「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第21回 長田幸雄・後編  懐かしい「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発…

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第21回 長田幸雄・後編 

 懐かしい「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その魅力に迫るシリーズ連載。"ポパイ"のニックネームで親しまれた長田幸雄(おさだ ゆきお)さんは、1961年、前年に球団史上初の優勝を果たしたばかりの大洋ホエールズ(現・DeNAベイスターズ)に入団して持ち前の強打を発揮した。

 だが、知将・三原脩監督が魅力的なチームをつくりあげた大洋も、その後はどうしてもリーグ制覇に届かず、二度目の優勝まで実に38年もの歳月を要してしまう。2010年、長田さんは自身が経営する日本料理店(現在は閉店)でインタビューに応じ、「あとひとつ勝てば優勝」のチャンスを逃し続けた当時を残念そうに振り返っていた──。




1968年、長田さんは王貞治(手前右)の眼前でホームランを放つ(写真=長田さん提供)

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 長田さんは入団2年目の62年、「よーく遊んでたからねえ」と言いながらも123試合に出場して打率.252、5本塁打、29打点。レフトのレギュラーの座を獲得し、打順は主に6番を打っている。翌63年には5番を任されるようになっていた。

「タフだから。僕に限らず、みんなタフ。酒も飲んだけど、人の見てないとこで努力してたんです。僕は練習なんか女房にも見せない。調子の悪い時は朝4時か5時頃に起きて走って、バットスイングやって、シャワー浴びて。近藤和さんも絶対、見せない人だったし、それが我々の気質だったです。で、三原さんはそんな僕らのことをよく知っている監督でした。

 遊びのことも知ってるし、選手が陰で練習してることも知ってるから、私生活はうるさく言わない。そのかわり、遊んで試合で失敗したら、呼ばれて怒られますよ。それじゃなかったら試合前に呼んでね、『おまえ、この野郎。昨日何時に帰って来たんだ?』『いやあ、早く寝ましたよ』『ウソ言うな! 4時に帰って来ただろ!』って。そういう情報網を持ってるんです」

 選手の私生活に干渉しないようでいて、じつは独自の情報網によって、選手の行動をすべて掌握していた。したたかな監督だと思うし、よほど人心掌握術に長けていたのだと実感できる。

「だからね、選手はうんもすんも言えない。『おまえ、今日使うけど、失敗したら二度と使わねえ!』って脅しかけられるからね。そうすると、選手も火事場の馬鹿力で結果を残すんですよ。そういうとこが普通の監督とは違うんですよね、三原用兵っつうのは」

 西鉄監督時代の三原用兵について、僕はこれまでの取材で何度か聞いていた。が、大洋監督時代の用兵は今初めて長田さんから聞いて、感じたことがある。もしや、大洋監督時代の三原は、西鉄時代以上に選手のことをわかっていたのではないか。

「僕はそう思います。わかってましたよ、我々の気持ちを......。ちょっと失礼」

 店の扉が開いて、背広姿のお客が入口に立っていた。すでに開店の5時を過ぎ、時間的な余裕はなさそうだ──。席に戻った長田さんに、早速、外野席に入ってしまった時の話を聞く。

 1964年7月12日、川崎球場での巨人戦。長田さんがレフトを守っていたところ、酔客にウイスキー瓶を投げつけられた。激怒した長田さんは逃げる客を追ってフェンスをよじ登り、客席に乱入したため、ルール違反で退場処分になったということだ。

「僕はその、巨人キラーだったからね。それがすべてだったから、我々としては。だから狙われたんです。巨人ファンに。もう、その時だけじゃない、何回もやられてるんです。石をぶつけられたりね。
 
 で、その日は守備に就いてポッと振り向いたら、ニッカの四合瓶が耳をかすっちゃったんです。それでウチのファンが『この人だ!』って言うから捕まえに行こうと思って、塀を乗り越えて、追っかけてったんですよ。別に暴行を加えようとか、そんな気持ちじゃなくて」



川崎球場の"乱入事件"について明かす、取材当時の長田さん

 退場処分にはなったものの、審判が事の一部始終を見ていたおかげで、連盟からは注意されただけで罰金などはなかった。それにしても、照れ笑いが続いていた長田さん自ら「巨人キラーだった」と明言するとは、よほど巨人戦で打ちまくったに違いない。

