王国ブラジルはFIFAワールドカップにおいて唯一、これまでの21大会すべてで本大会出場を果たし、優勝は最多の5回を数える…

王国ブラジルはFIFAワールドカップにおいて唯一、これまでの21大会すべてで本大会出場を果たし、優勝は最多の5回を数える。ところが不思議なことに、1950年、2014年と2度の自国開催ワールドカップでは優勝できていない。第4回大会では頂上決戦でウルグアイに敗れ、第20回大会は準決勝でドイツに1-7と大敗、リオデジャネイロまでたどり着くこともできなかった。そう、サッカージャーナリスト後藤健生のシリーズ特集「ワールドカップ決勝スタジアム遍歴」(その3)は、2回のワールドカップでメイン会場となったエスタジオ・ド・マラカナンだ。

■アルゼンチン優勝を見届け、いざマラカナンへ!

 1939年9月にドイツがポーランド侵攻を開始して第2次世界大戦が始まったため、1942年と46年のワールドカップは中止となり、4回目の大会は1950年にブラジルで開催されました。南米大陸は戦争の被害をほとんど受けていませんでした。もちろん、サッカー界も戦争の被害を受けずに強化が進んでいました。1940年代にはアルゼンチンが黄金時代を迎えており、そのアルゼンチンの攻撃を阻止するためにブラジルでは4バックのシステムが発展したと言われています。

 FIFAが戦後初めてのワールドカップの開催国としてブラジルを選んだのは、そんな状況を考慮したためだったのです。

 1950年の大会開催が決まった後、ブラジルは当時の首都だったリオデジャネイロのマラカナン地区にあった競馬場の敷地跡に新スタジアムを建設することを決定します。巨額の工費が予想されたために反対論もありましたが、スポーツ・ジャーナリストの大御所マリオ・フィーリョが新スタジアム建設を主張し、最終的には新スタジアム建設が決まります(その間の事情については、沢田啓明著『マラカナンの悲劇』(新潮社)を参照)。

 そして、1966年にマリオ・フィーリョが亡くなった後、スタジアムの正式名称は「エスタジオ・ジョルナリスタ・マリオ・フィーリョ」と変更されます。

 有名選手や監督、あるいは政治家や国王の名前が付いたスタジアムは世界中にいくらでもありますが、ジャーナリストの名前が付いたスタジアムというのは他にはほとんど聞いたことがありません。

 1950年のワールドカップは6月24日に始まりました。しかし、新スタジアムの工事はまだ終わっていなかったので、開幕戦のブラジル対メキシコの試合の写真には工事用の足場が映り込んでいます。

■21万人以上が入っていたと言われた事実上の決勝戦

 大会中にスタジアムは完成。決勝リーグの最終戦、ブラジル対ウルグアイ戦ももちろんマラカナンで開催されました(リーグ戦形式で優勝を決めたのはこの大会だけです)。ブラジルは決勝リーグで2戦全勝、ウルグアイは1勝1分だったため、ブラジルは引き分け以上で優勝が決まるはずでした。そして、後半が始まってすぐにブラジルのフリアッサが先制ゴールを決めたのです。ところが、スキアフィーノとギッジャのゴールでウルグアイに逆転されて優勝を逃します。

 これが「マラカナッソ」と呼ばれる世界のサッカー史上の大事件です。ブラジル側から言えば「マラカナンの悲劇」、ウルグアイ側から見れば「マラカナンの奇跡」ということになります。

 この“事実上の決勝戦”の公式入場者数は17万3850人となっていますが、実際には21万人以上が入っていたと言われています。そして、スタンドではブラジルの逆転負けにショックを受けた観客が何人も心臓麻痺を起こして死亡したのです。

 さて、僕がそのマラカナンを初めて見物に行ったのは1978年のアルゼンチン・ワールドカップの直後のことでした。

 6月25日の決勝戦の翌々日、僕はブエノスアイレスから長距離バスに乗って、まずパラグアイの首都アスンシオンに向かいました。そして、アスンシオン観光を済ませた後、国境でイグアスの滝を見物してからブラジルに入りました。

 ブラジルでは7月2日にサンパウロのモルンビ・スタジアムでサンパウロ対グレミオ戦を観戦。その後、リオデジャネイロに移動して、7月5日にはフラメンゴ対パルメイラスを観戦。そして、その翌日にリオデジャネイロからパンアメリカン航空機(懐かしい!)に乗って、ニューヨーク経由で帰国しました。

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