「オープン球話」連載第76回 第75回を読む>>【公私ともにお世話になった永尾泰憲さん】――広岡達朗監督時代の懐かしいメ…

「オープン球話」連載第76回 第75回を読む>>
【公私ともにお世話になった永尾泰憲さん】
――広岡達朗監督時代の懐かしいメンバーについて伺っています。前回までは角富士夫さんについてでしたが、今回はどなたにしましょうか?
八重樫 永尾さんはどうかな?
――永尾さん......、永尾泰憲さんですね。佐賀西高校からいすゞ自動車を経て、1972(昭和47)年ドラフト1位でヤクルトアトムズに入団。1950年生まれですから、八重樫さんよりも1歳上ですが、プロ入りは八重樫さんのほうが3年早いことになりますね。
八重樫 永尾さんとは公私ともに仲がよかったんですよ。初めて会ったのは1973年の自主トレの時だったのかな? 僕が練習していたら、永尾さんがやってきて話しかけられたんです。それまで面識はなかったんだけど、「永尾と言います。ノンプロ時代の寮が横浜で、八重樫クンのアパートのすぐそばだったんです」だって(笑)。それが最初の会話で、「ずいぶん気さくな人だな」って思ったのが第一印象。年齢は永尾さんのほうがひとつ上だけど、全然そんなことを感じさせない気さくさがありましたね。

ヤクルト、近鉄、阪神と渡り歩いた永尾泰憲
――それ以来、ずっと親密な関係が続いたんですか?
八重樫 のちに詳しく話すけど、永尾さんが近鉄に移籍したあとも、ずっとおつき合いは続きました。あの頃、千葉の行徳にヤクルトがマンションを持っていたんですよ。本社の人だけじゃなくて球団関係者もマンション購入ができたんだけど、永尾さんもそのマンションを買って住んでいたんです。そこにもよく遊びに行きました。
――ご自宅まで訪れる仲だったんですね。
八重樫 神宮で試合があるでしょ。それで、「明日は休みだ」という日になると、永尾さんが「八ちゃん、うちに遊びに来いよ」って誘ってくれるから、試合後そのまま行徳まで泊まりに行って、食事をごちそうしてもらったことも何度もあります。奥さんとも顔なじみになって、本当によくしてもらいましたよ。
【広岡さんとの対立が原因で近鉄移籍】
――永尾さんは社会人経由のドラフト1位入団ですけど、入団当時にはその才能の片鱗は感じられましたか?
八重樫 体は小さいのに、もう大人の体なんですよ。若松(勉)さんが社会人経由でプロ入りした時も感じたんだけど、社会人時代に徹底的に練習して鍛えられているから、そもそも高卒ルーキーとは体の作りが違っているんです。ランニングをしてもスタミナはあるし、バットを振ってもスイングスピードが速い。入団直後から、「やっぱり、社会人出身者は違うな」と思いましたね。
――広岡監督時代の1977年にレギュラーに定着しますね。広岡さんと永尾さんの関係は良好だったんですか?
八重樫 永尾さんは本当に負けず嫌いなんです。前回まで話した角(富士夫)もかなりの負けず嫌いだったけど、角の場合はそれを表には出さない。内に秘めた闘志なんです。でも、永尾さんは悔しさも喜びも、全身で表現するタイプなんですよ。そして、その苛立ちや不満を口にするタイプでしたね。
――不平、不満が広岡さんの耳に入ると大変なことになりそうですね。
八重樫 そうですね。陰で言うんじゃなくて、永尾さんの場合は広岡さんに面と向かって言っていましたから。たとえば、広岡さんがゴロ捕球の指導をしていた時、「反動で動くんじゃなくて、パッとボールに瞬時に対応しなさい」みたいなことを言われたんです。で、永尾さんは言われた通りにやっているつもりなんだけど、広岡さんから見たら「まだダメだ」「全然ダメだ」となるわけです。
――それに対して、永尾さんはどんなリアクションを?
八重樫 永尾さんはそれに対して、「いや、やっています」とか「じゃあ、どうすればいいんですか?」と。たぶん、広岡さんにとってはそれが反抗的な態度に見えたんでしょう。結局はトレードの要因になったんだと思いますよ。
【年齢が上でも、球団が変わってもつき合いは続いた】
――まさに、その点について伺おうと思っていました。1977年に規定打席に到達した永尾さんでしたが、翌1978年には新外国人のデーブ・ヒルトンがセカンドのレギュラーになったことで、永尾さんの出場機会が激減しました。そして、チームがリーグ初優勝、日本一を果たした同年オフ、チャーリー・マニエルと共に近鉄にトレードされます。これは広岡さんの意向が反映されたものだったんでしょうか?
八重樫 広岡さんとケンカしたのは事実でしたからね。戦力としては必要だったと思いますけど、自分に突っかかってくるタイプの選手を広岡さんは嫌いでしたから。永尾さんも自分の意見を決して曲げない人でしたしね。僕としては、「まだまだヤクルトにとって必要な戦力だよな」と思っていました。
――実際、移籍先の近鉄では出場機会が増えていますからね。
八重樫 永尾さんが移籍した1979年、1980年と近鉄は連続優勝をしましたよね。さらに先の話になるけど、近鉄から阪神に移籍して、1985年の阪神日本一も経験しています。1978年のヤクルト日本一、1979、80年の近鉄パ・リーグ連覇、そして1985年の阪神日本一。永尾さんは不思議と優勝経験が多いんです。
――プライベートでの永尾さんはどんな方だったんですか?
八重樫 気さくでよくしゃべる人なんだけど、とても真面目な性格で冗談が嫌いなんですよ。何ひとつ冗談を言わないから、「もう少し冗談も言ってくださいよ」と言ったこともあります。そうしたら、「オレは冗談が言えないんだ」って、やっぱり真面目に答えてました。たまに冗談らしきことも言って、自分で「ハハハ」って笑うんだけど、こちらとしたら、ちっとも面白くないんだよね、これが(笑)。
――小柄だったけど、ガッツあふれる選手だった印象があります。
八重樫 本当にガッツマンでしたよ。ベテランになってもダイビングキャッチを試みて、ユニフォームを真っ黒にしてプレーしていましたから。ヤクルト、近鉄、阪神とチームが変わっても、どこに行っても、「負けまい」という強い意志でプレーしていましたね。現役引退後、阪神でコーチになってからも、ガッツあふれる姿は変わらなかったな。
――現役引退後は阪神ひと筋で指導者を務め、スカウトとしても活躍されました。
八重樫 阪神時代、永尾さんがノックをしている場面を見たことがあるんです。そのノックを見ていて、「あぁ、広岡さんのノックみたいだな」と思ったんだよね。若手や控えの選手には真剣そのもので、長時間、ずっとノックバットを握り続けているんです。まるで広岡さんそのものでしたよ。決して「バカヤロー」「しっかり捕れ!」みたいな罵声を飛ばすようなことはないんです。濱中(治)なんか、相当鍛えられたようですよ。
――かつて、広岡さんと対立したのに、結果的には広岡さんの教えが息づいていた。それもまたグッとくる話ですね。
八重樫 確かに対立はあったし、それによって近鉄に移籍することにはなったけど、決して広岡さんと仲が悪かったわけではないと思うんです。永尾さんは、思うようにプレーできないもどかしさから自分に苛立っていただけなんですよね。かつては、ひとつ年齢が違うだけで話もできない時代だったのに、永尾さんとはプライベートでも、球団が変わっても、気さくに話せる人。それが、僕にとっての永尾さんですね。
(第77回につづく)