国歌斉唱時に3本指の抗議ポーズミャンマー人選手の今 後編前編から読む>>サッカーW杯アジア2次予選の日本対ミャンマー戦。…

国歌斉唱時に3本指の抗議ポーズ
ミャンマー人選手の今 後編

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サッカーW杯アジア2次予選の日本対ミャンマー戦。ミャンマー代表のGK、ピエリアンアウンは国家斉唱時、母国で起こった軍事クーデターへの抗議を意味する3本指を掲げた。帰国を拒否し、日本政府に保護を求めた彼は支援者の協力を得ながら、ミャンマー人初のJリーガーへの道を模索していた――。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、彼の現在の姿に迫る。

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子どもたちとサッカーに興じるピエリアンアウン。その表情は穏やかだ。"

 私はこれまで、ハンガリーのプスカシュ、チェコスロバキアのクビック、アルバニアのバタなど、政治亡命をして新天地で活躍を続けた選手についての記事をいくつか書いてきた。ピエリアンアウンと彼らの決定的な違いは、先述の3人は冷戦時代に名だたる東欧列強の代表選手としての不動の評価を得ており、西側諸国(プスカシュはスペイン、クビックはイタリア、バタはフランス)へ亡命しても大けがでもしない限り、トップリーグのクラブがオファーを出すことは保証されていたのに対し、ピエリアンアウンの場合は、母国を思う人道の叫びが最初にあり、サッカー選手として新天地で約束されたものは何もなかった。まさにゼロからの挑戦となる。

 YSCCでの練習最終日、同じGKの選手が積極的にコミュニケーションをとってくれるのが、ピエリアンアウンにとっては嬉しかった。慣れない練習メニューも丁寧に教えてもらえることで、その意図が、頭に入ってくる。この日、練習場には担当の渡邉彰悟弁護士が駆けつけて来た。

 渡邉弁護士は知る人ぞ知る、在日ビルマ人難民申請弁護団事務局長として数多くのミャンマー難民を救出してきた法律家である。何より、ロヒンギャやカチン、カレンといった少数民族の置かれた複雑なミャンマー情勢に精通している。出身国の情報についてはいっぱしの記者以上に現場も踏み、数多くのニュースソースを持っている弁護士であり、ピエリアンアウンの窮状については当初より、サポートを施してきた。今回は練習参加を許されたクラブに対する挨拶と激励を兼ねて、横浜まで来訪したのである。

「ピエからは本当に真面目な印象を受けますね。私がミャンマーの問題に取り組み始めた頃に出逢った人たちを思い出します」。1988年の民主化運動をけん引した人々、いわゆる8888世代のミャンマー人たちを想起するという。渡邉はゴール裏に流れてきたボールを器用にインサイドでピッチに戻した。

 余談になるが、渡邉は高校サッカー界の超名門、清水東の出身で、後に日本代表となる長澤和明(ジュビロ磐田初代監督、娘は女優の長澤まさみ)を擁して高校選手権で準優勝を成し遂げた黄金世代の一学年下の世代で高校時代を過ごしている。渡邉自身はバレー部のエースであったが、清水東の校内サッカー大会で得点王になるなど、サッカーに対する親和性は高い。弁護士は吉野代表と練習に見入りながら、入管関係における一般的なアドバイスを送り、法的な手続きなどは、いつでも相談に乗りますと力強いエールを送った。

 すべての練習メニューが終わり、初めて報道陣に対して囲みのインタビューが行なわれた。練習に集中できるように、これまで取材は解禁されていなかった。「私に練習参加を認めて下さったYSCCの皆さんにまずお礼を言いたいです。私自身のプレーの質についてはこれから自分の課題としてしっかりと取り組んでいきたいです」。ピエリアンアウンの口からは、自省する言葉が続いた。普段から、アルコールは一滴も口にせず、ストイックにトレーニング環境を求め続けてきたが、3日の間に納得できるプレーを出し切ることができなかったことが心底悔しそうであった。

 吉野代表は「まずはサッカーができて笑顔になってくれたのは、よかったかなと思います」と労い、監督のシュタルフ悠紀は「また一緒にやりたいと思う。最初は言葉が通じなくともサッカーは共通語だから。日本では楽しくやってほしい」と励ました。

 気になるクラブとしての評価と加入についての合否は「約2週間後に発表します」と吉野のほうから告げられた。

 横浜での練習を終えると、休む間もなく、千葉に向かって車の移動を開始した。元ジェフ千葉のGMであった祖母井(うばがい)秀隆がGKとしての強化トレーニングの日程を組み、迎えに来てくれていたのだ。

