東京2020大会の開催が決まった2013年以降、パラアスリートを取り巻く環境は大きく変わった。では、世界への道を切り開いてきた日本の先人たちは、いかにして世界と戦ってきたのか。パラリンピックのなかでもっとも古い歴史があるアーチェリーの南浩一…

東京2020大会の開催が決まった2013年以降、パラアスリートを取り巻く環境は大きく変わった。では、世界への道を切り開いてきた日本の先人たちは、いかにして世界と戦ってきたのか。パラリンピックのなかでもっとも古い歴史があるアーチェリーの南浩一さんを訪ねた。

1988年のソウルパラリンピック以降5大会連続でパラリンピックに出場し、1992年のバルセロナパラリンピックでは金メダルを獲得したアーチェリーの南浩一。南を世界のトップへと押し上げたのは、持ち前の進取の精神とあくなき探求心、そして尽きることのない創造力だった。

きっかけは“裸足のアベベ”⁉
アトランタ大会の銅メダル、バルセロナ大会の金メダル、アテネ大会(団体)の銀メダル

おいらがアーチェリーに出会ったのは、国立療養所村山病院(現・国立病院機構村山医療センター)に入院していた24歳ごろのことです。当時、ハンググライダーに夢中だったおいらは、念願のエンジン付きハンググライダーを手に入れ、河原で試験飛行中に墜落。首の骨を骨折して四肢にまひが残り、体幹も効かなくなりました。

村山病院は当時から障がい者スポーツが盛んで、陸上や車いすバスケットボールに取り組んでいる人たちがたくさんいました。おいらも勧められて、車いす陸上をやったんですよ。同じ条件のもと、みんなで競い合うのは楽しかったけど、そもそもハードに体を鍛えるのは好きじゃないから、いまいち性に合わなかったな(笑)。

院内にアーチェリー場もあり、初めてアーチェリーを見たのもその時です。でも、そこではみな、手で弓を支え、弦を引いていた。面白そうだなとは思ったけど、両手指が一本も動かないおいらには無縁なスポーツのように感じて体験もしませんでした。

パラリンピックは5大会出場。1992年のバルセロナ大会では、表彰台の真ん中に=写真は本人提供

たまたまテレビを見ていたら、マラソンのオリンピック金メダリストとして知られるアベベ・ビキラ選手の映像が映し出されました。アベベ選手は自動車事故に遭い、頚髄損傷で車いす生活となったのち、一時期、アーチェリーをしていたことが紹介されていました。その時見たアベベ選手は、おいらと同じように手が不自由な様子でしたが、補助装具を使って弦を引いていたんです。あの姿を見て、おいらにもできそうだなと思いました。

創作したリリーサーでパラリンピックへ

子どものころから飛行機に憧れがありました。小学生時代にプラモデルづくりから始めて、中学生で、Uコン飛行機と呼ばれる、2本のワイヤーで操縦するエンジン付きの模型飛行機を、そして高校生になって、念願だったラジコン飛行機を手に入れました。もともとのめり込むタイプのため、夢中で遊んでいるうちに、製作と操縦、どちらの腕も上がって、ラジコン飛行機・ヘリコプターの日本選手権で2位になったこともあります。

ハンググライダーが世の中に出回るようになったのは、18歳ごろでしょうか。自然とおいらも自分で空を飛びたいなと思うようになり、気がつけば、週末は箱根でハンググライダー三昧の日々を送るようになっていました。大小さまざまな大会にも参加し、ジャパンマスターズという大きな大会では優勝したこともあるんですよ。その賞金で、例のエンジン付きハンググライダーを手に入れたというわけです。

初期のリリーサー。手に持っている白いスティックの先端に弦を引っかける

アーチェリーの用具にはたくさんの部品がたくさん使われていて、チューニング次第で成績が変わります。それがおいらにとってはものすごく魅力的で、ラジコン飛行機やハンググライダーで培った技術や知識を生かせるのでは、と思いました。

最初に自作したのは、指の代わりに弦を引っかけて放すリリーサーという用具です。当時は、どこにも資料がなかったので、テレビで見たアベベ選手のリリーサーを参考に、針金の先端をかぎ針のように少し曲げたものを作りました。腕の補助装具に付けたリリーサーの先端で弦を引っかけてアンカーポイントまで引き込み、タイミングを見計らって手首を軽くねじると、リリーサーから弦が離れて矢が飛ぶ、という仕組みです。

アーチェリーでは、手元の数ミリの誤差が的上で数センチのズレとなって、点数に響くため、本当はリリースの際はできるだけブレない方がいいんです。なのに、ねじってリリースするわけですから、まあ当たりませんでしたよ。少しでもブレを減らすため、リリーサーの先端の角度をぎりぎりまで浅くしていたのですが、今度はそのせいで、引いてくる途中で弦が外れて矢があらぬ方向へ飛んで行っちゃうなんていうこともありました。

高いレベルを維持するためには、用具の工夫に加え、頻繁に通える練習場も必要と語る

ソウルパラリンピックのころは、まだリムの両端に滑車があるコンパウンド・ボウが競技に導入されていない時代で、全員がオリンピックと同じリカーブ・ボウを使用していました。ところが、ほかの選手を見てみたら、現在のコンパウンドで使われているような高性能なリリーサーを使っていたんです。こんな用具を使っていいんだ!と驚きましたし、おいらもあれを使っていればメダルに手が届いたのに、と悔しかったですね。

実は、当時は競技規則をよく理解してなくて、どの程度まで補助装具や用具を工夫していいか、知らなかったんです。ところが、帰国後調べてみたら、電気を使わなければ、だいたい大丈夫とわかった。ならばと、そこから試行錯誤を繰り返し、オリジナルのリリーサーをいくつもいくつも作りました。

生きている限り、挑戦
弓の強度ギリギリまでドリルで穴を開け、軽量化を図っている

バルセロナ大会からコンパウンドが使用可能となったため、以来、おいらもコンパウンドです。ラジコン飛行機のパーツやベアリングを使って弓の改造や補助装具の製作をしていたので、国際大会があるたびに、「弓を見せてくれ」と他国の選手や関係者たちが集まって来たものです。最新の弓はフルカーボン製。軽いですよ。もちろん、改造済みです。でも、これで完成ではありません。もっといい弓が作れたら、(今でも)ぶっちりぎりで優勝する自信があります。

アーチェリーっていいですよね。指が一本も動かなくても、年齢や障がいの有無を問わず、だれとでも真向勝負ができるんだから。今はケガをしていて練習ができないのですが、ケガが治ったらまたトップを目指して、練習にも弓の改造にも励みますよ。生きている限り、挑戦です。

パラリンピックで各国の選手たちと交換した無数のピンズも南のコレクションの一つだ

text by TEAM A

photo by Haruo Wanibe