEの道を歩むも、資金難という問題に直面し、経営が悪化。2002年2月14日と15日、FMWは2日連続で不渡りを出して事実上倒産。FMW崩壊後は冬木弘道が率いるWEWとハヤブサとミスター雁之助が率いるWMFと二派に分かれた。

今年(2021年)に入り、保坂秀樹さんやBAD BOY非道さんといったFMWに在籍したレスラーの悲報が続いている。来年(2022年)で崩壊から20年を迎えるFMWについて証言できる当事者も少なくなっていく現状。そこでFMWを文章表現で伝承し、団体の歴史を選手や関係者の証言によって後世に語り継ぐ「俺達のFMW」がスタートしたのである。

第1回は、プロレスリングFREEDOMSの"目覚めた猛獣"マンモス佐々木(以降はマンモスと形容)が登場。

マンモス佐々木(まんもすささき)1974年7月23日大阪府大阪市出身188cm 115kg 1997年12月8日デビュー所属プロレスリングFREEDOMSタイトル歴WEWヘビー級王座、WEWハードコア王座、WEWタッグ王座。WEWハードコアタッグ王座、BJW認定タッグ王座、KING of FREEDOM WORLD TAG王座得意技29歳、アッサムボム※プロレスリングFREEDOMSの重鎮。かつて伝説のインディー団体FMWで活躍。その実力はメジャーにも負けないインディー屈指の大怪獣。

3時間半にも及んだ取材の中で、彼はFMWを熱く深く語り尽くしている。これはその一部始終である。

――今回の企画に快くご協力していただきありがとうございます。マンモス選手は1997年にFMWでプロレスラーとしてデビューしてから、崩壊する2002年まで在籍しています。現在、プロレスリングFREEDOMSで活躍するマンモス選手はテーマ曲に「FMWのテーマ」を使用し、今もFMWの魂を持ってプロレスラーとして生き続けています。マンモス選手にとっての原点であるFMWについて思う存分語っていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

マンモス:こちらこそよろしくお願いいたします。

――マンモス選手はファン時代に全日本プロレスで行われたジャンボ鶴田と天龍源一郎の鶴龍対決や、第2次UWFをファン時代によく見ていたそうですが、FMWという団体についてどのような印象がありましたか?

マンモス:FMWは角界に入ってから見るようになったんです(マンモスは1992年11月に大相撲・東関部屋に入門している)。大仁田さんが無観客でタイガー・ジェット・シンとやって泥水の中で闘っていて、変なおじさんだなと思っていたのですが、なぜか気になっていたんです(笑)。(1992年6月30日に関ヶ原で大仁田厚とタイガー・ジェット・シンがノーピープル・ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦)

――ありましたね!プロレス版関ヶ原の合戦ですね(笑)。

マンモス:それから角界時代に洗濯するふりをして後楽園ホール大会をバルコニーで観戦したりしていましたね。スクランブル・バンクハウス・デスマッチ(W★INGやIWAジャパンで盛んに行われたデスマッチ。バンクハウスマッチとは「酒場の喧嘩」という意味。リングの中央に公認凶器ひとつを置き、選手は入場口で待機して、カウントダウンの合図で試合開始、両者はリングへ駆け込み、公認凶器を奪い合いながら戦うデスマッチ。公認凶器は主に有刺鉄線バットが採用されている)とか観ていて、面白いなとハマったんですよ。

――スクランブル・バンクハウス・デスマッチということですから、FMW VS W★ING同盟の頃ですか?

マンモス:そうです。1000万円争奪マッチとかめっちゃ面白かったんですよ!選手は1000万円よりも先に有刺鉄線バットを取りにいくんですよ(笑)。

――やっぱり相手を仕留めてから1000万円を取りたいんでしょうね。確か後楽園ホール大会だったと思うんですが、1000万円争奪マッチで、ミスター・ポーゴさんが有刺鉄線ファイヤーバットを持ち出して攻撃した時に、W★INGファンから「かっ飛ばせ!ポーゴ!」と声援が起こって(笑)。それでW★INGが勝って1000万円を獲得すると、ポーゴさんが大仁田さんの口に札束をぶち込んだという衝撃のシーンがあったんです。

マンモス:ハハハ(笑)。懐かしいですね。1000万円争奪マッチに関しては、全編通じて、1000万円よりも有刺鉄線バットや団体やレスラーとしてのプライドの方が大事だったように感じましたね(笑)。当時のFMW後楽園ホール大会はW★INGフリークスが多くて、その近くで着物で観戦してました。

――それは目立ちますね(笑)。ちなみにマンモス選手は大仁田さんに憧れていたそうですが、どの辺りに憧れたのですか?