 日本サッカー界における祖母井の功績は今さら言うまでもない。西ドイツ(ドイツ)留学時代から培った幅広い独自の人脈から、数多くのヨーロッパの名将たちを日本に招聘したことにある。ゲルト・エンゲルス(ドイツ)、ズデンコ・ベルデニック(スロベニア)、ニコラエ・ザムフィール(ルーマニア)、ジョゼフ・ベングロッシュ(スロバキア)、そしてイビツァ・オシム(ボスニア)。途切れることなく連綿と続いた人材の来日は、各名将たちの祖母井個人に対する信頼の表れであった。カネでは動かないオシムがジェフ市原(当時)に来たのは、祖母井からのオファーがあったからというのは知られた逸話である。

 その祖母井に今回、ピエリアンアウンが上京する旨を知らせると、「それならキーパーとしての指導を受ける機会を提供しましょう」と即座にプロのGKコーチである芦川昌彦に指導を依頼し、自らが監督を務める淑徳大学のサッカー部に招いてくれたのである。芦川は名古屋グランパスやジェフ千葉でコーチとして豊富な経験を積んできた人物であり、基礎からGKの練習に取り組みたいピエリアンアウンにとっては願ってもない機会となった。

 祖母井の反応が速かったのは、自身も難民支援をこれまでも地道に行なってきていたことが大きい。ほとんど知られていないが、2007年にグルノーブル・フット38のGMとしてフランスに渡る直前まで、ドイツ人の妻とともに牛久の東日本入管に収監されていたイラン人難民申請者のサポートをしていたのである。Jリーグ広しと言えど、牛久で収容者との面会を重ねたサッカー関係者はほとんどいない。

 その原点は1975年の西ドイツ(当時)、ケルン体育大学への留学経験にある。祖母井はこのケルンの地で多くのインドシナ難民やトルコ移民たちと遭遇していた。外国に身を置き、苛烈な環境で苦しみながらたくましく生きていこうとする人々との交流によって視野は広がり、そこから受けた影響は少なくなかった。元来、祖母井には難民に対する何の偏見もなかった。

 千葉へ向かう車中、ハンドルを握りながら、こんなことを言った。「ドイツでも日本でも私は難民を助けたとは一度も思っていない。そこから私が学んだことのほうがはるかに大きいからです。私の妹の夫はクルド人ですが、彼からも多くのものを得ていますよ。今度、映画で『東京クルド』(現在は公開中)ってやるじゃないですか。あれも観に行くつもりです」

 常に仕事するパートナーの人柄を観察するオシムが祖母井に初対面から心を許したのは、かようなメンタリティの持ち主であるからなのは間違いない。何となれば、オシムファミリーもまたサラエボ包囲戦で故郷ボスニアを追われた政治難民である。1990年のイタリアW杯でユーゴスラビアをベスト8に導いた英雄の家は、市民の祝賀パレードの最終地点とされた。ところがその2年後、民族主義が台頭して政治情勢が一転すると、同じ国の人民軍のスナイパーに狙われて膨大な数の実弾がオシム家の居間や寝室に打ち込まれた。かつて2年に渡って包囲戦を耐え抜いた妻のアシマは「これは我が家のトロフィーよ」とクッキーの空き缶に集めたその実弾を見せてくれた。

「私たちは皆、難民だった」とメルケル独首相は言ったとされるが、それは「誰もが皆、難民になりえる」という意味でもある。オシムはユーゴを出るとオーストリアの中堅クラブにすぎなかったシュトゥルムグラーツの監督となり、そこでチャンピオンズリーグ出場という過去にない結果をもたらす。「難民」はまた大きな知見と知識をもたらすのだ。

 淑徳大の練習場には元ジェフ千葉の佐藤勇人が来てくれた。祖母井はジュニアユースの指導者として勇人が中学三年生の時から、その生活を見ている。「うまかったけど、もうやんちゃでね」。サッカーをしながら、髪を赤く染め、サーフィンや日焼けサロンに通っていた頃である。その勇人がオシムチルドレンとして開花し、代表にまで上り詰め、今日はまたかつての恩師のチームに駆けつけてくれている。日本代表とミャンマー代表の邂逅である。

