サッカー監督――はかない権力者たち。その仕事は試合で勝つことを最大の目的とし、日々トレーニングの指揮をとり、コーチ、スタ…

サッカー監督――はかない権力者たち。その仕事は試合で勝つことを最大の目的とし、日々トレーニングの指揮をとり、コーチ、スタッフとミーティングを重ねる。チェックする映像も膨大だろう。やることは無限大にあり、全生活がサッカーに捧げられている。しかし成功する者はほんの一握りで、どれだけ人知を尽くしても成績が上がらなければ、いつ解任されても文句は言えない。でもひょっとしたら、やった者にしか分からない魅力たっぷりの職業なのかも――。

■世にも稀なブラジルでの「監督ルーレット」

 だが、ベンゲルやファーガソン、石崎信弘監督、ネルシーニョペトロヴィッチ、そして西野朗監督は、例外中の例外と言っていい幸運で幸福な監督だ。ひとつのクラブで3年間続くのは希で、多くの監督が2シーズンもたずに解任の憂き目にあう。クラブの会長が監督の人事権まで握っているブラジルのクラブでは、わずか数試合で監督が解任されることも珍しくない。

 2006年8月末、ブラジルの名門フルミネンセは就任してわずか2週間のジョスエ・テイシェイラ監督を解任し、アントニオ・ロペス監督を後任に据えた。ロペスはフルミネンセにとってこの年5人目の監督だった。そしてここでようやく、まるで漫画のようなブラジルの「監督ルーレット」がピリオドを打つのである。テイシェイラがフルミネンセの指揮をとっていた2週間の間に、実に5クラブの間で「監督のたらい回し」あるいは「監督玉突き」が行われたのだ。

 始まりは8月中旬、フルミネンセがオスバルド・オリベイラ(後に鹿島と浦和で指揮)を解任し、テイシェイラを監督に据えたことだった。間髪を入れず、オリベイラは同じ日にパウロ・セーザ・グスマンを解任したクルゼイロの監督に就任する。するとこんどはグスマンがエメルソン・レオンが去ったサンカエタノの監督に就任、レオンはジェニーニョを解任したコリンチャンスの監督となる。そしてジェニーニョはアントニオ・ロペスを解任したゴイアスの監督となるのである。ここまでの動きに要した時間はわずか2週間。そしてアントニオ・ロペスが、テイシェイラを追い出すようにフルミネンセの監督に就任するのである。

 ここでクイズ。この2週間で6人の監督がクラブを移った。だが「椅子」は5つ。最終的に椅子を失ったのは誰だろう? 正解はもちろん、ジョスエ・テイシェイラである。だがめでたく、彼も間もなくフロリアナポリス市のアバイFCの監督に就任している。ブラジルでは、こうした頻繁で安易な監督の交代をなくすため、最近、「解任は年1回」、すなわち監督として契約できるのは年に2人までというルールができたそうだ。

■半日で終わった「監督復帰」の悲劇

 さて、「短命監督」はブラジルだけの話ではない。イタリアでは、アルベルト・マレサニ監督の就任後20日での解任がよく引き合いに出される。彼は2012年の4月に1−4の敗戦の後でジェノアの監督を解任されたのだが、実は前年の6月から12月までもジェノアの監督だった。つまり、マレサニはシーズン半ばの12月に解任されたものの、3月に復帰し、20日後の4月にまた解任されて、1シーズンのうちに同じクラブから2回も解任されるという、他に例のない監督となって名を残したのだ。

 1996年秋、ブンデスリーガ2部のVfBリューベックの監督に就任したハインツ・へハーの悲劇も、プロ監督という稼業の足元の頼りなさ、はかなさを物語る。

 ヘハーは現役時代の末期に所属したVfLボーフムの監督として7シーズンを過ごし、ドイツ国内ではよく知られた存在だった。しかしそんな彼も、ブンデスリーガを離れてギリシャのクラブで仕事をしたり、サウジアラビアのアルイテハドの監督を務めるうちに忘れられた存在になってしまったらしい。1996年のある朝に低迷するリューベックから電話を受けたときには、もう6年間もオファーがなく、サッカーの監督という仕事をあきらめかけていたころだった。