マンモス:この前、FMW-Eの保坂秀樹さん追悼試合(2021年9月12日FMW-E神奈川・鶴見爆破アリーナ大会)に呼んでもらって大仁田さんの試合を見たのですが、当時の全盛期のままなんですよ。素直に感動してしまう。週刊プロレスとかで、神通力というワードで大仁田さんについて表現していますが、その通りですよ。

――やっぱり大仁田さんは不思議な人ですね。

マンモス:かといって、大仁田さんから「暇だから控室に来いよ」と呼ばれて、話をしているといきなりマット・トレモント(大仁田に憧れてプロレスラーとなったアメリカのハードコア戦士)のことを語り出したり(笑)。大仁田さんは死ぬまで大仁田厚なんでしょうね。

――そうですね。ずっと大仁田さんは大仁田厚という生き方を続けていくのだと思いますね。マンモス選手は、角界を去った後に1997年3月にFMWに入門し、同年12月8日愛知県・岡崎市体育館大会での対中川浩二戦で本名の佐々木嘉則でプロレスデビューしています。マンモス選手はプロレスラーになると決意した段階でFMW以外の選択肢はなかったのですか?

マンモス:FMW以外はなかったです。FMWは二回目のテストで合格したんです。1996年の夏に、まだ角界にいた時に入門テストを受けて、右ヒザ前十字と内側靭帯の手術してボルトが入った状態でコンディションはよくなかったんです。試験官だったハヤブサさんから「ヒザを直して諦めきれなかったらまたテストを受けに来てよ」と言われまして、その年の暮れにボルト除去して、黙々と大阪に戻って基礎体力練習をやって、入門テストを受けて合格したんです。

――ちなみに入門テストのメニューはどのような内容だったのですか?

マンモス:スクワットが500回、腕立て伏せと腹筋が200回、ブリッジ3分、反復横跳び1分、あと自己アピールですね。僕が合格した1997年3月の入門テストでは山崎直彦と高橋冬樹(後にIWAジャパンでデビューし、ゼロワンで再デビューしている)も合格してますね。

――ちなみにFMWの練習はいかがでしたか?

マンモス:ヒザを怪我してから入っているのでスクワットがきつかったですね。最初に準備運動で全員でスクワット300回やって、そのあと新弟子はさらにスクワット1000回。中川浩二さんとかは「無理しなくていいよ」と言ってくれたんですけど、気持ちを見せないといけないと思いまして、そこは我慢して、ヒザが「パキパキ」と音が鳴りながらスクワットやってましたね。

――よくスクワットでも、座り込むようにやるスクワットと、ヒザを90度程度曲げるハーフスクワットがあると思うんですが、マンモス選手がやっていたスクワットはどのようなものだったんですか?

マンモス:90度より少し曲げる感じで、腿に効くスクワットでした。ちゃんとヒザ下までしゃがむタイプでしたね。道場では田中将斗さんや中川浩二さんに指導していただいたのですが、巡業にいくと大矢剛功さんに教えてもらいました。大矢さんの基礎体力練習が凄いんですよ(笑)。

――確かに!大矢さんは元・新日本プロレスですからね。

マンモス:ずっと基礎体力練習をやって、そこからスパーリングですよね。

――確か以前、単行本「インディペンデント・ブルース」の取材でマンモス選手にお伺いした時にロープワークが新日本式、受け身が全日本式、基礎体力練習が自分には向いていると感じたという話をしていただいたのですが、ロープワークの新日本式、全日本式について教えていただいてよろしいですか?

マンモス:新日本式ロープワークは、ロープを切れるのを想定しながらもトップロープを横に握って引く反動も使って早く走り出すんです。全日本式ロープワークは、トップロープを手のひらで押さえ込む様にかけてしっかり飛び込んで走るんですよ。だから受けのロープワークなんです。

――試合のリズムでも全日本の方が新日本より少しゆっくりした印象がありますが、それはロープワークにも現れているんですね。では受け身の新日本式と全日本式の違いはどうなのですか?

マンモス:全日本は「バーン」としっかり受けるという感じですね。首が強い感じの受け身なんですよ。大矢さんがやってた新日本式受け身はとにかく速いんです。田中さんや中川さんは元・全日本のターザン後藤さんから教わっていて、自分は全日本式の方が合ってましたね。

――ちなみにマンモス選手にプロレスを教えた中川さんを相手にしたデビュー戦はいかがでしたか?

