Jリーグは今年29シーズン目、W杯は7大会連続出場を目指している。そんな日本サッカーをここまで前進させ、育ててきた名将と…

Jリーグは今年29シーズン目、W杯は7大会連続出場を目指している。そんな日本サッカーをここまで前進させ、育ててきた名将と言えば、誰になるのか。今回は6人のライターに外国人指導者も含めそれぞれ1位~10位まで10人を選んでもらい、1位10点、2位9点...、10位1点とポイントをつけ集計。日本サッカーの名将トップ10を発表する(同ポイントで10位が2名、3位が4名います。合計11名を紹介します)。

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日本サッカーを育てた名将は誰か?

10位:鬼木達

 もし今季も川崎フロンターレが優勝すれば、就任5年目で4度のJ1優勝。名将と呼ぶにふさわしい驚異的な記録である。

 正直、就任1、2年目は、風間八宏・前監督の"遺産"をうまく活用している印象が(先入観も含めて)あったが、その後も世界的潮流に沿った戦術をアップデートし、確実にチームを強化している。

 加えて目を引くのは、"コロナ仕様"のサッカーにいち早く適応した点だ。過密日程における選手起用もそうだが、試合の流れを変えてしまう選手交代のうまさは群を抜く。

 海外の試合を見ていても、これほど5人交代をうまく使える監督は多くなく、せっかくの5枠を持て余す例もよく目にする。こと5人交代の活用においては、世界屈指の監督ではないかとさえ思う。
(浅田真樹/文)

10位:アルベルト・ザッケローニ

 アーセン・べンゲル、イビチャ・オシム、そして2010年W杯後から日本代表監督を務めたイタリア人のアルベルト・ザッケローニの3人は、実績的にもネームバリュー的にも、日本サッカーに携わった世界的名監督のビッグ3と言える。

 とりわけ、1990年代以降に日本のファンが夢中になったセリエAで、画期的な攻撃サッカー(3-4-3)を築き上げたザッケローニが日本代表監督に就任した時の興奮は、いまも記憶に新しい。しかも、当時の年齢は57歳。まだ指導キャリアの真っ只中にあった。

 就任後にはイタリア式ゾーンディフェンスを徹底指導するなどその手腕は本物で、2011年アジアカップ優勝を含めて序盤からインパクトは大。

 残念なことに、ブラジルW出場決定後は日本人に忖度する傾向が強くなって尻すぼみしてしまったが、今後もこれだけのビッグネームが日本代表監督を務める可能性は低いと思われる。
(中山淳/文)

9位:加茂 周

 実業団時代の日本サッカーは、一流選手も一般サラリーマンと同待遇で、引退後は定年まで会社に勤めるのが普通であり、監督も会社から給料をもらい、強化に失敗しても社業に戻るだけだった。

 だが、加茂周は日産自動車(現、横浜F・マリノス)監督に就任する時に単年契約、つまりプロ監督となることを選択。そして、選手の雇用形態もプロに近い形の契約として代表クラスの選手を多数入団させ、県リーグ所属だった日産を日本最強クラブに育て上げて数々のタイトルを獲得した。

 つまり、加茂はアマチュア時代からプロ時代への過渡期に活躍したプロデューサー型の指導者だったのだ。全日空(後の横浜フリューゲルス)時代にはスロベニア人のズデンコ・ベルデニックをコーチに迎えて、「ゾーンプレス」として知られる当時では最新のプレッシング戦術も取り入れた。
(後藤健生/文)

8位:風間八宏

 日本人監督のなかで、風間八宏は最も革新的なサッカーに取り組み、一つの答えを叩き出した。優れた監督、勝てる監督は、ほかにいくらでもいる。しかし新しいものを作った「創造的な日本人指導者」として一線を画す。

 川崎フロンターレで起こした‟革命"は、サッカーのヒントに満ちていた。ボールプレーの極意というのか。多くの選手を啓発し、今もそのモデルのなかで、選手が洗練されている。

 際立った論理と、膨大な熱量を同時に持つ指導者と言える。

 15年ほど前、筆者は風間氏に1日密着する取材をした。午前中は横浜の大学での練習指導。午後は車で清水へ移動し、夕方から夜に再び地元少年を指導。遅い夕食を取った後、都内のスタジオまで車で戻り、深夜から欧州サッカーのテレビ解説をしていた。指導している間はもちろん、車内でもぶっ続けのサッカー論だった。

‟サッカーを生きる"ことで、その革新性は生まれたのか。日本サッカーにおいて、その存在は特別だ。
(小宮良之/文)