 リューベックは、その朝に前監督の解任を決めたばかりだった。思いがけないオファーに、ヘハーに否も応もなかった。彼は電話を切るとすぐに車に飛び乗り、エンジンをかけた。自宅のあるボーフムは、ドルトムントとデュッセルドルフに挟まれたドイツ中西部の都市である。北ドイツ、バルト海に面する港湾都市リューベックまでは400キロ以上の距離がある。だがドイツ人はこのくらいの距離は平気でアウトバーンを飛ばしていく。そして彼は、その日の午後には、VfBリューベックのトレーニングで指揮をとった。

 だがそのトレーニングの最中に悲劇が襲った。ヘハーが突然気を失って倒れたのだ。病院にかつぎこまれ、診察を受けた結果わかったのは、原因は彼が常用している薬にあるということだった。彼はまだ58歳になったばかりだったが、アルコール中毒の治療を受けており、その日車に飛び乗る前にも大量の薬を飲んでいた。彼を病院に送り届けたリューベックのマネジャーは、クラブに戻るとすぐに次の監督探しに取りかからなければならなかった。ヘハーの「監督復帰」は、わずか半日間で終わったのだ。

■「たったの10分」が短命監督の世界記録

 だがへハーの記録はイングランドのレロイ・ロシニアに簡単に破られる。ロシニアはフラムやウェストハムなどロンドンのクラブでストライカーとして活躍し、イングランドのU−16やU−21代表にも選ばれたストライカーだったが、1993年には父母の祖国であるシエラレオネの代表としてもプレーした。引退後は監督として活躍、2002年に「リーグツー」(イングランドのプロリーグで4部にあたる)のトーキー・ユナイテッドの監督に就任し、2004年には「リーグワン」(3部)への昇格に導いた。

 2006年にはブレントフォードの監督を務め、2007年の5月にはシエラレオネ代表の監督としてロンドンでクラブチームとの親善試合の指揮をとったが、その直後、古巣のトーキーからオファーを受けた。トーキーはこの年「リーグツー」からの降格が決定、翌シーズンはセミプロのリーグでプレーしなければならないという苦境にあった。「この危機から救い、プロリーグに復帰させられるのはきみだけだ」と、クラブの筆頭株主であるマイク・ベイトソンはロシニアをかき口説いた。

 ところが5月17日、彼がまさにイングランド南西部、アガサ・クリスティーの生地として知られるトーキー市内、小高い丘の上の住宅地に囲まれたホームスタジアムで記者たちを相手に就任会見を始めてからわずか10分後、彼の携帯電話にベイトソンから着信があった。ベイトソンは自分の持ち株をすべて地元の投資家グループに売ってしまい、そのグループが執行役員として元トーキー選手のコリン・リーを選んだという。そしてそのリーは、彼と同じようにトーキーの選手だったポール・バックルを新監督に据える意向だというのだ。こうして、ロシニアの「トーキー監督」の座はわずか10分間で終わった。これが「短命監督」の世界記録ということになる。

 まあ、セミプロリーグで昇格に悪戦苦闘するより、彼はそれでよかったのかもしれない。ロシニアはその後サッカーの現場から離れ、テレビのコメンテーターとして頭角を現して英国の公共放送であるBBCで活躍、たくさんのサッカー番組で活躍した。そして同時に、英国の人種差別撲滅組織である「人種差別にレッドカードを」のアンバサダーとなり、全国各地を講演して回った。その功績を評価され、2018年にはMBE勲章を受賞しているのである。

 幸運に恵まれ、長期間仕事ができる人などほんのごくわずか。プロサッカーの監督というの仕事は、信じ難いほどに不安定で、そして理不尽な運命に翻弄されるものなのである。

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