"つなぐ"、これがソフトボール日本代表の信条である。2008年北京五輪以来、13年越しのオリンピック連覇。39歳の上野由…
"つなぐ"、これがソフトボール日本代表の信条である。2008年北京五輪以来、13年越しのオリンピック連覇。39歳の上野由岐子と20歳の後藤希友(みう)の完封リレー。夢は現実となり、チーム一丸で東京五輪の金メダルをもぎとった。

優勝決定後、抱き合って喜んだ上野由岐子とリリーフした後藤希友
最終7回。ソフトボールならではの「リエントリー」というルールで、上野がマウンドに戻った。右腕が渾身の力で投じた、この日の89球目。米国打者のポップフライが捕手・我妻悠香(はるか)のミットに収まると、上野は両手を夜空に高々と突き上げた。
宇津木麗華監督の胴上げが終わると、上野は監督と抱き合い、そして泣いた。「もう、ほんと感無量です」とエースは漏らした。
「前回(北京五輪)のメダルと違って、地元開催でプレッシャーも大きかったし、近くで麗華監督を見ていて、日に日に重圧に押しつぶされちゃうんじゃないか、という姿を見てきた。少しでも力になりたかった。こうやって恩返しができてほんと、よかったです」
27日夜の横浜スタジアム。浜風が吹いていた。決勝戦の相手は宿敵米国。2000年シドニー、2008年北京に次ぐ、頂上決戦となった。
先発マウンドには、やはり大エースの上野が立った。初回2人目の打者にセンターフェンス直撃の三塁打を打たれた。いきなりのピンチだ。次の米国打者の振り逃げ三振のボールを捕手我妻がうしろにそらした。三塁走者が本塁を狙ったが、上野が絶妙のベースカバーでタッチアウトとした。次打者を三振。
その後も上野は緩急をつけ、丁寧に投げた。スコアボードの計測表示では最速114キロをもマークした。前日の米国戦のデータからもらった「傾向と対策」を生かした。そこに13年前の北京五輪時とはひと違う円熟の味があった。
何より、バックを信頼していた。守備は今大会、ノーエラーを続けた。打線はしぶとく2点を援護した。上野は6回、先頭打者にレフト前ヒットを打たれた。ここでマウンドを20歳の左腕にゆずった。
その後藤は荒々しいフォームで、米国打線にいどんだ。小学校3年生の時、北京五輪の「上野の413球」に感動し、ソフトボールを始めた"シンデレラ・ガール"。いや救世主だ。もし新型コロナ禍で東京五輪が1年延びていなければ、五輪マウンドに立つことはなかっただろう。長いリーチを生かし、110キロ前後の速球を投げ込んだ。勢いがあった。
だが中前打を打たれ、6回一死一、二塁となった。ここでミラクルが起きた。猛練習で培った野手たちの集中力と連携があればこそだろう。米国打者の痛烈な打球がグラブを伸ばした三塁手・山本優の左腕にあたり、跳ね上がったボールを、ショート渥美万奈がノーバウンドで好捕した。
二塁走者がベースを離れたところ、二塁手の市口侑果に送球し、アウトとした。ダブルプレーとなりチェンジ。もし打球が抜けていれば、タイムリー左前打となるところだった。
最終7回、上野が再び、マウンドへ。上野の述懐。
「途中、リリーフで投げてくれた後藤が顔面蒼白(そうはく)で、いっぱい、いっぱいで投げてくれたのを見て、逆に自分がやるんだと奮い立たせてもらった。そのおかげで、最後、気持ちを強く投げることができた」
2-0の快勝だった。北京五輪の決勝戦はひとりで投げぬいた。だが、今回はふたりでつないだ。そこが違う。貴重な経験を後輩に残した。「世代交代」を予感させた。次代のエース、後藤は「最高にうれしいです」と声を弾ませ、言葉に実感をこめた。
「いい経験を積ませてもらったので、それを今後のソフトボール人生に生かしていきたいです。一生に一度しかない東京五輪を経験でき、最高の気分を味わえました」
この13年、いろんなことがあった。上野が26歳の時の北京五輪優勝の後、ソフトボールが五輪競技から一時除外されこともあり、現役引退を考えた。いわば「燃え尽き症候群」か。実際、指導者になるための資格もとった。
ある日、所属チームの監督を務めていた宇津木監督からこう、言われた。「今度はソフトボールに恩返しをする番じゃないか」と。
もう自分の夢のため、ではない。ソフトボールの人気を上げるため、若手のため、こどもたちのため、投球を極めることとなった。2011年3月の東日本大震災も無関係ではあるまい。上野の「使命感」が頭をもたげた。
むろん、年齢とともに体力は落ちていく。無理がきかなくなった。2014年のひざの故障の悪化、2019年の顔面骨折。スランプもあった。そのたび、引退の文字が頭にちらついた。
悩み苦しんだ分、上野はココロが強くなった。東京五輪前、「あの(北京五輪の)時とはメンタル面が違う」と言っていた。
「ソフトボールに対する向き合い方が、13年前と今はほんと、180度変わっている。つらい経験だったり、周りの応援だったり、いろんなものを積み重ねたから今がある」
上野はこの五輪、6試合中4試合に先発し、22回3分の1を投げた。26奪三振。被安打13の3失点。防御率は0.94だった。
上野は「がんばってきたよかった」と漏らした。2004年アテネ五輪、2008年北京五輪、そして今回の東京五輪。「3回出させてもらって、今回が一番楽しかったです」。笑いながら、涙をこぼした。
宇津木監督の重圧とて、並大抵のものではなかっただろう。試合後、「正直言うと、この1週間、コワかった」と打ち明けた。涙声でつづける。
「ただ、今回も、上野が必ずやってくれると信じていた。後藤にも経験させたいと思っていた。そういう意味で、上野に感謝、感謝、上野は神様です」
最後はマウンドに上野を再び、送り出した。「それは上野にしかできないことだから」。ここに信頼がある。
上野は、北京五輪の優勝の後はグラウンドでナインに肩車されていた。この日は、ナインと一緒になった歓喜の輪のなかにいた。チームメイトへの意識の変化が垣間見えた。世代をつなぐ、夢をつなぐ、未来へつなぐ。
ソフトボールは次の2024年パリ五輪では再び、実施競技から外れる。でも、上野は前を向く。2つめの金メダルを胸に下げて。
「13年という年月を経て、最後まであきらめなければ、夢はかなうということをたくさんの方々に伝えられたと思う。ソフトボール競技は次回(の五輪)からなくなってしまうけど、あきらめることなく、しっかり前に進めたらいい」
新たな夢は、次の次の2028年ロサンゼルス五輪でのソフト復活か。上野はかつてもこう言っていた。願えばかなう、と。