元西ドイツ代表で、ストライカーとして数々の得点記録を樹立したゲルト・ミュラーが昨日15日に永遠の眠りについた。享年75歳…

元西ドイツ代表で、ストライカーとして数々の得点記録を樹立したゲルト・ミュラーが昨日15日に永遠の眠りについた。享年75歳、ちょっと早すぎる訃報だった。

彼のことを若い読者は知らなくて当然だろう。74年の西ドイツW杯で母国を2度目の世界1に導くと、28歳の若さで代表チームからの引退を表明したからだ。キャリアのほとんどをバイエルン・ミュンヘンで過ごし、ありとあらゆる栄光を手にしたものの、当時は彼のプレーを見ることはなかなかできなかった。

唯一、日本ファンの前でプレーしたのは75年1月、バイエルンの一員として来日し、国立競技場で2試合を行った(いずれも1-0でバイエルンの勝利)。

身長は175センチとけして高くない。しかし独特の嗅覚をペナルティエリア内で発揮し、ミートの巧さ、強シュートではないもののゴール枠に飛ばす正確なシュートでゴールを量産した。利き足は右足だったが、左足でも頭でも、それこそ体のどこかに当ててゴールをモノにした。

バイエルン時代は15年間で4度のリーグ優勝を果たし(1969年、72年、73年、74年)、7度の得点王に輝いた(1967年、69年、70年、72年、73年、74年、78年)。通算427試合に出場して365ゴールはいまなおリーグとクラブの両方で歴代最多得点記録である。

その他にもチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)優勝3回(1974年、75、76年)、カップウィナーズカップ(現ヨーロッパリーグ)優勝1回(1967年)、ドイツカップ優勝4回(1966年、67、69、71年)という輝かしい実績がある。

それは西ドイツ代表でも同様で、デビューとなった70年メキシコ大会は準決勝でイタリアと壮絶な点の取り合いから3-4で敗れたものの(準々決勝でもイングランドと延長戦の末に3-2で勝って前回大会の雪辱を果たす)、3位決定戦でウルグアイを1-0で下して3位の成績を収めた。

この大会でミュラーは10ゴールを決めて大会得点王となると同時にバロンドールも獲得。そして4年後の74年西ドイツ大会でも7試合に出場し(2次リーグを採用したため試合数が増加)、オランダとの決勝戦での決勝ゴールを含め4ゴールをマーク。W杯通算14ゴールは、06年ドイツW杯でロナウドに破られるまで32年間にわたり最多記録だった(ロナウドは98年フランス大会で4ゴール、02年日韓大会は8ゴールで得点王、06年ドイツ大会で3ゴール。通算15ゴールで記録を更新)。

ちなみにミュラー以前のW杯最多得点記録は58年スウェーデン大会でフランスのジュスト・フォンテーヌがマークした13ゴールで、1大会での最多得点記録としていまなお破られていない。ミュラーの10ゴールは50年スイス大会の得点王シャーンドル・コチシュ(ハンガリー)に次いで3位である。

W杯の通算最多得点記録は同じドイツ代表のミロスラフ・クローゼが、14年ブラジル大会で16に更新したが(02年日韓大会は5ゴール、06年ドイツ大会は5ゴールで得点王、10年南ア大会は4ゴール、14年ブラジル大会は2ゴール)、ミュラーは2大会13試合で14ゴールに対し、クローゼは4大会24試合で16ゴールである。

同じことはドイツ代表の通算得点記録にも当てはまり、ミュラーは62試合出場で68ゴールを記録。これは14年にクローゼに破られたとはいえ(71ゴール)、クローゼは136試合、36歳での記録更新である。このことからも、ミュラーの得点率がいかに高かったかわかるだろう。

現役引退後はビジネス界に転身したものの事業に失敗し、一時はアルコール依存症に苦しんだこともあった。しかし、かつてのチームメイトである“皇帝"フランツ・ベッケンバウアー(現バイエルン名誉会長)やウリ・ヘーネス(現バイエルン会長)らのサポートによりアルコール依存症を克服。バイエルンのアマチュアや育成部門のコーチとして穏やかな日々を過ごしていた。

現役引退後はずいぶんとスリムな体型になったものの、トレードマークの口ひげは白髪ながら健在だった。あらためて哀悼の意を表したい。

【文・六川亨】