満員のオリンピックスタジアムで6度目のパラリンピックを迎えたい。日本における義足アスリートのパイオニアであり東京2020パラリンピック陸上競技・走り高跳び日本代表の鈴木徹は、これまで多くのメディアで観客のチカラについて語り、パラスポーツ観戦…

満員のオリンピックスタジアムで6度目のパラリンピックを迎えたい。

日本における義足アスリートのパイオニアであり東京2020パラリンピック陸上競技・走り高跳び日本代表の鈴木徹は、これまで多くのメディアで観客のチカラについて語り、パラスポーツ観戦を呼びかけてきた。残念ながら新型コロナの影響は色濃く大会は無観客で開催されているが、ぜひ知って欲しい義足アスリートの軌跡――。

当時、日本のパラ陸上競技の華といえば、車いすの選手たちでした。それに、視覚障がいクラスの長距離陣も強かった。義足の選手は、下腿切断の僕と大腿義足の古城暁博選手がいて、シドニー大会が初出場でした。とくに、視覚障がいクラスでは、いまでいう競技アシスタント(ガイド)の人がいなかったので選手たちの生活のサポートは、比較的障がいの軽い僕たち。当時はできることを一生懸命やったつもりですが、いま思えば選手をしているどころじゃなかった(笑)。自分のコンディションを整えるのが大変でしたね。

2020年の年末に行われた沖縄合宿 photo by X-1

僕はシドニー大会(2000年)のときから、ちょうどいま使用している、オズールというアイスランドの陸上競技用義足で競技をしています。日本で開催された長野冬季パラリンピック(1998年)の直後だったからでしょうか。現在ほどとはいえませんが、すでに日本代表には手厚いサポートがありました。合宿も開催されていましたし、義足もサポートを受けていたので、競技をするための最低限の費用は工面できていました。ですが、シドニーが終わり、アテネ大会(2004年)へ向かう時期は世間の関心はおろか、国や企業からの競技の支援は減っていきました。

北京大会(2008年)では旗手を務めたこともあり、メディアの前に出る機会が何度かあったのですが、この頃から報道陣の数が増えてきた印象です。その後、大きく変わったのはロンドン大会(2012年)以降です。東京大会招致が決まり、スポーツ庁の支援などもあって、アスリートの環境は格段に向上しました。いまでは主流になっている障がい者のアスリート雇用も、僕が陸上競技を始めた頃にはなかったものです。企業に雇用されて競技に専念できる、画期的な仕組みだと思います。

シドニー大会とアテネ大会のメダリスト・廣道純さん、アテネ大会の金メダリスト・土田和歌子さんといった車いすの先輩方を真似して、大学卒業後、「プロのような活動」をしていました。ありがたいことに、スポンサーも3社つきました。パラスポーツが世間に認知されていなかったので、そういった状況をどうにかしたいという思いはありました。もちろん、うまくいくことばかりではありません。最初は100社くらいを回り、そのうち資料を送らせていただけたのは10社程度。当時は、パラリンピック自体がまったく認知されていませんでした。

せっかくスポンサーになってくれた企業があっても、メディアに取り上げてもらえる機会がなく、支援していただいた金額に見合う活動ができないというジレンマがありました。定期的に実施される、大分国際車いすマラソンのような大会がある車いす選手に対して、義足のアスリートに取材の話がくるのは4年に一度、パラリンピックのときだけです。プロとして得ていた200~250万円ほどの活動費で競技活動は続けられましたが、スポンサーになかなか恩返しできないのは選手として心苦しかったです。

photo by X-1

プロと言いながらもアルバイトでメール便の仕分け作業をしている。そんな自分に対する葛藤もありました。アルバイトの後に練習をする生活。結局1年ほどバイトをしていたことを思うと、いまの選手はうらやましいなと思います。

走り高跳びを続ける上で膝がもう限界でした。それでも、2009年、プーマがアスリートとして雇用してくれることになり、「引退は近いけれど、ロンドン大会に向けて準備しておこう」と前を向くことができたんです。指導者の勉強をしながら、陸上競技を続けるうちに自分にあった左膝の治療法に巡り合い、ロンドン大会にも出場できました。

ロンドン大会を機に、義足の選手について質問される機会も増え、一気に知名度も上がったと感じています。その後、東京パラリンピック開催が決まり、やはり自国開催のパラリンピックに選手として出場したいと突き動かされるものがありました。リオ大会前の2015年から再び、陸上競技一本で取り組み始め、2016年には2mを3回跳ぶことができました。

シドニー大会の頃を思うと、本当に層が厚くなった。義足メンバーの入れ替わりはないけれど、山本篤選手、中西麻耶選手、高桑早生選手ら粘り強く競技を続けているメンバーに加え、若手も台頭しています。それでも、僕の走り高跳びのクラスは世界的に見ても義足の選手はほとんどいません。義足でも高跳びができることを、僕の存在を通して発信していかなければと思っています。

(山本)篤とは「僕らがいなくなったら、終わっちゃう」と話しているんです。今後は、選手兼コーチなどと課せられる役割は増えていくかもしれません。東京大会後は、元選手の指導者が増えたり、パラの世界もいろいろ変わっていくんじゃないかなと思います。僕も刺激の多い現場から離れることはなく、いいジャンプを追求していければと思っています。

photo by kyodo

text by Asuka Senaga

key visual by Takao Ochi