「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第20回 マッシー村上・後編 現役時代を知る人が少なくなっていく「昭和プロ野球人…

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第20回 マッシー村上・後編
現役時代を知る人が少なくなっていく「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。法政二高から南海に入団、2年目の1964年に渡米し、留学先の1Aフレズノからサンフランシスコ・ジャイアンツに昇格、「日本人初のメジャーリーガー」として球史に名を刻んだマッシー村上(村上雅則)さんは、マイナー時代、同僚選手たちのしつこいイタズラに悩まされた。
しかし、何が起きても動じず、ビビらず、度胸がよかったマッシーさんは短期間で米球界になじんでいく。契約の問題から2シーズンで帰国を余儀なくされたとはいえ、マッシーさんの挑戦には日本人が海外で成功するための条件が示されているようだ。

まさに大リーガーという風格。ジャイアンツ時代のマッシー村上(写真=産経ビジュアル)
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悪気がないとはいえ、1Aフレズノでしつこく繰り返される同僚選手の悪ふざけにキレたマッシーさんは、ついにスパナを手に"実力行使"に出た──。ただ、そういうなかでも、マッシーさんと仲のいい選手はいた。イタズラや、からかいなど絶対にしないと確信できる男だったという。そうした行為は一部の選手による日本人蔑視だったのだろうか。
「うーん。そんなでもなかったと思うよ。だって、スパニッシュ系もいるしね。当時、学問的には何もできない連中が多かったよ。でも、野球で一旗揚げたいな、という気持ちが強いからね。いいヤツもいたよ。
そういった連中と一緒にやってて、何て言うかな、負けたら負けたでお互いに悔しくなるし、勝ったら勝ったでワーッてなるし。チーム的にはすごくまとまってたんじゃないかな。だから、フレズノでは嫌なこともあったけど、トータルでは非常に楽しかった」
そのチームでマッシーさんは5ヵ月間、投げ続け、8チームで構成されていたカリフォルニア・リーグの新人王、リリーフ投手としてのベストナインに選ばれた。それにしても、日本での一軍登板も少ないままで渡米し、対バッターで臆するところはなかったのか。屈強そうなアメリカのバッターを見て、怖さを感じることもあったのではないか。
「なかったよ。まあ、ホームランもちょこちょこ打たれたけど、自分のピッチングに自信持ってたし。だから面白いのは、1Aのときにテレビでメジャーのゲームも見たけど、見たって誰が誰だか、わからないんだよ」
戦う相手の情報がほとんどなく、先入観を持たなかったことが功を奏し、なおさら自信が持てたという。これはメジャー昇格後も変わらなかったのか。
「そうだよ。当時はスコアボードに名前も出ないしさ。ジャイアンツで言えば、センターフィールド、ウィリー・メイズというのが、〈CF 24〉って書いてあるだけだもん。フランク・ロビンソンも、ハンク・アーロンも、誰が誰だかよくわからない。おまけに場内アナウンスもよくわからない。どんなにいい声でね、きれいな発音されたって、わかるわけないんだから」
そう言ってマッシーさんはアナウンスの声を真似してみせた。いい加減な英語でも抑揚はいかにもそれらしい。おそらくは当時、聞こえたままに発声しているのだろう、と思うと、とても貴重なものを聴いた気がした。
「だから、マイナーでのピッチングをそのまま出し切ったら、結構、いけたのよ」
マッシーさんの昇格が決まったのは64年8月30日。単身、ニューヨークに乗り込むと、9月1日の対メッツ戦、8回裏にメジャー初登板が実現した。このときにはさすがに、相手がメジャーリーガーだ、という意識があり、プレッシャーもあったはず。
「なかったね。インサイド、アウトサイド、ピューンと放りゃあ、三振! ドキドキとか、ソワソワとか、そんなのなかった。ブルペンからマウンドへ行くときも、一昨日までは照明が暗い球場で、観客は500人ぐらいのところで、少なきゃ300人だよ。
で、外野フライなんか上がるとボールが見えなくなっちゃうとかね。それぐらいの暗さ。それが、カクテル光線のねえ、ニューヨークのシェイスタジアム。4万人も入ってる。おい、100倍かよ、入ってんなあ、と」