7位:岡田武史

 日本サッカーで、「最も勝てる監督」として一つの道筋を示した。マリノスでは2003、04年にJリーグを連覇。鉄壁の守備を作り上げ、歴史を作った。

 代表監督としては2度、ワールドカップを戦っている。1998年フランスW杯では、日本を初めて世界に導いた。Jリーグが開幕し、日韓W杯開催も決まり、日本サッカーの気運が高まるなか、リリーフで窮地にいたチームをまとめた功績は大きい。2010年南アフリカW杯では、国外のW杯で初めてベスト16に導いた。

「人間万事塞翁が馬」

 そんな達観した哲学で、集団を結束させた。久保竜彦、松田直樹のように、他の監督では扱いを持て余しそうな選手に対しても、求心力は抜群だった。また、若手を使うタイミングも心得ていて、世代交代を断行できるリーダーシップは特筆に値した。

 ただプレースタイルは、「勝てる監督」というより「負けない監督」にとどまった。ディフェンスを堅牢に拵(こしら)え、相手の持ち味を消す。徹底した受け身の戦いは、日本サッカー発展のプロセスで不可欠だったが......。
(小宮良之/文)

3位:西野朗

"緊急登板"した2018年ロシアW杯で、卓越したリーダーシップを発揮したのはまだ記憶に新しいが、Jリーグ歴代最多勝監督であるうえ、1996年アトランタ五輪代表監督としても実績を残しているのだから、日本サッカー史に残る名将であることは間違いない。

 Jリーグでは、柏レイソルに初タイトル(ナビスコカップ優勝)をもたらし、ガンバ大阪では魅力あふれる攻撃的スタイルのチームを作り上げ、J1初制覇。名古屋グランパスでも、何かしらの結果を残せれば言うことなしだったが、それでも実績は申し分ない。

 マイアミの奇跡で知られるアトランタ五輪も、結果的にグループリーグ敗退に終わったが、世界における当時の日本の立ち位置を考えれば、超のつく大健闘だった。
(浅田真樹/文)

3位:フィリップ・トルシエ

 2002年日韓W杯に向けて、日本代表の強化を任されたのがフィリップ・トルシエだった。同大会で日本は2勝1分でグループリーグを1位通過して決勝トーナメント進出という目標を達成した。

 2000年のアジアカップでも日本は優勝。同大会の国外開催時の優勝はこれが最初であり、しかも前回優勝のサウジアラビアに大勝するなど内容的にも圧勝だった。

 トルシエは単にA代表を強化しただけではなく、いわゆる「黄金世代」を含めた若手中心でチーム作りを進め、1999年のワールドユース(現U-20W杯)で決勝進出。2000年のシドニー五輪でもベスト8進出と、年代別大会でも好成績を残した。

 若い選手たちを生み出したのは日本人指導者の功績だが、彼らを"戦える選手"として鍛え上げたことこそトルシエの最大の功績だ。
(後藤健生/文)

3位:アーセン・ベンゲル

 モナコで1993-94シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)準決勝まで駒を進めたアーセン・ベンゲル監督が、その翌シーズン、名古屋グランパスにやってきた。

 マウリシオ・ポチェッティーノ、ジョゼップ・グアルディオラ、ジネディーヌ・ジダン、トーマス・トゥヘル。昨季のCLベスト4の監督で言うならこの4人になるが、当時は情報が乏しかった時代だ。欧州サッカーはまさに遠い存在で、ベンゲルと言われてピンと来る人は少なかった。

 日本サッカーの遅れについて、理解している人も同様に少なかった。日本で初めてプレッシングを提唱した指導者として知られるのは、加茂周元日本代表監督だが、同氏が任期の最後までそれを実現することができなかったのに対し、ベンゲルは就任直後から名古屋にプレッシングを浸透させた。特段、声高にプレッシングを叫ぶことなく、だ。

 日本の指導者がプレッシングを理解したのは、ベンゲルが名古屋を離れてからおよそ10年後。当時の名古屋は、つまり10年進んだサッカーをしていた。
(杉山茂樹/文)

3位:ハンス・オフト

 日本初のサッカープロリーグ(Jリーグ)が産声をあげる直前の1992年、史上初の外国人監督として日本代表を指揮したのが、オランダ人のハンス・オフトだ。

 オフトが頻繁に口にした「スモールフィールド」「アイコンタクト」「スリーライン」といったサッカー用語は、選手のみならず、メディアを通して一般のファンにも浸透。そうした社会現象も含め、日本が世界へ羽ばたくための礎を作ってくれた名将だった。

 結局、ドーハの悲劇によって1994年アメリカW杯出場は叶わなかったが、オフトが代表を率いた2年間で、日本サッカーが手にした財産は多い。

 夜明け前の日本サッカーと、育成的指導に長けたオフトとのマッチングの妙。もしあの時代の日本代表監督がオフトでなかったら、日本サッカーの成長速度はもっと遅くなっていた可能性は高いだろう。
(中山淳/文)

