毎年秋に開催されるプロ野球ドラフト会議は、「運命の日」と形容される。今年も10月11日にドラフト会議が行なわれ、128人(育成を含む)の選手が指名された。 そんなイベントで"陰の主役"と言えるのが、各球団のスカウトだ。足繁く球場に通う彼ら…

 毎年秋に開催されるプロ野球ドラフト会議は、「運命の日」と形容される。今年も10月11日にドラフト会議が行なわれ、128人(育成を含む)の選手が指名された。

 そんなイベントで"陰の主役"と言えるのが、各球団のスカウトだ。足繁く球場に通う彼らはどんな点に着目し、逸材を発掘しているのだろうか。2009年から阪神のスカウトを8年間務めた中尾孝義氏は、一例として捕手を獲得する際のポイントをこう明かす。

「バッティングはそんなに見ないですね。まずはキャッチャーとして、ピッチャーが投げやすい構えなのか。ピッチャーの球を捕るのはどれくらいうまいのか。それと肩。強さはあればあるほどいい。アマチュアからプロに入ってレギュラーをとるために、現在抱えている改善点は直せるものなのか、そうでないのかを見ています」



2009年のドラフトで阪神から指名を受けた原口文仁と同学年の岩崎優

 中日時代の1982年にセ・リーグで初めて捕手としてMVPを獲得した中尾氏は、インサイドワークと2ケタ本塁打を5シーズン記録した打撃力を持ち味としていた。1993年に現役引退後、西武や台湾球界などで指導者を歴任し、2009年阪神のスカウトに就任する。同年、初めて担当した捕手が6位で指名した原口文仁だった。

「あの子は、肩の強さはそんなになかったんです。だけど、捕ってから投げるまでの速さがあった。それと、高校の時の生活態度ですね。寄居町から始発で通って、夜遅く帰って家のケージでバットを振る。練習に対して貪欲な部分があったので、推したんです。高校の時にそれだけできる子はなかなかいません。家族も含めてね」

 寄居町は埼玉県北西部の大里郡にあり、東武東上線で池袋まで約1時間半の距離にある。原口は東京都板橋区にある帝京高校まで、約2時間かけて通学した。

 当時の帝京には寮がなく、毎朝始発で通った。終電で自宅へ帰ると、家族にボールを上げてもらってティー打撃を1時間行なう。翌朝、一番早い電車で通学した。そんな日々を繰り返すうち、ドラフト候補として注目されるようになった。

 アマチュア選手がプロで活躍できるかを判断する材料のひとつに、"伸びしろ"と言われるものがある。たとえば、現時点で肩の強さをどのくらい備え、動作を改善すればよくなる余地はどれほど残されているのか。ウエイトトレーニングに取り組めば、体はどの程度大きくなりそうか。

 そうした技と体に加え、心の強さも推し量る必要がある。メジャーリーグでは「メイクアップ」と言われ、伸びしろを計るためにも重要な要素だ。

 NPBのスカウトは規定により、アマチュア選手と直接会話することができない。スカウトは監督や周囲から情報を集めたり、練習態度を視察したりするなどして、目利きの力が求められる。中尾氏は原口の生活環境から芯の強さを感じ、将来性に期待をかけた。

「彼の置かれている環境が、精神面を強くしている部分があったんです。プロでやっていくには、ハートの弱い子はダメ。キャッチャーとしてそれほど飛び抜けたものはなかったからレギュラーになれるかはわからなかったけれど、結果、バッティングでチームの戦力になりました。オールスターに出てホームランを打ちましたし、自分が担当した選手があれだけ活躍しているのはすごくうれしいです」

 原口は一軍未出場の2012年に腰の故障で育成契約となったものの、2016年に支配下登録されると打棒を発揮して5月の月間MVPを獲得、オールスターに出場する。2019年には大腸癌を患ったが、不屈の精神で同年復帰し、チームが優勝を争う今季は代打で戦力になっている。

 その原口と同学年で、国士舘大学を経て2013年ドラフト6位で入団したのが左腕投手の岩崎優だった。今季16年ぶりのリーグ優勝を狙う阪神でセットアッパーを務め、東京五輪では侍ジャパンの金メダル獲得に貢献している。

「たぶん3球団くらいしか調査書を送っていないと思います。球持ちがよくて、身長もあって腕も長いから、ひょっとしたら化けるかなという部分がありました」

 中尾氏がそう振り返るように、大学時代の岩崎は決して多くの注目を集めたわけではない。185センチと高身長のサウスポーだが、球速は140キロ未満。それでも中尾氏は伸びしろを感じ、球団に獲得を勧めている。

「大学4年生の時に左手の指先を痛めていたんですよ。だから、大したボールはいっていなかった。それを僕は知っていたので」

 一般的にアマチュア監督は、選手の故障の情報を表に出したがらないものだ。一方、国士舘大を率いた永田昌弘監督(現・国士舘高校監督)と中尾氏は親交があり、話のなかから情報を得た。当時の岩崎は球速135キロ程度だったが、指先のケガが治り、140キロ以上出るようになれば一軍で戦力になる可能性が十分にある。そうした将来が脳裏に思い浮かんだ。

 加えて、経歴からも透けて見えるものがあった。岩崎の出身高校は静岡県立清水東で、野球よりサッカーどころの名門として知られている。岩崎自身、甲子園とは無縁だった。

「肩が"若かった"ことも背景にあるんです。そんなに肩を酷使していないこともプラス材料でした」

 ドラフト後に中尾氏が知ったのは、岩崎が野球を本格的に始めたのは中学時代ということだった。父親の方針により、小学生の頃は野球をせずに水泳で肩の周辺を鍛えた。

 そうして高校、大学で力を蓄え、岩崎は2013年ドラフト6位で縦縞のユニフォームを着る。入団3年目まで先発で起用され、4年目の2017年からブルペンに回った。出どころの見にくいフォームからノビのあるストレートを武器に、勝ちパターンで起用されるようになっていく。ストレートの球速が145キロ前後になった現在、守護神ロベルト・スアレスにつなぐ重責を担い、球界を代表する左腕リリーバーとして大車輪の活躍を見せている。

 大学時代、決して多くの球団が評価したわけではないにもかかわらず、なぜ中尾氏は岩崎の可能性を見出すことができたのか。その裏には、独自の方法があった。

「僕はスピードガンを持たずに見ていたんです。カッコよく言えば、自分の目で見たかった。投げた時の初速と終速の差がなければないほうが、バッターは嫌だと感じるものです。そうした部分が"球持ち"と言われるもので、岩崎にはそれがあるように見えました」

 岩崎や原口のように、プロの目に留まるアマチュア選手たちはいずれも独自のアピールポイントを備えている。 "金の卵"たちが憧れてきた世界でスタートラインに立つ裏には、架け橋となるスカウトの存在があるのだ。