「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(4)ザ・ファンクス&ハーリー・レイス 第3回:「プロ」の悪役だったブッチャー>> 昭和の全日本プロレスのマットを彩った伝説の外国人レスラーたち。草創期から全日本のすべてを知る和田京平「名誉レフェリ…

「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(4)
ザ・ファンクス&ハーリー・レイス 第3回:「プロ」の悪役だったブッチャー>>

 昭和の全日本プロレスのマットを彩った伝説の外国人レスラーたち。草創期から全日本のすべてを知る和田京平「名誉レフェリー」が、レジェンドたちの秘話を明かす。連載の第4回は、兄弟タッグ「ザ・ファンクス」で日本人に愛されたドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク。そして、伝説のNWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)王者ハーリー・レイス。



共にNWA世界王者で、日本のリングでも大活躍したハーリー・レイス(左)とザ・ファンクス

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 ドリーとテリーはそれぞれ、世界でもっとも権威があったタイトル「NWA世界ヘビー級王座」を獲得。日本プロレス時代から「ザ・ファンクス」として来日し、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の「BI砲」を破ってインターナショナルタッグ王座を奪取した、世界最高の実力と実績を誇る兄弟だった。

 全日本プロレス旗揚げ後は、当時の外国人レスラーとしては珍しいベビーフェイスとして、日本中のプロレスファンに愛された。そのきっかけについて和田は、「1977年12月15日、蔵前国技館で行われた『オープンタッグ選手権』最終戦の、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組との対決だった」と断言する。この試合で、ブッチャーのフォーク攻撃で腕を刺されながら戦ったテリーの姿が感動を与えた。

「ファンクスの人気があそこまで上がったのは、テリーがブッチャーにやられたからです。今の時代ならテレビでは放送できない攻撃。あれだけフォークで刺すというのは、振り返るだけでゾッとするんだけど、ブッチャーが徹底的にやってくれたからこそ、ファンはテリーに拍手したんでしょう。あのやられっぷりが堪らなかった。逆に言えば、ブッチャーがいなければ、テリーはあれだけの存在になっていなかったはずです」

 ドリーとテリーの兄弟は、父親でプロレスラーのドリー・ファンク・シニアの影響と指導を受けてレスラーとなり大成した。シニアと全日本プロレスの関係は深く、デビュー前のジャンボ鶴田、天龍源一郎がテキサス州アマリロに住むシニアの自宅でプロレス修行をするなど、ファンク一家は選手を育ててくれたコーチでもあった。

「シニアと馬場さんはそういう関係性だったから、ファンク一家については馬場さんも文句が言えませんでした。他の外国人レスラーと違って、"別格"とも言っていい存在でしたね」

 リングを離れた時の姿で思い出すのは"マイペースぶり"だという。

「電車でもバスでも移動する時には、言い方は悪いけど、チンタラして行動が遅いんですよ。ホテルでバスの出発時間なのに、まだレストランで朝飯を食べているとかね。あと、ドリーは自分のバッグを持たなかった。ある時、バッグが外に置かれたままバスが出発したことがあって、ドリーは『なんで持ってこないんだ』と若手に怒ってね。馬場さんが『バッグくらい自分で持てよ』と注意すると、ドリーは『あれは、ヤングボーイ(若いレスラー)の仕事だ』って言い返して。馬場さんも呆れてました(笑)。

 テリーも自由奔放で、天然なイメージでしたね。馬場さんは、NWA世界チャンピオンになったレスラーが来日する際、飛行機はファーストクラスを用意していました。そこに乗っている人は社会的に地位のある人ばかりなんだけど、テリーは短パンにビーチサンダルで乗ってくる。テリーらしいといえばそれまでなんだけど、馬場さんは『頼むよ。もうちょっとちゃんとしてくれよ』って嘆いていました(笑)」

 リング上で息の合った連係プレーを見せていた兄弟は、私生活でも仲がよかったという。しかし、テリーが膝のケガを理由に39歳で引退。1983年8月31日に蔵前国技館で引退試合を行ない、「ザ・ファンクス」は消滅した。 

「実はテリーが引退したのは、映画俳優になろうと思ったからなんです。1978年にシルベスター・スタローンが監督・主演した映画『パラダイス・アレイ』に出て、その時にスタローンと仲よくなった。テリーもプロレスより映画俳優のほうが稼げるとその気になったそうなんですよ。

 馬場さんが引退する時に『甘っちょろい考えしてるな』と言ったんですが、やはりそうは問屋が卸さなくて、俳優としてはうまくいかなかった。翌年に復帰した時は、『やっぱりな』と思っていたと思いますよ」

 リング上でまばゆい光を放っていたザ・ファンクスだが、私生活では周囲を振り回していたようだ。

 一方、同じNWAのタイトルを手にしたレスラーのなかで、和田がもっとも忘れられないのはハーリー・レイスだという。レイスは通算7度にわたって世界最高峰の王座を極め、「ミスタープロレス」と呼ばれて選手の間でも尊敬されていた。

「レイスは受け身の大天才です。『美獣』という異名だったんだけど、どこが美しいのかといえば、それは受け身の美しさ。馬場さんも若い選手に、『受け身はレイスを見て勉強しなさい』と教えていました」

 レイスは1968年2月に日本プロレスの興行で初来日し、1973年2月からは全日本のリングでも活躍。NWA王者になったあとも日本の興行に参戦を続け、1982年8月にジャンボ鶴田からUNヘビー級王座を、その約2カ月後にはジャイアント馬場からPWFヘビー級王座を奪取するなど、看板レスラーとして幾多の激闘を演じた。

 レイスはリングを離れれば、親分肌で後輩レスラーたちの面倒見がよかったという。

「お酒を飲む時も、お店に外国人選手をみんな呼んでいましたよ。そして、支払いはすべてレイス持ち。思い出すのは、和歌山県の南紀白浜で試合があった時に、海っぺりのレストランに日本人も外国人も呼んで、みんなに酒をもてなしていた姿ですね。あれはカッコよかった。まさにNWA世界王者という風格がありましたね」

 生前、馬場は「NWA世界王者になるレスラーは、受け身のうまさとリング上で醸し出す品格が大切だ」と唱えていた。

「リック・フレアーも、レイスと同じように受け身のうまさがあってチャンピオンになりました。NWA世界チャンピオンは、全米のあらゆるテリトリーを渡り歩くから、その地区のトップを引き立たせないとダメ。そのためには、相手の技をうまく受けられないといけないんです。

 だけど、受け身はうまいしプロレスの天才だったディック・マードックは、馬場さんも『品がない。あれではチャンピオンになれない』と言っていたように、実際にチャンピオンになれなかった。NWAで王座を獲得できたのは、ジャック・ブリスコ、ザ・ファンクス、フレアー、そしてレイス......リング上での品があるレスラーばかりでした」

(=敬称略)

(第5回につづく>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。