「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#29「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信す…

「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#29

「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信する。今回は27日に行われた柔道男子81キロ級決勝で金メダルを獲得した永瀬貴規(旭化成)の恩師が語る秘話。5年前のリオ五輪ではエースとして期待されながら銅メダルで涙をのみ、雪辱を期した東京もその道のりは平たんではなかった。2017年世界選手権で右膝を負傷し、同年10月に手術。どん底からはい上がり、ライバルとの代表争いを制して切符をつかんだ。恩師の1人で、筑波大学柔道部の岡田弘隆監督に強さの秘訣を聞いた。(取材・文=THE ANSWER編集部)

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 畳を降りた永瀬は感極まった。あふれる涙をぬぐう。「前回のリオ五輪で悔しい思いをして5年間、つらい時間のほうが多かった。本当にやってきたよかったなと思います」。リベンジを果たした男は、こみ上げる喜びをかみしめた。

 7月中旬、母校・筑波大学で練習を見守った岡田監督は、永瀬の充実ぶりに目を見張っていた。乱取りの相手はなんと国内のライバルたち。実戦さながらの激しい攻防で、自身の状態を確認していた。

「普通だともう直前に2番手、3番手……自分が代表を争った選手とやりたがらないですよ。自分でつかまえてこれらの選手とやってますから、相当な自信がないとできないことです。相手だって同じ階級で次は自分がって思っていれば、必死でかかってくる。これが本当に永瀬の強さの秘密だと思います。ライバルだったり、自分が嫌なタイプだったり、とんでもなく力が強いとか、変則だとか、やりにくいっていうのを避けたがる人が多い中で、あえてそういう選手を選んで練習するのが永瀬なんですね」

 同階級の強豪に限らず、自身より重い重量級の選手にも挑んだ。五輪直前にケガのリスクもある相手だが、永瀬は「その階級だけでなくて、無差別で誰とやっても勝つんだっていう気持ちで常に稽古していた」と岡田監督。81キロ級は軽量級のスピードと重量級の力強さが求められる。それを頭に入れての取り組みだった。

 階級の枠にとらわれない柔道家こそが、最強を目指せる。ボクシングで言えば、パウンド・フォー・パウンド。増地克之男子監督がスカウトし、長崎日大高から筑波大に入学してきた永瀬に、岡田監督(当時は総監督)が説いたのは柔道家としての在り方だった。

 素質は抜群だった。永瀬の持ち味は柔らかい“柳の柔道”。181センチの身長より長い、188センチのリーチを生かした柔道は日本人離れしている。懐の深さで相手との距離を自在に操り、間合いを殺して柔道をさせない。接近戦でも、遠い距離での闘いでも、長い手足でコントロールし、試合の主導権を握ることができた。岡田監督は、永瀬の間合いのうまさを「世界一」と呼ぶ。実際に永瀬と稽古すると、自分の力を吸い取られてるような感覚に陥った。

 3年生のとき、永瀬は体重無差別で争う全日本選手権に出場し、重量級の選手を次々と破り、3位入賞を果たした。岡田監督自身も筑波大3年生のとき、78キロ級で全日本選手権3位から世界選手権を制した経験があった。世界で勝つには、分厚い壁にも果敢に挑んでいく闘争心が必要と考え、自身と同じ舞台に送り出した。4年生のとき、全日本学生柔道優勝大会で100キロ級のウルフ・アロンとの代表戦に臨んだ永瀬は、ここでも勝利し、筑波大を悲願の初優勝に導いた。「無差別でも強い」。蓄積してきた闘い方が、実を結んだ瞬間だった。

お茶代わりに1日1リットル以上の牛乳

 柔道を始めたのは小学校1年のとき。その1、2年後には、「この子はひょっとしたら指導者によっては五輪に出るかもしれない」と言われるほどの才能の片りんをのぞかせていた。

 お茶代わりに飲んだのは1日1リットル以上の牛乳。母・小由利さんは永瀬を出稽古に送迎するうちに、自身も形に熱中するほど献身的にサポートした。中学時代は柔道部がなく、高校生の女子と練習することが多かった。体重は中学1年で55キロ、中学3年でも66キロと、女子の体格とあまり変わらなかった。女子との稽古で、柔らかい柔道が身につき、長崎日大高で実力を一気に開花させた。

 永瀬は練習姿勢も他の部員に模範となるような存在だった。

「柔道に取り組む姿勢が何も言うことがない。完璧に自分ではっきりと『自分は世界一になる』って言う目標を持って大学に来たんだなっていうのが、誰が見ても分かるような積極的な取り組みをしていた」(岡田監督)

 何でも自分でやり遂げるため、指導者からの助言はほとんど必要がなかった。ひたむきな姿勢は、社会人になっても全く変わらない。右膝を手術し、リハビリの間に技を研究し、バリエーションが増えた。内股、大外刈りなどの鋭い足技に加え、背負い投げや袖釣り込み腰を習得した。

「多くの選手は何か1つ軸になる得意技があって、必殺技と言われるような技を持っている選手もいれば、そうではなくて、いろんな技ができて相手に応じてその技を使い分けるタイプの選手がいる。永瀬の場合は後者のほうではあるんですけど、1発1発の技もきちっと切れ味の鋭い技を持っている。しかも、それがかなり幅広く使える特徴がある。相手にしてみれば、何を警戒していいか分からない。そこにさらに担ぎ技が加わるっていうことなので」

 意表を突く技を実戦レベルに磨き上げ、リオ五輪のときよりもまたひと回り成長した姿で東京を迎えた。

 決勝を含む5試合中4試合が延長戦。派手さはないものの、泥臭い勝ち上がり方はまさに永瀬らしい闘いぶりだった。中学2年の文集に「無敵の柔道選手になる」と書いた永瀬が、その言葉通りの柔道で世界の頂点に立った。(THE ANSWER編集部)