マンモス:田中さんは「デビュー戦はよくやってたよ」と褒めてくれたんですよ。デビュー戦が決まると何月何日だよと言われるのではなくて、次のシリーズにコスチュームを作っておけよと言われるんです。当時マッチメーカーだった伊藤豪さんに「どんなコスチュームを作ったらいいんですか?」と聞くと「お前はベイダーだ」と言われて。ベイダーさんのコスチュームを作っているシマスポーツでコスチュームを作ってもらって、その費用が十何万の費用かかって(笑)。

――デビュー戦であんなコスチュームを着たレスラーは少ないと思いますよ。確か「皇帝力士」という異名がありましたもんね。

マンモス:地方大会にいくと「ベイダーのファンがプロレスやってるんだ」ってファンに言われたんですよ(笑)。あれは恥ずかしかったです。ベイダーファンの新人なんてなかなかいないじゃないですか。でも試合は安田忠夫さんみたいなムーブをやらされて。コーナーへの串刺しボディーアタックからダブルアーム・スープレックスとかやりましたけど。

――マンモス選手は、新人レスラーながら、1998年に大仁田さんが率いるチーム0というユニットに入っていましたよね。

マンモス:そうなんです。その時は大仁田さんの付き人だったんです。

――確か、ブリーフ・ブラザーズに対抗して「赤フン兄弟」とかやってましたよね。

マンモス:ありましたね(笑)。CDデビューもしているんですよ。しかも、作詞が秋元康さんで、作曲が後藤次利さんの黄金コンビですよ。本当に無駄遣いですよ(笑)。(※実は、大仁田厚が率いる赤フン兄弟は、「なんじゃ!」というユニット名で、「ロンリーバス」という曲で徳間ジャパンコミュニケーションズからCDデビューしている)

――秋元さんと後藤さんのコンビはとんねるずの楽曲を手掛けて大ヒットを飛ばした名タッグですよ。

マンモス:実は当時、とんねるずさんが野猿で大人気の頃で、野猿の次に秋元さんと後藤さんが手掛けたのが「なんじゃ!」だったんです(笑)。もう忘れもしませんけど、新宿のHMVでCD発売ライブをやったんですよ。振付師のラッキィ池田さんもいて一緒に踊ることになって、それでCDがかかって歌は口パクでやるということになったんですよ。大仁田さんの横でいて、歌いだしも前に踊りを間違ってしまって、反対側に回っちゃったんですよ。すると大仁田さんが「間違っているよ。ちゃんと合わせて回れよ」と僕に突っ込んでいたら、舞台では曲がずっと流れていて、口パクがバレたんです(笑)。

――ハハハ(笑)。それはやっちゃいましたね!ちなみにお客さんはどれくらいいたのですか?

マンモス:結構いましたね。100人くらいいたかもしれないです。口パクがバレた時、店内は爆笑でしたよ(笑)。

――確かこの時期、FMWはスーパーインディーやデスマッチ路線からエンターテインメントプロレスに移行していきます。こちらについて当事者としてどのように感じていましたか?

マンモス:ディレクTV(主に北中南米地域で活動している衛星放送。1990年代後半に日本でも進出していた)と契約したわけですが、アメリカナイズされたものをリングに取り入れていくのかなと新人ながら感じていました。エンターテインメントプロレスに変わりましたけど、ハードコアをやらせてもらったので、それがなかったら「うーん」と思っていたかもしれないですね。

――FMWはエンターテインメントプロレスを突き進みながらも、ハードコア路線もバンバンやっていて、金村キンタローさんもハードコアで頑張ってましたからね。

マンモス:だからそれを逆手にとってテレビ向けのハードコアをやれないかなと考えて、ロージー(アルマゲドン2号/マティ・サムゥ)を後楽園ホールのエレベーターに閉じ込めて1階のボタンを押したことがありましたね。それで保坂秀樹さんとジャマール(アルマゲドン1号/エディ・ファトゥ)を二人かがりで攻撃して3カウントを取って(笑)。あれはしてやったりでしたよ!

(第1回終了)

<インフォメーション>
11/17(水)マンモス佐々木選手が出場するプロレスリングFREEDOMS『Go for itFREEDOMS!2021』が東京後楽園ホールで行われます。
詳細はプロレスリングFREEDOMS Webサイトをご覧ください。

マンモス佐々木 Twitter
プロレスリングFREEDOMS Twitter
写真提供/プロレスリングFREEDOMS

取材・文/ジャスト日本 Twitter

【ジャスト日本】プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログやnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』(Twitterアカウント:@jumpwith44)