 祖母井が、私に学生の前で話をしてほしいと言うので、ピエリアンアウンが日本にいる背景について話した。学生選手を怖がらせないようにとのことで、彼の入れ墨についても「えーと、これはミャンマーの文化で〜」ととろとろ語っていたら、勇人が「そんなの全然、平気っすよ〜、俺なんか〜」と袖を捲くりあげて、二の腕にどでかく彫った息子の名前を見せてくれた。異国で生きて行こうとする選手を気遣うその優しさが嬉しかった。

 翌日、祖母井の提案で、練習開始前に学生たちはミャンマーで亡くなった人たちへ1分間の黙とうをささげた。齊藤智浩コーチによる日本語での呼びかけであったが、瞬時に意味を察知したピエリアンアウンもまた両手を合わせて目をつぶった。

 彼には国軍の無差別銃撃による犠牲者を偲ぶ時、真っ先に浮かぶ2人のサッカー選手がいる。U21代表のキャプテンであったチェボーボーニェエン(ハンタワリユニテッド)とリンレットFCのGKアンゼンピョ、自分よりも若い選手がなぜ殺されなければならなかったのか。千葉のスタジアムで三本の指を出したのも彼らとともにいるという思いからだった。その反響は大きかったが、危険の代償も支払わされている。現在はマンダレーの父親が暮らす実家を常時、6人の国軍兵士が監視しているという。「父の家は道が狭くてとても分かりづらい場所なのに、すぐに特定されていたことに恐ろしさを感じました」彼が関空で残留を決めて、最初に発した言葉は「もしも私の家族に危害が及ぶようでしたら、私が帰国して逮捕されます」というものであった。親族への思いは人一倍強い男だけに気が気ではないはずだ。

 そんなことを思っていたら、斎藤コーチの「黙とう止め、お直り下さい」の声が響いた。

 トレーニング開始。芦川の指導は非常にキメの細かいものであった。その手順は医師さながらで、まず問診票代わりに、ゴール前で左右にボールを散らすと、すぐにバランスの悪さを見抜いた。ピエリアンアウンは右側の動きが硬い。診察が終わると処方に入る。足の運び、キャッチに飛んでからの着地の仕方。移動する重心のポイントなど、実際に範を示しながらアドバイスを送る。ときおり、患者は確認する。「そのケースはミャンマーで教わった時は......」「それでもいいよ。そっちのやり方がやりやすければ、完全な正解はひとつではない。でも次のプレーに移る時はそれだと遅れる」

 芦川は右にダイブした時の足の着き方をしつこく説明した。個別の練習が終わると、ゲームに入っていく。ここは実戦でゴールマウス前に立つ。「日本の大学生のレベルの高さにも感心しました。ミャンマーの学生とは比べものになりません。まず何より、このグランドやボール、施設の立派さに驚きました」

 芦川教室は3日間開かれたが、最終日を前にそれまで練習の通訳を買って出ていてくれたミャンマー人のアウンミャッウインが大阪に帰ることになった。アウンミャッウインは1998年に来日した難民認定者で、現在は大阪で介護事業を営んでいる。ピエリアンアウンの関空での脱出時から、保証人として献身的にサポートしてきた。記者会見や練習では常にボランティアで通訳をこなしてきたが、さすがに関西に置いてきた自分の仕事をこれ以上、放っておくわけにはいかなくなった。

 では誰が芦川コーチの意思を伝えるのか。ただ蹴って止めさせる、というコーチではなく、一本ごとに注視する指導ゆえに、その細かいニュアンスを伝えなければあまりにもったいない。思案していたら、ひとりの男を思い出した。「アイバがいた!」。相葉翔太は日本人ながら在日朝鮮蹴球団の流れを組むFCコリアでプレーしていた男。私とはFCコリアが参加したCONIFAアブハジア大会で知り合っていた。現在、相葉は現役を退き、JICA(国際協力機構)の仕事でミャンマーに派遣され、ヤンゴンで子どもたちにサッカーを教える任務に就いていたのだ。

 コロナで帰国を余儀なくされたが、サッカーの会話はお手のもので、これほどの人材はいない。打診をすると、「彼のことは報道で知って、何か関われないかと思っていたので、この機会は嬉しいです」。急な依頼にも関わらず、快く千葉に来てくれた。初対面から、ふたりはウマが合ったようだった。年齢は相葉が年上だが、ミャンマーのサッカーシーンに詳しい人物との出会いに寡黙だった代表GKも自然と饒舌になった。相葉はヤンゴンにいたかつての教え子にピエリアンアウンのサポートをすることをメッセージで知らせていた。