2位:ミハイロ・ペトロヴィッチ

 サンフレッチェ広島の黄金期の土台を築き、低迷する浦和レッズを立て直し、昇降格を繰り返すコンサドーレ札幌をJ1に定着できるチームに仕立て上げた。異なる3クラブでこれだけの成果を生み出したのは、Jリーグの歴史においてミシャ以外には見当たらない。

 それを可能としたのは、揺るぎない哲学の下で熟考された、たしかな戦術があるからにほかならない。代名詞の3-4-2-1のシステムをベースに、最終ラインからボールをつなぎ、センターバックにも攻撃参加を求め、美しく勝つサッカーを追求し続ける。

 たしかにタイトルには縁遠いかもしれないけれど、結果以上のものを、選手にも観る者にももたらしてくれる。稀代の戦術家であり、生粋のエンターテイナーは、人間性にも優れ、多くの教え子たちに愛される続ける情熱の人でもある。
(原山裕平/文)

1位:イビチャ・オシム

 ユーゴスラビア対アルゼンチン。フィレンツェのアルテミオ・フランキで行なわれた1990年イタリアW杯準々決勝は、0-0で延長PK戦に及ぶ熱戦となった。そこで指揮を執っていたユーゴスラビアのイビチャ・オシム監督は、その9年後(1999-2000シーズン)、シュトルム・グラーツというオーストリアの弱小チームを率いてチャンピオンズリーグ(CL)本大会に出場。翌2000-01シーズンには、見事CL2次リーグ(ベスト16)に駒を進めている。

 来日は2003年。ジェフユナイテッド市原(現在は千葉)の監督に就任するや、成績を急上昇させる。すると、時のサッカー協会会長の川淵三郎は、2006年、日本代表監督に強引とも言える手法でオシムを引き抜いた。

 それまで優に10年分は存在した欧州との実力差は、これをもって大きく縮まった。

 1度ロングインタビューをしたことがあるが、何時間でも話をしていたい、話術、評論性に優れた、まさしくサッカー的な監督だった。
(杉山茂樹/文)

◆トップ10ランキング
1位(45ポイント)イビチャ・オシム
2位(26ポイント)ミハイロ・ペトロヴィッチ
3位(25ポイント)ハンス・オフト/アーセン・ベンゲル/フィリップ・トルシエ/西野朗
7位(23ポイント)岡田武史
8位(18ポイント)風間八宏
9位(13ポイント)加茂周
10位(11ポイント)アルベルト・ザッケローニ/鬼木達

◆各識者のランキング
杉山茂樹氏(スポーツライター)
1位:アーセン・ベンゲル/2位:ルイス・フェリペ・スコラーリ/3位:イビチャ・オシム/4位:ハビエル・アギーレ/5位:ズデンコ・ベルデニック/6位:鬼木達/7位:アンジェ・ポステコグルー/8位:石井正忠/9位:加茂周/10位:吉武博文

小宮良之氏(スポーツライター)
1位:風間八宏/2位:フィリップ・トルシエ/3位:岡田武史/4位:西野朗/5位:イビチャ・オシム/6位:アーセン・ベンゲル/7位:ハンス・オフト/8位:アルベルト・ザッケローニ/9位:ミハイロ・ペトロヴィッチ/10位:ミゲル・アンヘル・ロティーナ

原山裕平氏(サッカーライター)
1位:ミハイロ・ペトロヴィッチ/2位:イビチャ・オシム/3位:風間八宏/4位:岡田武史/5位:ハンス・オフト/6位:西野朗/7位:森保一/8位:オズワルド・オリヴェイラ/9位:アンジェ・ポステコグルー/10位:鬼木達

中山 淳氏(サッカージャーナリスト)
1位:アーセン・ベンゲル/2位:イビチャ・オシム/3位:アルベルト・ザッケローニ/4位:デットマール・クラマー/5位:ハンス・オフト/6位:加茂周/7位:オズワルド・オリヴェイラ/8位:カルロス・ケイロス/9位:ハビエル・アギーレ/10位:ハビエル・アスカルゴルタ

浅田真樹氏(スポーツライター)
1位:西野朗/2位:ミハイロ・ペトロヴィッチ/3位:ハンス・オフト/4位:フィリップ・トルシエ/5位:イビチャ・オシム/6位:鬼木達/7位:ネルシーニョ/8位:曺貴裁/9位:吉武博文/10位:小林伸二

後藤健生氏(サッカージャーナリスト)
1位:長沼健/2位:フィリップ・トルシエ/3位:岡田武史/4位:イビチャ・オシム/5位:加茂周/6位:ミハイロ・ペトロヴィッチ/7位:森孝慈/8位:西野朗/9位:ネルシーニョ/10位:ハンス・オフト