度胸、自信、平常心、無心、若さ。それらがひとつになって、[日本人初の大リーガー]が誕生した。もうまったく、「突然の出来事」だったとは思えない。
「ただね、あがっちゃいけないから、と思って、坂本九さんの『スキヤキ・ソング』の口笛、ヘヘーンって吹きながら。全米ナンバーワンヒットだったからね。気をちょっと落ち着かせるためには『上を向いて歩こう』なんてね。だけど、マウンド上がっても普通の状態だった。そういや、野茂は去年、テーマソングがその曲だったんだよな」
野茂英雄の名前が出た。マッシーさんは彼のことをどう見ているのか聞きたい──と思った途端、話はそれから2日前の出来事に戻った。
メジャー昇格だというのに、ニューヨークの空港で出迎えはなく、宿舎のホテルに着いても自分の名前がリストになく、食事を摂るときに至るまで不安な状態が続いたという。それでも、最終的に何とかなってしまったところは、マッシーさんの天性といえるのではないか。
「まあ、いろいろあったけど快適だったよ。基本的に、人間の性格ってのは、その社会にマッチするのか、しないのか、ってのがあると思う。例えば、英語をしゃべれなくたって、単語を言っときゃ、そのうち覚えられるのよ。別に覚えてから社会に入らなくたっていいわけよ。
要は、そう思える性格なのかどうか。自分は最初、それをどんどんやったからよかったし、やっぱり、度胸があったのかもわからない。実際ね、向こうに行きたいという選手は、そういった性格の持ち主が多いんじゃない?」
「向こうに行きたい」という希望を叶え、メジャーリーガーになった日本の選手は、事実上、すべてマッシーさんの後輩に当たる。野茂以降、若い後輩たちが次々に出てきたこと、先輩としてどのように見ているのだろう。
「俺はいいことだと思う。いいことなんだけど、向こうに行く選手は別にとがめないけど、受け入れるメジャーはどうなのかな、と。あまりにもレベルが下がってきたように思うよ」
文献資料を調べているときに気づいたことがある。現在のメジャーリーグは全30球団だが、マッシーさんが渡米した当時は20球団だった。この球団数の増加と、「レベルが下がってきた」と感じていることは関連があるのでは、と思い当たった。
「確かに、選手の絶対数が足りなくなっちゃったね。球団が増えていいこともあるんだけど、レベル低下にもつながってる。いい選手がいい成績を残すのは当たり前なの。いいもの同士でやってないから。ね? エースが降りた後に二線級のピッチャーが出てきて、バッターはそれまでエースに2三振でも、二線級からヒット2本打てば打率は5割になるんだから」
近年、メジャーのレベル低下が随所で取り沙汰されている。そのなかで、先駆者であるマッシーさんの見解は的を射てわかりやすい。
「まあでも、アメリカ、近くなったね。昨日もドジャースの斎藤隆がリリーフでデビューして。これでピッチャーは18人になったんだな。野手は8人だから合わせて26人か。どんどん加速するもんね。これ、いいことですよ。日本の球団には悪いけど」
もうひとつ、後輩に関して聞きたいことがあった。マッシーさんが帰国し、野茂がデビューするまでの30年間、日本人メジャーリーガーは誕生しなかった。その間、どのような思いを抱きながら日本のプロ野球でプレーしていたのだろうか。
「俺ねえ、自分が『行きたい』って言えば行ける、って言われてたの。それで何度か誘いに来たのよ。『もう一回、ジャイアンツでやらないか』って。だけど結果的に行かなかった。後悔先に立たずだけど、行っときゃよかったなあ、とか思うこともあったよ」
メジャー復帰のチャンスがあったとは驚く。それでも踏み切れなかったのは、間が空き過ぎたことと、再び所属問題で日米間のトラブルになるのは避けたかったからだという。一方で、マッシーさんがトラブルに巻き込まれたことで、長年、後輩が出てこなくなったわけでもなかった。ならばマッシーさん自身、なぜ後輩が出てこない? という思いはあったのではないか。
「それはね、最初は思わなかった。というのは、自分は無理矢理、日本に帰ってきたようなもんだからね。それなのに、ほかの人が向こうに行ってやれるなんて、不公平だな、という気持ちが自分なりにあった」
ずっと絶やされなかった笑みが消えていた。64年9月29日にメジャー初勝利を挙げたマッシーさんは翌65年、45試合に登板して4勝1敗、8セーブ、防御率3.75。74回1/3を投げて85個の三振を奪い、8月には先発起用もあった。
