「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(5)スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ 第4回:ザ・ファンクスとハーリー・レイスの素顔>> 昭和の全日本プロレスのマットを彩った伝説の外国人レスラーたち。草創期から全日本のすべてを知る和田京平…

「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(5)
スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ 第4回:ザ・ファンクスとハーリー・レイスの素顔>>

 昭和の全日本プロレスのマットを彩った伝説の外国人レスラーたち。草創期から全日本のすべてを知る和田京平「名誉レフェリー」が、レジェンドたちの秘話を明かす。連載の第5回は、「不沈艦」スタン・ハンセンと「超獣」ブルーザー・ブロディ。



1984年の世界最強タッグリーグ戦で、ブロディがラッシャー木村をベアハッグし、ハンセンがラリアット

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 1973年にプロレスデビューしたハンセンは、2年後に全日本プロレスの興行で初来日した。当時はほとんど注目されなかったが、1976年にWWWF(現WWE)に参戦すると、同年の試合で「必殺技『ウエスタンラリアット』で王者ブルーノ・サンマルチノの首を折った(※)」という触れ込みで、一躍スポットライトを浴びることになる。

(※)実際はハンセンがボディスラムで手を滑らせ、サンマルチノが首を強打して骨折したと言われている。

 そして1977年からは新日本プロレスに参戦。以後、アントニオ猪木のライバルとしてトップ外国人レスラーの地位を築いた。

 そのハンセンに転機が訪れたのが1981年12月だった。新日本にアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜かれた全日本が、逆にハンセンを引き抜いたのだ。12月13日に蔵前国技館で行なわれた「世界最強タッグ」最終戦で、ザ・ファンクスと対戦するブロディ、ジミー・スヌーカ組のセコンドに就いてファンを驚かせた。

 和田は、大事件になったハンセン引き抜きに至る秘話を明かした。

「ハンセンの引き抜きを主導したのはテリー・ファンクなんです。テリーとドリーは、全日本の外国人を招聘する『ブッカー』の仕事もしていたので、ブッチャーを引き抜かれた仕返しに、新日本さんの外国人を引き抜いていった。

 ただ、最初はハンセンではなくて、ハルク・ホーガンに声をかけたんですよ。馬場さんもテリーのアイディアに乗って、交渉を任せたんですね。それでホーガンも一度はOKしたんですが、土壇場になって『やっぱり、ニュージャパンに残る』と決断を翻した。これにテリーが激怒して、ホーガンが泊まっていた新宿のホテルに弟分のディック・スレーターと一緒に乗り込んだんです。

 それ以降、ホーガンは2度と全日本には関わらなかった。それでテリーはハンセンにターゲットを変えて、引き抜きに成功したんですよ」

 ハンセンは、デビュー時にドリーとテリーからプロレスの指導を受けており、そうした縁から移籍が実った。初登場した蔵前国技館の控室で、和田はハンセンの姿を目撃している。

「試合前に控室へ行くと、ハンセンがテンガロンハットを被ってブロディたちと会話していたんです。その時点で俺は事情を知らなくて、2人は同じ大学(ウエスト・テキサス州立大)の同級生だったから『仲がいいから遊びに来たのかな』と思っていた。それが、入場で一緒に出てきたから驚きましたよ。場外戦でテリーにラリアットを食らわせたりしたので、『全日本に来るんだ』とわかりましたけど、とにかくあの登場は衝撃的だったよ」

 1982年1月から全日本に参戦したハンセンは、そこでも一気にトップ外国人レスラーとして活躍した。

「全日本への参戦が決まった時、馬場さんとハンセンの間で約束を交わしたんです。それは、具体的な額はわからないけど、破格のギャラと、年間全シリーズに呼ぶという約束。馬場さんの『俺が目の黒いうちは保証する』というお墨つきです。

 さらにアメリカとの往復の飛行機はファーストクラス。待遇は全日本の歴史を振り返ってみてもトップでしょうね。これは有名な話ですが、いつもハンセンは日本に手ぶらで来るんだけど、帰りはアタッシュケースを持って帰った。その中には、『ドルの札束が詰まっていた』という都市伝説があるくらい稼いでいましたね」