 最終日、学生のキャプテンの呼びかけで黙とうが捧げられた。チームにひとりの選手が入ったことで今、ミャンマーで起きていることへの想像力が喚起される。

 相葉は芦川に「僕のミャンマー語の語彙は少ないので完璧にコーチングが伝えられないかもしれません」と断っていた。しかし、いざ、指導が始まると、実践者として言葉以上のコミュニケーションが可能となった。言語化できない部分は自らが意図を咀嚼した上で、動きで示した。足の運びと左右のバランスの修正がこの日は行なわれた。



GKコーチである芦川昌彦から指導を受けるピエリアンアウン(撮影:木村元彦)

 キーパーグローブを外して、汗をぬぐっていた表情から、笑みがこぼれた。当たり前だが、選手である以上、停滞はしたくない、成長したいのだ。グランドを去る際、学生一人ひとりにグータッチを求めた。

 ほぼ1週間に渡るピエリアンアウンのトレーニングサーキットは終わった。心配された3週間のブランクによるケガもなく、翌日に現在の住所登録をしている大阪に帰っていった。せっかく上がってきたフィジカルをまた元に戻すわけにはいかない。帰阪後はひたすらひとりで追い込んでいた。

 そしてYSCC横浜の吉野代表が加入についての発表を約束した2週間後の7月23日14時。吉野の直接、本人の顔を見て話したいという意向から、横浜と大阪をZoomで結んで評価と結果が伝えられた。

「我々が下したGKとしてのまず評価です。そのプレーはキャッチングがすばらしく、ファイティングスピリットが見えました。ただフィジカルが落ちていました」。ピエリアンアウンはアウンミャッウインによる通訳を神妙な面持ちで聞いている。「トータル的な評価をします。今、後半戦に向かう途中で我々は強化をしています。あなたは5番目のGKという順位になります。その中で正式な選手としての契約はできません」

 GKは先発が試合中にケガでもしない限り、サブは出番が無い。その様なポジションでチームとして5番手を抱える余裕は無い。

 要はJ2への昇格をかけてリーグ再開に向けて戦う中で、強化戦力としては認められないというプロとしての評価であった。その上で、吉野は相手に落胆の表情が浮かぶ前に言った。

「ただし、2つ提案があります。来年のシーズンスタートの時にJリーガーになりたいというのであれば、私たちのチームで練習生としての環境を提示するのは可能です」

 将来を見据えての丁寧な提案であった。たとえ公式戦に出場ができない練習生でも選手としてレベルの高いサッカーができる環境が確保され、そこでの努力次第では、来季に他チームも含めて公式登録の夢を実現させることもできる。「3日間の練習では自分を出し切れなかった」というピエリアンアウンにすれば大きな機会と言える。

 さらに吉野が続けた。「もうひとつは、YSCC横浜はフットサルチームも運営しています。こちらは今、GKが1人しかおらず、まだ監督もプレーを見ていない段階ですが、頑張れば、このチームでの公式戦でのプレーも可能かと思います」

 間口を広げ、フットサルでのプレーはどうかと提示してくれたのである。

「そこまで、私の人生について考えて下さったことに心から感謝します。(吉野)代表はこんなに親身になって選択を広げて提案をして下さいました。私は練習生もフットサルも頑張って取り組みたいと思います」。感激していると素直に言葉にした。

 7月30日、新しい練習生はYSCC横浜の練習グランドに立った。報道陣から浴びる質問ひとつひとつに決意を上書きして語った。「ミャンマー人として、難民の選手として、初のJリーガーを目指します」。粛々と質疑が繰り返され、最後に今、母国の人たちに伝えたいことはないか?という質問に及んだ時だった。脳内を占めていたサッカーに対する思いが霧散し、瞬時に感情が漏れた。

「できることならば、ミャンマーに帰って親しい人たちに会いたいです。サッカーをしている時間だけはプレー以外のことを忘れることができます。しかし、ピッチを出ればいつも母国の悲しみを考えています」

 日々、故郷からは市民が殺害されるニュースが引きも切らず届けられる。さらに軍事政権はコロナ禍において、個人への酸素の販売を停止しており、人為的な病死を誘発しているのだ。

 こらえきれず、この時、日本に来て初めて人前で涙を見せた。しかし、それも一瞬だった。「フットサルチームの練習時間と会場を(吉野)代表に訊いておきたい」。そう言うと、午後のスケジュールに向けてバッグを担いで駐車場に向かった。

 新しい挑戦の時間が始まった。

(了)