第89回選抜高校野球大会は30日、準決勝が行われ、報徳学園(兵庫)が履正社(大阪)に4-6で逆転負け。今大会限りで勇退を表明していた名将・永田裕治監督(53)は、15年ぶりの優勝まであと2勝で最後の甲子園を終えた。突然の「勇退劇」だった。1…

第89回選抜高校野球大会は30日、準決勝が行われ、報徳学園(兵庫)が履正社(大阪)に4-6で逆転負け。今大会限りで勇退を表明していた名将・永田裕治監督(53)は、15年ぶりの優勝まであと2勝で最後の甲子園を終えた。突然の「勇退劇」だった。1月27日。3年ぶり21度目の選抜出場を決めた日、吉報の後で自らの勇退を明かした。50代。指導者として老け込む年齢ではない。数々の名選手を育ててきた名将の早すぎる決断に、高校球界が揺れた。

■準決敗退も驚異の粘り、1月に退任表明の指揮官「報徳の野球は最後まで諦めない」

 第89回選抜高校野球大会は30日、準決勝が行われ、報徳学園(兵庫)が履正社(大阪)に4-6で逆転負け。今大会限りで勇退を表明していた名将・永田裕治監督(54)は、15年ぶりの優勝まであと2勝で最後の甲子園を終えた。

 名門の意地を見せた。2回まで2点を先行されながら、3回に追いつき、6回に勝ち越し。1点リードの9回は1死から4点を奪われ、逆転を許した。3点差、万事休す――。誰もがそう思ったが、その裏に1点を返し、なお1死一、三塁。一発で逆転というところまで迫った。最後は併殺であと一歩及ばなかったが、かつて「逆転の報徳」と呼ばれた名門の底力を存分に発揮した。

「報徳の野球は最後まで絶対に諦めない。それから全員野球。これからも同じ方向を向かっていってほしい。レギュラーになれないからとかじゃなくて、ね。芯を持ってやっていってほしい」

 何度も喜びの声を発したお立ち台に立つと、永田監督は最後まで粘り抜いた教え子を温かくねぎらった。

 突然の「勇退劇」だった。1月27日。3年ぶり21度目の選抜出場を決めた日、吉報の後で自らの勇退を明かした。50代。指導者として老け込む年齢ではない。数々の名選手を育ててきた名将の早すぎる決断に、高校球界が揺れた。

■「お前らは弱い」―練習に厳しい鬼監督、それでも選手、OBから厚い人望

 報徳学園出身。高校3年生の夏、右翼を守り、エースの金村義明氏(元近鉄、野球評論家)とともに全国制覇を達成。中京大に進み、桜宮(大阪)でコーチを務め、1994年に母校の監督となった。これまで春10度、夏7度と甲子園に出場。2002年は大谷智久(ロッテ)を擁してセンバツ優勝。選手でも監督でも頂点に立った。

 とにかく練習には厳しい監督だった。グラウンドでは怒号が響く。「もう練習に加わらなくていい!」「走っとけ」「こんなことされては、試合で使われへん」「帰れ」。ミスをしたり、一度言ったことを守らなかったりしたら容赦はしない。生徒たちが「やらせて下さい!」と懇願しても受け入れない。今年にチームについても「お話にならない」「お前らは弱い」と突き放しながら、指導をしてきた。それでも、選手たちは歯を食いしばって付いてきた。

 西宮市にあるグラウンドは、甲子園球場にほど近い。専用グラウンドではないが、外野は人工芝、照明も完備。全体練習が終わっても率先して自主練習する選手の姿がある。ウエート場なども野球の施設はしっかりと整備されている。練習環境は良いと言っていい。同校野球部の出身者はプロはもちろん、社会人野球の名門チーム、関東、近畿、九州と名門大学へと進んでいる。OBらからの人望も厚い。

 有望な中学生も「報徳で野球をやりたい」と入ってくる。今年のエースの西垣雅矢、篠原翔太の3年生バッテリーは全国クラス。一塁手の神頭勇介、遊撃手の小園海斗の2年生コンビは、早くもプロ球団のリストに挙がっている。来年以降も十分に全国トップクラスといえる戦力がいる。保健体育の教師でもある永田監督に、厳しい人間教育を託す親は少なくない。教え子たちもコーチとして力をつけてきた。

 それなのに、なぜ辞めるのか。大会前、指揮官は明かした。

■94年の就任当初はコーチ不在、環境も戦力もこだわった“お膳立て”

「いい形でバトンを渡したかったからです」

 永田監督が94年に就任した時はコーチは一人もおらず、自分一人でチームを作った。今は3人の部長、コーチが報徳学園OBでチームを任せられるようになった。97、98年と4季連続で甲子園出場した時の捕手、大角健二現部長が永田監督の後を継いで監督に就任する。同校卒業後、立命大を経て、2003年からコーチになり、13年間ともに戦った。生徒たちからの人望もあり、バトンを渡せるまでに成長した。

 グラウンドの環境も就任時とは比べものにならないくらいの施設に整えたのも永田監督だった。生徒たちの進路のレールを敷いたのもそう。野球指導の厳しい顔を持つだけでなく、陰で人脈を駆使し、進学先などを探し、頭を下げに行っていた。進学先でOBたちはしっかりと野球、勉強を行うため、受け入れ先も年々、増えていった。中学野球にも熱心に足を運び、選手のことを考えて、成長させてきた。記念すべき来年の夏の甲子園100回大会に向けても「優勝できる力はありそうだ」と手応えもある。

 環境も戦力もいい。すべて“お膳立て”ができたから、辞める決意をした。

「何もなかったら、次やる人に申し訳ないからね」

 どのような形で野球部に籍を残すかは、まだ決まっていない。選手に時間を注いできたため、「迷惑をかけ続けた」という家族と過ごす時間も増えるだろう。すべては教え子のため――。それが、突然の「勇退劇」の裏に込められた思いだった。