「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#38「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信す…

「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#38

「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信する。柔道では、活躍した選手の恩師の育成法をクローズアップした短期連載を掲載。第7回は、女子78キロ級金メダルの浜田尚里(自衛隊)。鹿児島南高時代の恩師の吉村智之氏(現・国分中央高監督)は鹿児島から勝つ方法にこだわり、浜田を鹿児島から九州、九州から全国へと飛躍させた。五輪直前にあったほほ笑ましい秘話も公開する。(取材・文=THE ANSWER編集部)

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 初戦の2回戦から決勝まで4試合すべてを寝技でオール一本勝ち。横四方固め、送り襟絞め、腕ひしぎ十字固め、崩れ上四方固めと面白いように決めた。日本を代表する“世界の寝技師”が初の五輪で躍動した。

 浜田の原点は地元・鹿児島にある。中学時代までは無名の選手。鹿児島南高は県内有数の強豪校だったが、全国を見据えるには遠い位置にいた。「中学で活躍する選手もいたんですけど、そういう選手はほとんど関東に出ていく」。地元に残された形の選手たちは高い目標を掲げるより、目先の目標に向かうタイプが多く、地方校ならではの雰囲気があった。

 それを変えようとしたのが吉村氏だった。

「私も鹿児島の日本では地方の田舎のほうで柔道をやっているので、可能性にかけることの大切さというか、それはよく話をします。たとえば、地方だからできないとか、選手が集まらないからできないということではない。じゃあ、実現するにはどうするかといったら続けるしかない。ちょっとやって結果が出るようなことはあまりないので。田舎だからと劣等感を持たずに、やってやるんだという気持ちを大切にしてほしいなというのが指導の中心です」

 鹿児島南高に赴任後、練習は一生懸命こなす女子選手の姿に、自身のモチベーションも高まったという吉村氏。血気盛んに「鹿児島から日本一」を掲げ、部員の意識改革に乗り出した。「関東の強い選手を見て憧れの目で見てるんですよね。『わー、かっこいい!』とか。いやいや、それじゃ勝負できないだろってこっちは思うんですけど、そういうのも変えたかった」。練習場所は違えど、同じ高校生。「どうせ鹿児島では勝てないから」という意識を捨てさせ、闘う集団を目指した。

 鹿児島南高に赴任して3年が経っていた。浜田が入学してきたのは、ちょうどその頃だった。168センチの身長に魅力を感じてスカウトしたものの、「これは断言していいですけど、まったく弱かったです。寝技は特に」。浜田は5月の全国高校総体(インターハイ)県予選には選手として出場していない。部員の半数以上が試合に出ている中で、浜田の存在は薄かった。

 吉村氏が本格的に浜田を指導したのはその後だった。授けた武器は寝技。3時間半の練習時間で、比率は7:3で7が寝技だった。一般的には8:2で8が立ち技というから思い切った。

「今は寝技をする選手も多いんですけど、強い選手たちはほぼ8割9割の選手が立ち技が得意で、寝技はそんなに得意じゃない。弱くはないけど、強くはないという選手なんですね。鹿児島であまり実績のない選手を集めて日本のトップを狙うにはと考えたら、立ち技はやるけど寝技主体というのが私の考えだったので、チームとしては寝技の強化をずっとやってました」

「あれ、この子、寝技いけるんじゃないの?」、浜田に寝技の適性

 寝技中心の理由はそれだけではなかった。「男子で昔、鹿児島実業が団体で全国制覇をした頃があったんです。鹿実は寝技なんですよ。鹿児島実業の寝技は日本一を取るくらいだったというのを聞いたことがあったので、そういう郷土の柔道的な歴史だったり、いくつか重なって、寝技で勝つ柔道というか、それを主に取り組んだ感じですかね」。先輩たちが残した栄光のわだち。そこにヒントがあると考えたのだ。

 意外にも現役時代の吉村氏は「寝技は大嫌い」な選手だったという。「寝技の練習になったら、どんなふうにして流そうかなっていう感じで……。練習はしてこなかったですね」と力を抜くことばかり考えていた。生徒を鍛えるために、自身も勉強した。他校の指導者にアドバイスを求め、「寝技師」の名を轟かせた元世界選手権王者の柏崎克彦さんの映像素材を見て極意を吸収した。

