文武両道の裏側 第4回 女子柔道 朝比奈沙羅選手(ビッグツリースポーツクラブ/獨協医科大学)前編 今年6月にハンガリー・ブダペストで開催された柔道の世界選手権、女子78キロ超級の決勝で、日本人対決を制し、2大会ぶり2度目の金メダルを獲得した…

文武両道の裏側 第4回 
女子柔道 朝比奈沙羅選手(ビッグツリースポーツクラブ/獨協医科大学)
前編

 今年6月にハンガリー・ブダペストで開催された柔道の世界選手権、女子78キロ超級の決勝で、日本人対決を制し、2大会ぶり2度目の金メダルを獲得した朝比奈沙羅選手。試合終了直後、左ひざを負傷した冨田若春選手のもとに駆け寄り、おんぶしながら一礼し、会場を去る姿に、国内外から称賛の声があがった。



6月の柔道世界選手権の決勝。優勝した朝比奈沙羅は、負傷した冨田若春選手をおんぶして畳を降りた。

「冨田選手には恥ずかしいという思いをさせたかもしれないけど
・一刻も早くチームトレーナーの元に負傷した選手を引き渡す事
・この状況下で試合をさせてくれた関係者や会場に礼をして畳を降りる事
を鑑みると、"正解"かは分からないけど、自分のとった行動は間違いではなかったと思っています」(原文ママ)

 大会後、このように自身のTwitterにつづった朝比奈選手からは、スポーツマンシップだけでなく、現在、医学の道を志す獨協医科大学医学生(2年生)としての精神もうかがえた。

 連載企画『文武両道の裏側』の第4回。前編では、医学生でありながら、柔道選手として世界のトップレベルで戦う朝比奈選手の幼少期から大学受験に迫った。

* * *

――幼少期のお話からうかがえればと思います。小さい頃はどんな習い事を?

「たくさんやっていましたね。3歳から水泳を習ってましたし、その後、バスケとかエアロビも。ほかに、ピアノやそろばん、公文と本当にいろいろな習い事をしていました。ただ、それらの多くが、どちらかというと『行かされている』感覚のほうが強かったんです。でも、小学校2年生で始めた柔道だけは毎日、自分からすすんで行っていました」

――自分からすすんで通うほど、どうして柔道にはハマったんですか?

「そもそも柔道を始めたきっかけは、アテネ五輪(2004年)でした。たまたま習い事がない日に、学校から帰ってテレビをつけたら(男子100キロ超級で金メダルを獲得した)鈴木桂治選手の試合が中継されていたんです。リビングのカーペットの上で、気づいたら正座をしながら見てました。『あ、これはすごい!』って、全身にバッと鳥肌が立ったんです。それで、私も柔道をやりたくなって。

 そのことを父に話したところ、講道館少年部春日柔道クラブへ見学に連れて行ってくれました。そのとき、なぜか『私はこの競技で、オリンピックで金メダルを獲れる!』って、謎の自信が湧いたことを覚えています」

――その後、朝比奈選手は私立の進学校として知られる渋谷教育学園渋谷中学高等学校(以下、渋渋)に進学します。渋渋に行きたいと思った理由は?

「小学校のときに所属していた春日柔道クラブの同級生のほとんどは、地元の文京区立第一中学校へ進むんですよ。なので、私も当初は、みんなと一緒にそこへ行くんだろうな、と思ってました。

 ただ父は、私が地元の中学に進むと柔道に明け暮れて勉強ができなくなるんじゃないかと心配だったみたいで(笑)。柔道も強くて勉強もできる中高一貫の学校に行ったほうがいいということを強く言われたんです」

――そうしたお父さまの考えに、朝比奈選手も納得したんですね。

「最初は『えー』って感じで(笑)。正直、幼馴染の友人と同じ学校へ行きたい気持ちがありました。だけど、いくつか私立中学校の柔道の練習に参加したとき、渋渋は、練習の環境や内容がすごくしっくりきたんです。それで渋渋を受けることにしました」

――中学受験のために、塾には通いましたか?

「塾には行きませんでした。小学校5年生くらいを境に、柔道の稽古が終わって、夕食のあとに夜の8時から10時までとか、9時から11時までとか、必ず2時間は机に向かうことを習慣にしました」

――塾には行かず、家で猛勉強したと。

「渋渋の過去問を買ってきて、どういう問題が出るかとか、対策を立てながら勉強しましたね。確実に点につながる漢字とか、社会の知識的な暗記問題を重点的にやって、塾に行っている子たちと比べても恥ずかしくないぐらいの点数を取れるように頑張りました」

――そうして見事、渋渋に合格したわけですね。中学校に入って以降、勉強と柔道はどのように両立していましたか?

「勉強と柔道の両立=『日常』って感じでした。中学2年生から全日本の強化選手に選ばれたのですが、あの頃は合宿が多かったんですね。年に6、7回とか。しかもそれぞれ1週間くらいあるので、授業に出られなかったところは、内容が抜けてしまって。

 だからこそ、合宿中に時間を見つけて勉強しようと思ったんですが、他の強化選手は大学生や社会人ばかりであまり話題も合わず......。練習後には、『合宿中なのになんで勉強してんの?』『眠れないから電気を消して』と、言われることもありました。でも、自分としては両方頑張りたいっていう気持ちが強かった」

――中学校の同級生から見れば、全日本レベルで戦っていた朝比奈選手は憧れの的だったのでは?

