あの「ユール・ネバー・ウォーク・アローン」をヒットさせた、ジェリー&ザ・ペースメイカーズのヴォーカリスト、ジェリー・マー…
■【その3 ザ・フープス】
・美しい白と緑の横じまシャツには118年の歴史
「ボーイズ」のほかに、セルティックは「フープス」というニックネームをもっている。もちろん、緑と白の横じまのユニホームが由来である。「フラフープ」という遊具があったが、「フープ」とは樽を締め付けるための円形の「たが」を意味している。
セルティックが白緑縦じまのユニホームから「フープ」に変えたのが1903年というから、もう118年も前のことになる。そのときからパンツは白だったが、ストッキングは緑を使っており、白になったのが1965年。以後半世紀以上、この形は変わっていない。
1967年に欧州チャンピオンズカップで優勝したとき、『サッカー・マガジン』でその写真が紹介され、私は初めて見るセルティックのユニホームに衝撃を受けた。白黒グラビアだったから色は想像するしかなかったが、非常に美しいという印象を受けたのだ。そして何より驚いたのは、このユニホームのシャツには背番号がなく、白いパンツの右サイドやや後ろに大きく番号がつけられていたことだった。1967年に背番号がないユニホームがあろうとは!
スコットランドで背番号が一般化したのは第二次世界大戦後。1960年に義務化された。これ以前に、英国のプロサッカーではすべてのチームが背番号をつけてプレーし、セルティックだけが取り残されていた。義務化されたときにも、セルティックは「伝統のフープのデザインが壊れる」と抵抗し、パンツに番号を付けたのだ。
欧州の大会では1975年にシャツの背中に番号を入れることが義務付けられたが、スコットランドの国内リーグではこの形が1994年まで認められていた。1994年以後、セルティックは背中に大きな白い布を貼り、そこに番号をつけたユニホームを着用している。
■【その4 黄金時代】
・英国勢として初の欧州チャンピオンを戴冠
1880年にスタートしたスコットランドのトップリーグで優勝51回というのだから、連覇も多い。近年では、中村俊輔が在籍した2006年から3連覇を飾り、69戦無敗という大記録を打ち立てた2010年代には8連覇も達成した。しかしセルティックが最も輝いたのは、1960年代から1970年代にかけての9連覇。まるで読売巨人軍である。
この時代には、現在のUEFAチャンピオンズリーグの前身である欧州チャンピオンズカップで優勝を飾り、「欧州チャンピオン」の座も射止めている。1966/67シーズンの大会、セルティックはポルトガルのリスボンでイタリアのインテル・ミラノと決勝戦を戦い、相手のエース、サンドロ・マッツォーラにPKで先制点を許したのにもめげず、セルティックは持ち前の攻撃サッカーで次々と突破、後半に左サイドバックのトミー・ジェメルが同点ゴールを突き刺し、終了6分前にはFWスティーブ・チャーマズが左から決めて2−1の勝利をつかんだ。
フランス、スペイン、イタリアといった欧州大陸のクラブが主導してきた欧州チャンピオンズカップ。英国から最初にチャレンジしたのはイングランドのマンチェスター・ユナイテッドだったが1958年の飛行機事故(ミュンヘンの悲劇)でチームが壊滅し、再び挑戦権を得て念願のタイトルを獲得するのは1968年のこと。その前年に、英国のクラブとして初めて欧州に覇を唱えたのがセルティックだった。
この決勝戦は日本でもしばらくたってテレビ放映されたが、右のジミー・ジョンストン、左のボビー・レノックスという両ウイングが快走に次ぐ快走を見せ、セルティックの攻撃を牽引した。インテルは超守備「カテナチオ」のチームだったが、いくら後ろに人数をかけて守備を固めても、セルティックの攻撃を止めることはできなかった。
■【その5 名将ジョック・ステイン】
・「サポーターのいないサッカーなど無に等しい」
この「黄金時代」を率いたのが、名将ジョック・ステインである。1957年までセルティックでキャプテンを務めて引退、いくつかのクラブで監督を務め、1965年にハイバーニアンの監督と兼任で短期間スコットランド代表の監督を務めた後、同年、42歳でセルティックの監督に就任した。そして1978年にそのポストを退くまで、リーグ10回、カップ7回、リーグカップ6回と、スコットランド国内で「常勝」を続けるとともに、欧州チャンピオンズカップも獲得した。
セルティックパーク・スタジアムの正面には、欧州カップを手にした彼のブロンズ像があるが、その基盤には「Football without the fans is nothing(サポーターのいないサッカーなど無に等しい)」という言葉が刻まれている。攻撃的サッカーでサポーターを熱狂させ、その熱狂をチームの力に変換して勝利をつかむのが彼の手法だった。業績を称えられるだけでなく、サポーターから敬愛されたのは当然だった。
彼は1978年からスコットランドの監督を務めた。1985年9月10日、スコットランドはカーディフに遠征してワールドカップ予選のウェールズ戦を戦った。この試合で引き分ければオーストラリアとの大陸間プレーオフ進出が決まるスコットランドだったが、前半13分にウェールズのFWマーク・ヒューズに1点を許して苦境に陥る。しかし後半36分、PKを得たスコットランドはデービー・クーパーが決め、1−1の引き分けにもちこんだ。
この試合を前に、ステインは体調不良を訴えていた。心臓疾患をもっていたステインだったが、試合の準備のトレーニングに参加するために一時的に薬の使用を止めていたのだ。それが原因だったのか、試合が終わると同時に肺水腫で倒れ、そのままスタジアムの医務室で帰らぬ人となった。62歳だった。
「セルティックのユニホームは『二流』のためにあるものではない。劣った選手に合わせて縮むようなものではない」。セルティックパークの選手エリアには、いたるところにステインが残した言葉が飾られている。選手たちは、こうした強い言葉を胸に刻んでピッチに出ていくのだ。