「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#88「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信す…
「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#88
「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信する。陸上はスプリント指導のプロ集団「0.01 SPRINT PROJECT」を主宰するアテネ五輪1600メートル4位の伊藤友広氏と元400メートル障害選手でスプリントコーチの秋本真吾氏が、走りの新たな視点を提案する「走りのミカタ」を届ける。
第7回は「マラソンを見て走りたくなった人たちへ」を前後編でお届けする。7日に女子、8日に男子が行われ、盛り上がったマラソン。ランニングブームが日本でも起こる中、普段は走りと縁遠い人も感化され、「走りたい」と思った人がいるだろう。一方で、走りに苦手意識を持ち“走らず嫌い”が多いのも事実。後編は走ることが人をどう幸せにするのか、その本質に迫った。(取材・構成=THE ANSWER編集部・神原 英彰)
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“走らず嫌い”が珍しくない世の中。伊藤氏と秋本氏は「0.01秒」を突き詰め、走りを通して人が成長する価値提供を目指して「0.01 SPRINT PROJECT」を旗揚げ。延べ数万人の小学生やプロアスリートを指導。今なお、走りを追求し続けている。なぜ、そんなに走ることが好きなのか。
「突き詰めると、速く走っている自分を知っているからだと思います。走りが嫌いな人は速く走れる爽快感、『こんなに速く走って気持ち良い』と味わえないから、きっとつまらない。ただつらいし、速く走れる感覚もないし、面白くない。でも、それは僕もプロ選手選手の内川聖一さん(ヤクルト)の指導の際に野球で感じました。ティー打撃を自主トレでやらせてもらうと、全く球に当たらない、バットを持つ手が超痛い。
『何が楽しいの、これ』と本当に思いました。でも、アドバイスをもらってやったら徐々に当たり出し、『あれ、ちょっと楽しいかも』と。そう思えたのは『できた』からです。やってみて成功し、良い感覚を得て、気持ち良さを感じられたから楽しいと変換できた。これは走りに限らない。本が好きな人、ゲームが好きな人、音楽が好きな人……。すべては気持ち良さや楽しさ、爽快感を感じるポイントを知っているからです。
例えば、ゲームで強い敵を倒して経験値が増え、レベルが上がった時のあの音を聞いたら楽しくなる人がいる。でも、僕のようにゲームが好きじゃない人は『レベル上げなんてだるい』と思う意識と似ています。根本は全て同じ部分。僕がやる気がないゴルフを勧められて練習しても当たらない。どんどんつまらなくなり、できるまでやらずに終わる。でも、継続してやって当たった時に初めて面白いと思えると思います」(秋本)
「環境によって運動経験は偏るもの。たまたま僕らは陸上競技に触れ、小さい頃に足が速かったという素地があり、この世界に向かってきました。走りが好きじゃない人に目を向けると、そもそも足が遅かったり、ジョギング・ランニングを改めてやるきっかけがなかったりするのだと思います。
僕らは子供向けのかけっこイベントに呼んでいただく時はいつも『きっかけの提供』と思ってやっています。僕らが発信した情報や僕らと一緒にやった体験がきっかけになって、走るって楽しいな、これからも運動してみようかなという機会の提供ができたらと思い、活動しています」(伊藤)
“走らず嫌い”が生まれる背景に教育システムの根深い問題
走りは基本的な運動動作であり、幼少期に誰もが通る道でもある。水泳やバスケットボールは体育の授業に限られるが、走りは運動会に徒競走が用意され、誰もが向き合うこと。そうした過程から“走らず嫌い”が生まれる。
「統計では、運動会が嫌いだった子供が4割くらいいると聞きます。足が遅い自分が公衆の面前に晒される、大会に向けた準備が面倒くさいというところも含めてのようですが。加えて、学校体育の評価の仕方は、陸上競技でいったら『足が速い』が一番の評価を受ける。『頑張っている』は評価の対象じゃない。かつて、フィンランドの関係者が日本の小学校を見に来て、マラソン大会で順位を付けているのを見て驚いたと聞きます。
例えば、米国のある学校では心拍数にフォーカスして評価するシステムがあります。心拍数を測れる機械を使って持久走をやる。その時にすごく後ろの方を走っていても、走り終えた後の心拍数がかなり上がっていたら、その子は『頑張っている』となり、評価してあげる。反対に、運動能力が高く、いくら先頭を走っていても実際には手を抜いていたら、心拍数はそれほど上がらない。それは評価が低くなるという仕組みです。
その効果は運動に限らない。
「さらに、子供の健康増進のための取り組みであるとともに、学習前に有酸素運動を行うことで集中力、記憶力が高まるという学習効果を一番の目的として行っており、実際テストの成績が上がったという実績に結びついているそうです。運動能力を評価する体育ではなく、学業に好影響を与えるための体育と言えます」(伊藤)
日本の教育システムの根深い問題が、人間の生涯の「走り」に与える影響は大きい。
「『速い』や『うまい』だけで評価されてしまうと、いくら頑張って成長しても評価を受けられなかった人が生まれます。走りの領域では小学生のうちは体の成長の個人差が大きいので、身長が高い、筋肉量が多いという理由でタイムが出る人もいます。そんな理由で、身体が小さい子は自信を失う。学校体育もそうじゃない仕組みを作っていく必要性を感じています。