 ある文献資料では長田さんのことを〈熱血漢〉と称しているのだが、客席乱入に限らず、巨人戦では頭に血が上るような出来事がよくあったという。そこまでファンから憎まれるほどよく打っていた、ということは、かなり巨人に対して対抗心があったのだろう。

「対抗意識はありました。それにその年、昭和39年(=1964年)はね、ウチは2位だったけど、3位の巨人に10ゲーム差をつけて、阪神にひとつ勝てば優勝だったんです。ところが最後の4試合、川崎と甲子園でどっちもダブルヘッダーだったのが4連敗しちゃって」



ホームランを打ち、長嶋茂雄のいる三塁を回る長田さん(写真=長田さん提供)

 これは僕自身、大洋の歴史をひも解くまで認識していない事実だった。三原大洋というと、どうしても60年の日本一ばかりがクローズアップされがちだが、64年は前年の5位から優勝まであと一歩の2位だった。

 投手陣では秋山登、稲川誠と20勝投手が2人も出て、新人の高橋重行が17勝を挙げる。長田さんが5番に入った攻撃陣は助っ人のクレス、重松省三らで強化され、「メガトン打線」と呼ばれた。また、それ以前、優勝した翌年の61年には最下位となるも、翌62年も2位に浮上している。隔年とはいえ、当時の大洋は優勝争いに加われる強さがあったのだ。

「昭和37年(=1962年)もね、やっぱりひとつ勝てば優勝でした。でも、それができなかったんですよ。その時も阪神に負けてねえ」

 三原が監督に就任した60年、チームの基盤を作り、選手が優勝を経験した。それによって、低迷してもまた這い上がれるだけの力が備わっていた、ということだろうか。

「ああ、それは言えますねえ。三原さんは常に補強もしてたですからね、若い選手を。だからウチがね、昭和37年と39年、どっちか勝ってりゃあ、プロ野球の歴史はちょっと変わってたんじゃないかと思う。三原さんも半永続的に監督だったと思うしね」

 プロ野球の歴史が変わっていた可能性──。一チームのひとつの勝敗のみならず、ほかにも大きな変わり目はいくつもあったのだと思う。ただ、65年から巨人のV9時代が始まったことを踏まえると、長田さんの言葉はリアルに響く。

 三原は67年限りで大洋を退団。奇しくもその年、長田さんは自身初の二桁となる16本塁打を放ち、翌68年、5試合連続本塁打を達成した。それ以前の63年には8打席連続安打もある。まだ聞けていない[ポパイ]の打棒、ひとたび当たると打ちまくる、その要因は何だったのか。はたまた、記録が続いている時のバッティングの調子、自身の状態はどうだったのか。

「いやあ、別に、記録どうこうなんて気はないからねえ。自然に任せてただけですよ」

 再び照れ笑いが滲み出ている。5試合連続本塁打は、5試合目に2本打っているのが驚異的なのだが、それも自然に任せたとは思えない。何か、普段とは違う境地に入っていたのではないか、と思ってしまう。

「いやいや、はっはっは。境地なんてもんはないですよ。ただ、やっぱり、それも巨人戦だったからねえ。川崎球場で。あれ、堀内と金田さんからも打ってるんですよ」

 持参した資料に視線を落とす。たしかに、5試合連続の3試合目は堀内恒夫、4試合目に金田正一が登板。そして5試合目に高橋明から2本塁打。チームも巨人に3タテを食らわしていて、まさに「巨人キラー」ぶりを発揮したのだった。[記録の神様]宇佐美徹也氏は、4試合連続を何度も達成しながら、なかなか5試合に到達しなかった王貞治のことをこう記している。

〈王が柳に飛びつく蛙よろしく、何度も挑戦している間に、5試合連続記録選手は6人も生まれてしまった。43年の長田幸雄(大洋)などは巨人戦、王の目の前でこの記録を作っている。王の口惜しさは大方想像がつく〉(『プロ野球データブック《最新版》』 講談社文庫)

 逆に、長田さんにとっては痛快な記録達成。当時はまだ誰も達成していないセ・リーグ新記録ゆえ、その意味でも格別な思いがあったのではなかろうか。

「いやいや、我々みたいなもんだからできたんですよ。王なんかは相手にマークされて、勝負してくれないわけだから。とにかく僕は記録に対する色気もなかったし、無心でした。巨人戦でやれてウチが勝ったのはよかったけどね」

