「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(2)ミル・マスカラス 第1回:偶然目撃したザ・デストロイヤーの素顔>> 昭和の全日本プロレスのマットを彩った伝説の外国人レスラーたち。草創期から全日本のすべてを知る和田京平「名誉レフェリー」が、レ…

「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(2)
ミル・マスカラス 第1回:偶然目撃したザ・デストロイヤーの素顔>>

 昭和の全日本プロレスのマットを彩った伝説の外国人レスラーたち。草創期から全日本のすべてを知る和田京平「名誉レフェリー」が、レジェンドたちの秘話を明かす。連載の第2回は、「仮面貴族」「千の顔を持つ男」と呼ばれたミル・マスカラス。



空中殺法やパフォーマンスでもファンを魅了したマスカラス

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 レスリングのメキシコ代表などで活躍したのち、1965年にプロレスデビューしたマスカラス。米NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)ロサンゼルス地区で人気を獲得し、1971年に日本プロレスの興行で初来日した。

 だが、全日本プロレスへの初参戦は、旗揚げから1年後の1973年10月からの「ジャイアント・シリーズ」と少し遅い。

「(ジャイアント)馬場さんはメキシカンがあまり好きじゃなくてね。例外なくマスカラスも呼ぶつもりはなかったんです。だけど当時、『月刊ゴンク』の編集長だった竹内(宏介)さんがマスカラスをプッシュしていて、馬場さんに来日させるように何回も頼んでいてね。それで馬場さんも、『竹内さんの頼みだから呼んでやるか』みたいな感じになったんですよ」

 マスカラスは日プロ時代、他の外国人レスラーにはないフライングボディアタックなど華麗な空中殺法で存在感を発揮したが、人気はそれほど高くはなかった。それが全日本で爆発することになるのだが、大きな要因となったのは、1977年2月の試合で流れたテーマソングだった。

「試合を中継する日本テレビのディレクターだった梅垣進さんが、イギリスのミュージシャンの曲の『スカイ・ハイ』を見つけてきて、マスカラスが入場する時に会場で流したんです。空を飛ぶマスカラスのイメージと音楽がピッタリで、それで(人気に)火がつきましたね。

 それまで、国際プロレスでは選手の入場テーマソングを流していたけど、あまり注目されていなかった。ただ、あの『スカイ・ハイ』でマスカラスはスターダムを駆け上がっていきました。そういう意味で、マスカラス人気は梅垣さんのおかげでもあると思います」

 プロレスラーの入場テーマソングの先駆けとなったマスカラスは、8月のシリーズに招聘することが定着したため「夏男」とも呼ばれた。さらに、リングアナウンサーのコールと同時に、試合用のマスクの上に被っていた別のマスク(オーバーマスク)を脱ぎ、会場に投げるというファンサービスも、少年ファンの心をくすぐった。

 それが「千の顔を持つ男」という異名の原点でもあるのだが、全日本に参戦した当初はファンに浸透しておらず、マスカラスのアメリカでの活躍を知る関係者がマスクを狙っていたという。

「最初の頃は、俺ら『リング屋(リング設営のスタッフ)』たちのほうがマスクがほしくてね。マスカラスの試合になるとリングサイドに陣取って、投げたマスクをもらっていたんです(笑)。テレビ中継でパフォーマンスが浸透してからは、そんなことはできなくなりましたけど。

 どこの会場に行っても、マスカラスがマスクを投げるとファンが殺到するようになりましたね。誰も譲ろうとしないから、俺らは仲裁役にならないといけなかった。会場の隅にマスクがほしいファンを連れて行って、ジャンケンで勝ったファンにマスクを渡す形にしていたけど、いつも俺は勝った人には『今すぐに逃げろ』とアドバイスしていました(笑)。カツアゲされることが心配でね」

 観客に投げるオーバーマスクにも裏話があるようだ。

「ギャラとは別に『オーバーマスク代』という名目で馬場さんに請求していたんです。馬場さんもファンが喜ぶから認めてましよ。だからマスカラスにとっては、マスクを客席へ投げれば投げるほど、"別腹"が懐に入って来るということですね(笑)」

 マスカラスは私生活でも決して覆面を脱ぐことはなかったが、和田はある時、地方巡業中に素顔を見たことがあった。ザ・デストロイヤーの素顔を見た時には「おっさん」と思った和田だが、マスカラスの印象は違ったようだ。

「どこの試合だったかは忘れたけど、昼間は暇だったから外をブラブラ歩いていたんです。そうしたら向こうから、体格がよくて、モデルみたいにスラッとして背筋が伸びた歩き方をしている外国人が近づいてきて。僕が『ガタイのいい外国人だな』と思っていたら、すれ違った時に、俺に向かってウインクしたんだよね。

 それで『あれ、なんでウインクするんだろう? 俺のことを知っているのかな』と考えて、『あれは、マスカラスだ!』とピンときたんです。本人に確かめてはいませんが、あれは間違いなくマスカラスだったと確信しています。素顔はカッコよかったですよ」

 素顔を隠したマスカラスだったが、女性にかなりモテた。

「全日本へ参戦するようになってから、地方ごとに違う女性が必ず会場に来るのが目につくようになってね。『あの人、また来ているな』って思っていると、試合が終わったらマスカラスと一緒に帰っていく。こっちは、『あぁそういうことか』とも思ったけど、うらやましかったですよ(笑)。マスカラスはモテたなぁ」

 子供と女性のハートをわしづかみにしたマスカラスは、来日そのものが全日本の"夏の風物詩"になっていた。しかし、1980年代に入ると徐々にピークが過ぎていく。

「忘れられないのが、弟とのドス・カラスとタッグを組んで出場した1983年の世界最強タッグ。スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディと対戦したんだけど、空中殺法をあまり受けてもらえなくてね。試合が終わったあとに控室で泣いていましたよ」

 ハンセンとブロディのパワーに屈したその試合以降、来日は少なくなっていき、またアメリカを中心に活躍。一部のプロレス関係者の間では、「プライドが高い」「プロレスが独りよがり」という声もあったようだが、数年おきに日本の興行にも参加していた。

 2019年2月19日には、両国国技館で行なわれた「ジャイアント馬場没後20年追善興行」にも参戦。ドス・カラスとのタッグで勝利を収めるなど元気な姿を披露した。

「一部ではいろいろ言われることもあったようだけど、俺は嫌いじゃなかったよ。今はコロナ禍で大変だけど、変わらずに元気だったらまた日本に来て、マスクを客席に投げてほしいね」

(=敬称略)

(第3回:ブッチャーの凶器攻撃はレフェリーとのアイコンタクトで発動した>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。