 浜田に寝技の適性があると感じたのは、高校1年の秋だった。「あれ、この子、寝技いけるんじゃないの?」。浜田自身も手応えをつかむと、ますますのめりこんだ。浜田は吉村氏夫妻とともに、合宿所暮らしだった。他の部員より朝、早く出発する姿が決まった習慣だった。吉村氏はその理由を知らなかったが、浜田は誰もいない道場で柏崎さんの寝技の映像を見て研究を重ねていた。

 練習への真面目な姿勢は入学当初から目を引いていた。

「ものすごく頑張り屋だな、ということはほかの選手よりも強く感じました。本当に弱いので人形のように投げられるんですけど、すぐに立ち上がる。柔道は投げられたら照れ隠しというか、ゆっくり立ち上がって時間稼いでみたいなところもある選手もいるんですけど、浜田はすぐ立ち上がってすぐ向かう。すぐ向かえば、すぐやられるわけですよね。だけど、彼女の場合はすぐ立ち上がって、すぐ向かって、すぐ投げられて、すぐ立ち上がってというところはすごくよく見えました」

 寝技の名手は「寝技は裏切らない」「手順通りにしっかりこなせば、間違いなく取れる」と口をそろえる。「浜田は1つのことをやり始めたら、言い方が適性ではないかもしれないですけど、病的なぐらいにやめないんですね。そういう志向がある。寝技は基本的には力を入れ続けて相手を制するまで詰め込んでいく。そういうところは適性があったのかなと思います」と吉村氏は話した。

 人柄は明るく、大風呂敷は広げない。一つ一つ階段を丁寧に上っていくタイプだった。吉村氏は高校2年のときのエピソードを思い出す。

「九州大会で優勝した後、すぐに全国の優勝に向けて進むうのかなと思ったら、彼女の中ではちょっと空白の期間があったんですね。当時書いていた練習ノートにも目標の欄が空白の期間があって、そのときに話をしたことを覚えているんですけど、目標は?って聞いたら『う~ん』って言うんです。九州で優勝したから次はいよいよ日本一じゃないのみたいな話をしたんですけど、『う~ん』って。で、数日後にインターハイ優勝、日本一っていう目標を書いてきたんです。彼女は言ったことはやるタイプ。簡単には設定できない。言ってやらないことがあまりないんです」

 自分の現状と目標との距離感を冷静に分析。距離感がつかめたら目標を決め、それに向かって全力で突き進む。浜田の性格を理解した吉村氏は、その後も温かく成長を見守った。

交わした師弟の約束「鹿児島にメダルを持って帰る」の後に…

 コロナ禍での1年延期も前向きに捉えていた。浜田が試合をするはずだった2020年の7月30日、吉村氏は「今日は五輪の日ですね。1年後だけど、尚里らしく頑張れよ」とメッセージを送ると、浜田は「すごくいい準備期間です」と返した。そして今年6月、吉村氏は五輪に向けたまな弟子の決意を受け取った。

「五輪前には鹿児島には帰れそうにないですが、終わったときにはメダルを持って帰れるように頑張ります」。この言葉の後には、絵文字がついていた。

「金メダルとは書いてないですけど、メダルの絵文字は、金メダルみたいなのがくっついていました。こういうところも私はあえて触れないようにしているんですね。なぜ金メダルって書かないのかなって思ったりもするし、それをこっちが言ったらあまりよくないかなとか。だけど、メダルっていう言葉の後には、これはどうみても金メダルだなっていうようなメダルの絵は載っていました。かわいい子なんですよ」

 小学校から大学まで鹿児島の柔道選手だった吉村氏。自身に影響を与えた恩師はいたのか。

「小学校の少年団は強かったんですけど、中学高校は『そこって柔道部あるの?』というようなところだったんです。そこで、素晴らしい恩師との出会いがあって、柔道部があるかないか分からないところが鹿児島で団体戦で中学も高校も優勝したんです。レベルは違うんですけど、鹿児島の地方でも、鹿児島の中でも田舎のところでも、そして初心者が集まったようなチームでも、鹿児島で一番になれるっていうのは私の中で自信でした」

 鹿児島から日本一、そして世界の頂点へ。浜田の金メダルの裏にあった師弟の物語。鹿児島の柔道史に新たな1ページが刻まれた。(THE ANSWER編集部)