「巨人キラー」としての熱さは伝わってくる反面、記録達成の話からも[ポパイ]の打棒は実感できない。その点、長田さんは65年、リーグ6位となる打率.288を残しているが、この時が生涯で唯一の規定打席到達。規定未満でも打率3割達成はない。率を求めるよりも、ホームランを打ちたい、遠くへ飛ばしたい、ということが念頭にあったと推察できる。

「まあ、タイプから言って、そういうバッターだったとは思います。でも、ちょうどその年に肩痛めちゃってね、守れないからスタメンで出られなくなって、30歳過ぎてから代打ばっかし。

 代打はレギュラー以上に相手に嫌がられないといけない。威圧感を与えないと絶対ダメですから。相手になめられたら終わりなんですよ、この世界。だから一球目からどんどん振ったほうがいいんですよ」

 長田さんはそう言うと頭を下げて扉へと向かい、2人目のお客に応対している。しばしの間があって席に戻ったが、開店前から店主自らすべての仕事に当たる姿を見てきて、取材時間は残りわずかと察知した。

 現役時代の後半を代打人生で過ごした長田さんは、76年限りで引退。16年間で1324試合に出場して通算802安打、78本塁打、355打点、打率.266という数字を残した。

 川崎の宮前平で『味処 ポパイ』を開店したのは引退後すぐ、77年のことで、後に横浜の新店舗に移った。僕はふと、長田さんがプロに入ってからそれなりに苦労したと、有本氏がコラムに書いていたことを思い出した。どんな苦労だったのだろう。

「いや、苦労という苦労はしていないんですよ。ただ、優勝はしたかったですね。三原さんの時にもう一回、優勝してたら、大洋の歴史もずいぶん違ってたんだよねえ」

 そうなのだ。プロ野球の歴史以前に、球団の歴史は確かに変わっていた。60年のホエールズの日本一から、権藤博監督のもとでベイスターズが日本一になるまで、38年もかかったのは長過ぎた。

「ああ、もう長過ぎた。しかし、もうちょっと頑張ってもらわないと困るよね、今も」

 結局、99年以降、ベイスターズの優勝はなく、低迷している期間のほうが長い。長田さんは後輩たちをどう見ているのか。気になる選手はいるだろうか。

「いや、別にいないですね」

 即答に苦笑するしかない。それでも僕は、長田さんの系譜を継ぐ左の大砲候補として新人の筒香嘉智の名前を挙げ、期待していることを伝えた。

「ああ、はい、はい。間近に見たことないけど、バッティングはやわらかそうだし、ちっちゃく育てないで、大きく育ってもらいたいね。まずは二軍でじっくり。田代はバッティング教えるのうまいから」

 育成方針の話がすんなり出て、田代富雄二軍監督(現・DeNA巡回打撃コーチ)の指導力にも言及した長田さん。気になる選手はいなくとも、現在もチームとのつながりはあるようで、筒香への期待感が伝わってきたのは嬉しい。

 取材を終えた後、借用をお願いしていた現役時代の写真を見せてもらった。キャビネサイズの一枚にはバットを持ってしゃがむホエールズの選手6人が写っていて、今よりもずっと肉付きのいい長田さんが左端にいる。

「いちばん右にいるのが森徹さん。この人も太ってたし、大洋は重い人が多かったからメガトン打線だったんですよ」



1964年の大洋メガトン打線。左から長田、近藤和彦、桑田武、重松省三、伊藤勲、森徹というスゴい面々(写真=長田さん提供)

 座敷席の壁には、大判の写真パネルが掲げられていた。ホームランを打った長田さんが三塁ベースを踏んだ瞬間、後方にグラブを小脇に抱えた長嶋茂雄が立っている。さらに、カウンターにはA4判ほどのパネルが置かれ、長田さんがバッターボックスから駆け出した直後。

「これは5試合連続の時、金田さんから打ったホームラン。ここにいるのが王です」

 刮目(かつもく)してみれば、長田さんも球審も捕手も、手前でぼやける塁審も一塁手の王も、全員が天を仰いで一点を見ている。ほかに野球的な装飾が一切ない店内で、僕はようやく[ポパイ]の打棒を実感した。

(2010年6月2日・取材)

参考文献:『昨日、今日、明日』(有本義明著/スポーツニッポン2010年3月16日号)