一時は翌66年もプレーできる道が開きかけたが、当時の鶴岡一人監督に対する恩義から南海に復帰。監督自ら、マッシーさんの入団に尽力していたという経緯もあった。
「だからね、自分が第一線でやってるときには、誰も行ってほしくない、と思ったね。ただ、自分の力がもう及びもつかないな、というときには、出てきてもいいな、と。俺、現役20年間やってて、18年目に肘を壊したの。それでヤバイな、と。
その頃は35歳を超えてたし、さすがにメジャーっていうのはない。それからは、出てきてほしいな、と思ってたよ。だから、野茂が出てきたときはもう、すごく喜んだよ。あのとき、ジャイアンツから『野茂が契約交渉するから来てくれ』って言われてね」
野茂が本当の意味で後輩になる可能性があった。結局、実現しなかったが、のちに新庄剛志がメッツからジャイアンツに移籍。日本人初のワールドシリーズ出場も果たしている。マッシーさんは「やっと俺の後輩が出たよ!」と喜び、ジャイアンツのオーナーと面会した際に「彼には頑張ってもらいたいね」といった話をしたそうだ。
「オーナーがキャンプで新庄を食事に誘って『キミにはできれば、リードオフマン的なものでやってもらいたい。守備もいいし、足も速いし、盗塁もして、機動力を生かしたいんだ』と言ったんだって。そしたら『ボク、盗塁に興味ありません』って答えたもんだから、オーナー、ガクッとなっちゃったって。はっはっは。面白いよねえ、新庄」

メジャー復帰の可能性もあったことを明かす取材当時のマッシーさん
日本球界復帰後、マッシーさんは1968年に18勝4敗で最高勝率のタイトルを獲得。18年間で合計5度のシーズン二桁勝利を達成し、通算103勝を挙げた。メジャーでの経験が日本のプロ野球で生きた部分はどれほどあったのか。
「確かに生きてはいるんだけど、野球とベースボールの違いで、何か自分としては思うようにいかないところもあったね。自分はこういうピッチングスタイルで行きたいな、と思ったのが意外と通用しなくて、かなり悩んだこともあった。
例えば、日本のバッターはあまり"つり球"を振ってくれない。向こうに比べて、コツコツ当ててくる、ということがすごくあったからね」
あたかも来日1年目の外国人選手のような言葉。わずかな期間とはいえ、日本のプロ野球をほとんど経験しないままメジャーで通用したことを踏まえれば、逆に日本のバッターに通用しない部分があってもおかしくはない──。今さらながら、マッシーさんがメジャーリーガーだったことを実感できた。
「それで俺、思うんだけど、外国人選手、こっちに来て頑張ってる。こっちでダメだったら、また向こうで頑張ってるよ。日本人もね、それでいいんじゃないか、とね。これからどんどんメジャー移籍が加速するにしたって、ダメならまた日本に帰ってきてやればいいの。実際、みんな帰ってきてるけどね。その土壌に合った人が働けばいいのよ」
マッシーさんが言うとおりに考えてみると、「日本の選手がメジャーに流出」という表現は、本来ふさわしくないものなのだと思えてくる。メジャーで初めて通用しながら帰国を余儀なくされ、それでも日本で長く活躍した野球人ならではの言葉だ。
「自分はね、数々の有名な球界OBからすると、何か意見を言うだけで煙たい存在なのかもしれない。でもやっぱり、力のある者は、より上を目指すものなんだと思う。だったら、自分の人生、職業、これを全うできるようなチャレンジをして、常に上を目指してほしい。
上が何なのかは、その人によって違ってくるでしょう。ただ、自分としては、今はレベルが下がったかもわかんないけど、メジャーがいちばん上じゃないかなと思う。だって、マイナーで三冠王10回獲ったって、メジャーで1回もやらなかったら、何円にもならない。単なる噂で終わる、みたいなことになるよ。だから勇気持ってね、頑張ってもらいたい」
取材の日から8日後、2006年4月19日、ドジャースの斎藤がメジャー初勝利を挙げた。スポーツ紙の記事には〈日本人投手では16人目のメジャーでの勝利〉とあり、紙面中央を横断する形で歴代の選手写真が並び、いちばん左にマッシーさんが載っている。
縦3センチほどの小さな写真だったが、バックスイングをとった左腕が今まさにトップに入ろうとする瞬間をとらえたもので、僕はしばし、そのピッチングフォームから目を離さずにいた。
(2006年4月11日・取材)