 リング上では、ウエスタンラリアットを振り回して猛威を振るっていたが、実は極度の近視で視力が悪かった。

「試合中はコンタクトもしてないから、ラリアットがどこに当たるかわからない。だから相手は怖がっていましたよ。馬場さんも『あいつは、どこへ突っ込んでいくかわからない』と苦笑いしていました。

 お客さんにも迷惑をかけてね。一度、大阪の試合での入場で、トレードマークだったブルロープを振り回したら、最前列に座っていたおばあちゃんに当たってしまって。さすがにハンセンも『マズイ』と思ったのか、リングサイドを一周したあとにおばあちゃんのところに行って、耳元で『ごめんなさい』と囁いて謝っていましたよ(笑)」

 そして試合から離れると、意外な行動を見せていたという。

「彼は地方に行くと、ひとりでお寺を巡るのが好きでね。俺も、お寺でハンセンを何度か見たことがありました。スタッフに聞いた話では、日本の神社仏閣が好きで、時間があればお寺を回っていたそうです。もしかしたら、日本人よりもいろんな寺や神社に行っているかもしれないね」

 そんなハンセンは、自分の試合を和田がレフェリングすることに難色を示していたという。1972年の旗揚げから1980年代中盤まで、全日本のメインレフェリーはジョー樋口で、和田は"その下"だった。

「ハンセンと俺には、簡単に言うと信頼関係がなかったんです。ハンセンには『俺の試合を裁くのは、ジョーさんだ』というプライドがあって、『和田京平は格下だ』みたいな感じだったんだと思います」

 ハンセンが和田への態度を変えたのは、馬場が亡くなり、2000年6月に三沢光晴らが大量離脱して「プロレスリング・ノア」を旗揚げし、全日本が分裂した時だった。分裂直後のシリーズに参戦したハンセンが、団体に残留した和田を見た時に感激を露わにしたという。

「控室でハンセンが俺を見て、向こうから握手を求めてきたんです。『お前は、三沢と仲がよかったのになんで残ったんだ』と感動してくれて、『お前は裏切らなかったのか』って手を握りしめられてね。その時、初めてハンセンから認められたんです。それからは、俺が試合を裁くことも快く受け入れてくれましたよ」

 ハンセンの全日本参戦で、タッグを組んだのがブロディだった。「2人とも控室では、リング上とは違って物静かだった」と和田は振り返る。ただ、ブロディには近寄りがたいオーラがあったという。

「ブロディは、ひとり静かに読書していることが多くて、近寄りづらい雰囲気がありました。試合前にコーヒーを持っていくと、ほとんどの外国人選手は喜んで反応してくれるんだけど、ブロディだけは笑顔もなかったですね。

 そして試合では、理にかなわないことは一切、受けつけなかった。自分より体が小さい相手には絶対に投げられなかったし。だから、ミル・マスカラスが飛んできても、キャッチして投げ飛ばしちゃう。『そんな子供だましやれるか』っていうプライドでしょう」

 ブロディは全日本のトップ外国人レスラーとして活躍したが、1985年4月に新日本に引き抜かれる。しかし、新日本では試合をボイコットするなどトラブルが連続して、1987年10月に全日本へ復帰する。

 和田が忘れられないのは、翌年3月27日、日本武道館でジャンボ鶴田のインターナショナルヘビー級王座に挑戦した試合だった。勝ったブロディがうれしさのあまり、リング上で人目をはばかることなく涙を流したのだ。

「チャンピオンは許された者しかなれないので、一度裏切って新日本に行った自分がジャンボに勝ち、ベルトを巻けるなんて思っていなかったんでしょう。馬場さんは、裏切ったブロディのことを、それだけ認めていたんですね。ブロディはその思いがうれしくて、あの涙になったと思います」

 しかし、その試合から約4カ月後の1988年7月17日――。プエルトリコでの試合後の控室でレスラーに刺されたことが原因で、ブロディは42歳の若さでこの世を去った。

 親友のハンセンは、ブロディ亡きあとも全日本マットに参戦を続け、2001年1月28日、東京ドーム大会で引退式を行なった。「ミラクルパワーコンビ」と謳われたハンセン&ブロディのタッグを、和田は「間違いなく全日本の歴史の中で最強タッグでした。あれだけ、すごいタッグチームはもう2度と出てこないでしょう」と目を細めた。

(=敬称略)

(三沢、ジャンボ......伝説の名勝負3選>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。