例えば、僕らのかけっこ教室はこんなスタンスを取っています。『人によって速い遅いがありますが、まずは走り方を良くすることで今の自分よりも速くなれたかどうか、自分自身と比較するところに評価軸を持ちましょう』と、そういうメッセージで子供たちに接しています。その上で、フォームの変容(定性的な評価)とタイム測定(定量的な評価)と両面からアプローチします。
タイムも50目メートル走だけでなく、ケンケン、スキップなど多様な評価軸を持ちます。そうすることで自分の成長が様々な角度から実感できます。まず評価の仕方を変えてあげないと、食わず嫌いと同じように、ちょっとだけ触れて走りが嫌いになってしまう子が、どんどん増えるんじゃないかと感じます」(伊藤)
「僕も小学校の時は手を抜いても勝てるくらい足が速かったです。やはり速いだけで評価されました。でも、伊藤が挙げた逆のパターンで、僕は中学校で周りの成長期のタイミングとぶつかり、いきなり足が遅くなって評価が逆転してしまった。自分なりに頑張っているのに。そうなると、かつての僕のように早熟の子は早熟の子で落差、落胆を感じることがあるのではないかと思います。
今は自分のベストを評価する教育システムではない。遅咲きの子、例えば、早生まれの子が成長の差で『はい、勝てませんでしたね』『ビリでしたね』でスポーツ嫌いになる理由にある気がしています。小学校時代に評価されたのに、中学に行った時に全く伸びなくなったら『はい、伸びていませんね』という評価になるのは成長が早い子、遅い子の両方に良くないと感じてしまいます」(秋本)
心を整え、人を健康にする「それが走りが与える幸せ」
サッカーも野球もバスケットボールも……。走りはあらゆる競技に共通し、五輪ではいろんな選手が走り、汗を流し、戦う姿に胸を打たれ、最終日にマラソンで幕を閉じた。では「走り」は人をどう幸せにするのか。
「走りがもたらす幸せの一つとして、1日のうちの20~30分程度の時間を運動に充てて、自分と向き合う時間を作った方がいいのではないか。特に社会人として働き出し、日々に忙殺されると、その時間を捻出するのも億劫になり、難しくなると思いますが、その機会を敢えて作って、自分と向き合うことをやった方が幸福度は上がる気がしています。また、その理由はいろいろあると思います。
特に『歩く』『走る』の効果の一つはホルモンの分泌が促されるところ。メンタルの状態は間違いなくホルモンに影響を受けます。ジョギングがマインドフルネスの領域でも使われますが、そういう意味でも心が整う。歩く、走る時間は雑念が取り払われやすいので、そこで自分のやるべきこと、今後どうしていくか、考えを整理するという時間にも充てられ、自分と向き合う対話に価値が生まれます」(伊藤)
「僕が思う走りの強みって、1人でもやれるということ。野球やサッカーは誰かと一緒じゃないないとできないし、フットサルを社内でやろうといっても人数を集めないとできない。でも、走りは向き合う相手が自分。水泳もそうです。いわゆる個人スポーツは『対誰か』という指標ではなく、『対自分』でどう変わっていくか。そこを楽しめる人は走りを好きになって続けている人が多いです。
例えば、僕の知っているランニングクラブは、みんな向いている矢印が他人ではなく自分にあります。だから、『このマラソンに出て優勝します!』という意識の人はあまりいない。自分なりのベストの3時間とか、4時間とかを切りたいと、矢印が自分に向いている人。それがすごく大事に思います。走りって始めやすいので。今から着替えて靴を履けば、すぐにでもできませんか?」(秋本)
最後に伊藤氏はこう話し、「走り」が持つ最大の価値を訴えた。
「もう一つ、間違いなく推したいのは、様々なスポーツがあるなかでも『やっぱり“歩く”“走る”なんだよ』ということ。例えば、江戸時代まで日本人は1日3万歩ほど歩いていたと言われています。飛脚なんて、どこまでいくのかという距離を走っていました。それが、ここ100年くらいで便利・快適になりすぎて歩く歩数が圧倒的に減り、日本人の足は弱っていると言われています。
海外の20代自転車選手が骨密度を計ったら80歳代だったというデータがありました。自転車は足で接地しないためで、それほど足の骨への刺激とホルモン分泌は重要。日本人は指が弱い課題もあり、それらを整える役割ができるのは歩く走る。生活習慣病が増える背景には歩数の減少も一因にあります。いったん原始的なところに立ち返り、不健康を解消する。こうして人が健康になることが、走りが人に与える幸せだと思います」(伊藤)
■伊藤友広 / Tomohiro Itoh
1982年生まれ、秋田県出身。国際陸上競技連盟公認指導者(キッズ・ユース対象)。高校時代に国体少年男子A400メートル優勝。アジアジュニア選手権日本代表で400メートル5位、1600メートルリレーはアンカーを務めて優勝。国体成年男子400メートル優勝。アテネ五輪では1600メートルリレーの第3走者として日本歴代最高の4位入賞に貢献。現在は秋本真吾氏らとスプリント指導のプロ組織「0.01 SPRINT PROJECT」を立ち上げ、ジュニア世代からトップアスリートまで指導を行っている。
■秋本真吾 / Shingo Akimoto
1982年生まれ、福島県出身。双葉高(福島)を経て、国際武道大―同大大学院。400メートルハードルで五輪強化指定選手に選出。200メートルハードルアジア最高記録(当時)を樹立。引退後はスプリントコーチとして全国でかけっこ教室を展開し、延べ7万人を指導。また、延べ500人以上のトップアスリートも指導し、これまでに内川聖一(ヤクルト)、槙野智章、宇賀神友弥(ともに浦和)、神野大地(プロ陸上選手)、阪神タイガース、INAC神戸、サッカーカンボジア代表など。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)