「みんなふざけて、『世界の朝比奈』とか呼んでましたが、『マジでやめろ!』って言ってました(笑)。あまり、褒められるのが得意じゃないので。

 ただ、部活をやってない子たちを見ると、やっぱりキラキラしてるわけですよ。渋谷にある学校ということもあって、放課後、スタバに寄ったり、センター街で遊んだりって姿を見て、うらやましく思うことはありました。自分とは違う人生の歩み方をしてるというか、青春を謳歌しててズルイって(笑)」

――都会的な学校生活を送る同級生が、柔道と勉強で忙しい朝比奈選手にはまぶしく映った、と。

「はい。でも、あるとき、代表合宿で、ひとつ年上の近藤亜美先輩(リオ五輪柔道女子48キロ級銅メダリスト)と話したとき、『柔道が生活の中心になるのは当たり前。自分は生半可な気持ちで強化選手になっていない』って言われて。トップレベルの選手は、みんなそういう気持ちで戦っているんだって、ハッとさせられました。私は甘ったれているなと。そこからは、同級生に対して、うらやましいとか思わなくなりましたね」

――今振り返れば、中高一貫の学校を選んだのは正解だったと思いますか?

「そうですね。渋渋に独自のカリキュラムがあったということも大きかったと思います。帰国子女の枠で入ってくる子もいるし、東大や京大のみならず、海外の大学を受ける生徒のための対策もしっかりしていたので、多様性にあふれた学校でした。本当にいろいろな同級生がいたので、刺激になりましたね」

――友達にも恵まれた?

「そうですね。中学1年生の時、同級生が試合の応援に来てくれたんです。そこで父が、『休みの日なのにわざわざありがとうね』と声を掛けたら、その子たちが『彼女は私たちの誇りです』と言ったらしくて。中学生がそんなことを言うなんて、と目を丸くしていました(笑)。

 私たちの代は、浪人生を含めて35人も東大に合格した、とんでもない学年だったんです。意識が高いというか、みんなで上を目指そうっていう雰囲気があふれてました。今でも同窓会で会ったり、学年全体のLINEグループで連絡をとったりしてます」

――大学の医学部への進学はどの時点で決めましたか?

「医学の道を選んだことに関しては、言い方がちょっと適切かわからないんですが、医療従事者である父からの"洗脳"というか、『沙羅は将来お医者さんになるんだよ、なるんだよ』って、呪文のように言われながら育ったので(笑)、気づいたらそう思っていたというか。でも、最終的には、高校2年時の文理選択の際、自分の意思で医師を目指そうと決めました。

 それまで柔道部の生徒は、文系を選ぶのが通例だったんです。なので、顧問の先生は、私も当然文系だと思っていた。そこを半ば、『暗黙の了解』を破る形で、理系を選びました。理系を選べば、物理・化学・生物・数学の難易度は格段に上がります。私が渋渋で底辺に近い成績だったこともあって、進級を心配する声もあったんですが、担任の先生は応援してくれたんですよね」

――どんな先生だったのでしょうか。

「物理の先生だったんですが、少し変わった先生で(笑)。もともと一番の苦手科目だった物理で、先生になったそうなんです。その理由は、『苦手だった人のほうが、わからない人の気持ちがわかるから』というものでした。そういう人こそが、科目の専門家になったほうがいいという考えの人だったんです。その先生が私の決断をサポートしてくれました。あと医学部を目指したのは、父との衝突も関係しているかもしれません(笑)」

――進路をめぐって喧嘩したんですか?(笑)

「やっぱり、柔道メインで中高時代をすごしてきたので、『医学部に入る』って目標が漠然としていたというか、本当に医学部に入れるのか、自信が持てなくなった時期があって。加えて、医師を目指すということは、おのずと柔道の辞め時も考えなければならない。それで父に相談したんですよ。

 そしたら、『じゃあ、やめれば?』って言われて。これまで散々『医者になれ!』って言ってきたのに、そんな雑な言い方ある? と思って、『マジで許さん、絶対に医者になってやる』と思ったんです」

――その一言で火がついたんですね。

「もともと負けず嫌いの性格なので、『じゃあわかった。医学部の受験が終わるまでは本気でやる。それで合格しようがしまいが、そのあとは自分の勝手にする』と、父に宣言したことを覚えています」

――しかし、現役での東海大医学部の受験は不合格だったんですよね。

「そうなんです。入学した翌年(2016年)にリオ五輪があったので、それに向けて充実した環境で柔道ができて、医師の道も目指すには東海大医学部が最適だと思いました。でも、ダメでした......。不合格とわかったとき、すごく悔しかった。でも、悔しいって感じるということは、自分の医師になりたい思いは本気だったんだなと。その気持ちに改めて気づけたんですよ。それで、今後も医学部を目指し続けることにしました」

(後編につづく)

Profile
朝比奈沙羅(あさひな さら)
1996年生まれ、東京都出身。ビッグツリースポーツクラブ所属。小学校2年生から柔道をはじめる。渋谷教育学園渋谷中・高から東海大体育学部を卒業し、2020年春に獨協医大医学部に入学。今年6月、現役の医学生として出場した2021世界柔道選手権ブダペスト大会の女子78キロ超級で優勝した。