「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(3)アブドーラ・ザ・ブッチャー 第2回:マスカラスが投げたマスク争奪戦の裏側>> 昭和の全日本プロレスのマットを彩った伝説の外国人レスラーたち。草創期から全日本のすべてを知る和田京平「名誉レフェリ…

「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(3)
アブドーラ・ザ・ブッチャー 第2回:マスカラスが投げたマスク争奪戦の裏側>>

 昭和の全日本プロレスのマットを彩った伝説の外国人レスラーたち。草創期から全日本のすべてを知る和田京平「名誉レフェリー」が、レジェンドたちの秘話を明かす。連載の第3回は、昭和50年代に絶大な人気を誇ったアブドーラ・ザ・ブッチャー。



テリー・ファンク(右)を凶器で攻撃するブッチャー

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 ブッチャーの初来日は、1970年に行なわれた日本プロレス「サマーシリーズ」でのこと。188cm、140kgと「あんこ型」の体型を思わせない俊敏な動きと、凶器を駆使する悪役として注目を集めた。

 人気が急上昇したのは全日本プロレス旗揚げ後だった。なかでも1977年12月の「世界オープンタッグ選手権」最終戦の蔵前国技館大会では、テリー・ファンクの腕にフォークを突き刺し、その残虐行為で悪役としての地位を揺るぎないものとした。

 和田が思い出すのは、全国どこへ行っても額から流血して会場を沸かせる"プロ魂"だという。

「ブッチャーは本当に毎回、どこの大会でも血を出していました。あの流血を見て『この人はどういう人なんだ。すげぇ』って驚いたことを覚えてますよ。とにかく、徹底していましたよね」

 ブッチャーが場外乱闘で暴れまわる時には、恐怖も感じたという。

「ブッチャーは、場外で暴れまわる時にお客さんを追いかけるんだけど、それには彼なりの法則があって、自分が知っている人しか追いかけないんです。知らない人に手を出してケガをさせたら大変ですから。俺もよく追いかけられましたね。

 あと、(馬場さんの妻の)元子さんを見ると必ず追いかけていましたよ(笑)。だから、俺が元子さんと一緒に客席の後ろでブッチャーの試合を見ていると、元子さんが『あっ!ブッチャーが来る』と俺を盾にして逃げるんだよね。あれは怖かったなぁ」

 同じ「凶悪レスラー」でも、ブッチャーと対照的だった外国人レスラーがいたという。それは、1981年7月に新日本プロレスから全日本に移籍したタイガー・ジェット・シンだ。

「シンは、ブッチャーと違って無差別にお客さんを襲うし、会場の床を壊したり、窓ガラスを割ったりしてね。その頃に、全日本は観客のケガ、器物を破損した場合の補償として保険に入ったんです。シンには参りましたよ......。あんなヤツには二度と会いたくないです(笑)」

 シンと違って、悪役としての"マナー"を守っていたブッチャー。ザ・シークとの「史上最凶コンビ」で暴れまわったが、実はシークとの仲はそれほどよくなかったという。その根底には、今以上に根強かった人種差別問題があった。

「シークとは控室もバラバラ。ブッチャーも差別的な空気を自分で感じていて、他の外国人レスラーと同じ控室にはいたくないようだった。例えば後楽園ホールだったら、控室から出て、エレベーターの前にひとりでポツンと座っていることが多かったです」

 そんなブッチャーの気持ちを汲み取ったのが馬場で、「馬場さんはブッチャーのことを考えて、俺たちに『別の控室を用意してやれ』とよく言っていました。それで、試合前に別の控室を見つけて小さい部屋を用意すると、ブッチャーは『サンキュー。サンキュー』ってめちゃくちゃ喜んでくれましたよ」と和田は振り返った。

 ヒールとして人気者になって以降も、ブッチャーは私生活では倹約家だったという。

「食事の時に、ご飯に砂糖をかけて食べていたことにはビックリしたね。他におかずも何もなし。"砂糖ライス"しか食べてない理由は、外国人レスラーの世話を担当していた先輩レフェリーのジョー樋口さんが、『あいつは金を使いたくないから、いつもご飯に砂糖かけて食うんだよ』って教えてくれて。ギャラは日本で使わずに、そのままアメリカへ持って帰りたいと考えていたんだよね。

 でも、スタッフには感謝の思いを形で表していたよ。ある時、地方の居酒屋でスタッフみんなで飲んでいたら、店員さんが注文してないビールを瓶で5本ぐらい持ってきて。『あちら様からです』ってそっちを見ると、ブッチャーがいたんだ。あとは、サインを頼むと、俺たちには特別に自分の似顔絵入りのサインをしてくれたり。リングを離れるとかわいいというか、礼儀正しくて人柄のよさを感じました」

 多くの外国人レスラーは移動の時はジャージ姿だったが、ブッチャーは白いスーツにサングラスで帽子をかぶっていた。和田は、常にレスラーとして威厳を大衆にアピールしていた姿が忘れられないという。

 しかし、レフェリーとしては、リング上での凶器攻撃に"細心の注意"を払っていたようだ。

「レフェリーは凶器で攻撃しているところを見たらいけないんですよ。そこは"阿吽の呼吸"で、見ちゃうレフェリーは下手。ブッチャーとは、アイコンタクトじゃないけど、凶器を使いたい時は仕草でわかる。それでこっちは、『俺は見ないからやれよ』という感じです。

 ただ、ブッチャーが凶器を隠す場所には驚きましたよ。タイツとか靴の中に隠していることもあったけど、胸の肉がたるんだ間に入れることもあって。あれは、どこに隠したのかまったくわからなかった。あそこに隠す発想はすごい。ブッチャーの体格だからこそ、成せる業だよね(笑)」

 和田がもっとも印象に残っている試合は、1976年春のリーグ戦で最強を決める「チャンピオンカーニバル」の優勝決定戦。そこで馬場を破り、初優勝した時だった。

「それは俺が裁いた試合じゃないんだけど、優勝トロフィーを抱えて控室へ帰ろうとした時にブッチャーが転んでしまって。でも、倒れてもトロフィーを抱きかかえて離さなかった。すごいなって思ったよ。ブッチャーが、どれほど優勝してうれしかったのかがわかりました。

 まず、当時は『外国人レスラーが優勝者になれるわけがない』という先入観があって、しかもブッチャーはヒールだから、なおさらハードルが高かった。そこを乗り越えて優勝できたからこそ、最高の喜びがあったんだろうね」

 来日を重ねるごとに、リング上だけでなく、映画に出演するなど大衆にも人気が浸透していった。しかし人気絶頂の1981年5月にライバルの新日本プロレスへ引き抜かれた。和田はその時の馬場の心情を、「あれだけブッチャーを大きくしたのは全日本だから、ショックだっただろうし、悲しかっただろうね」と推察する。

 ただ、ブッチャーは新日本で輝きを失っていき、1987年11月の「世界最強タッグ」で再び全日本へ復帰した。

「馬場さんは"裏切った"選手は絶対に戻さないし、ブッチャーからも何度も頼まれていたのに断っていた。それでも最終的に戻ることを許したわけですから、馬場さんにとってブッチャーは特別な存在だったのかもしれません」

 ブッチャーは、2019年2月19日、両国国技館で開催された「ジャイアント馬場没後20年追善興行」で引退式を行なった。馬場とブッチャーは、いつまでも特別な縁で結ばれていた。

(=敬称略)

(第4回:私生活は対照的だったザ・ファンクスとハーリー・レイス>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。