円熟の金メダルである。厳しい試合、我慢の連続だった。だが、悔恨のリオ五輪銅メダルから5年。柔道の髙藤直寿が巧者ぶりを発揮し、日本勢初の金メダルをもぎとった。勝利の瞬間、右こぶしを突き上げた。28歳は「いや、もう渋い試合をしたなと思いました…

 円熟の金メダルである。厳しい試合、我慢の連続だった。だが、悔恨のリオ五輪銅メダルから5年。柔道の髙藤直寿が巧者ぶりを発揮し、日本勢初の金メダルをもぎとった。勝利の瞬間、右こぶしを突き上げた。28歳は「いや、もう渋い試合をしたなと思いました」と言った。



東京五輪で日本人初の金メダルを獲得した柔道の髙藤直寿

「絶対、テレビの人にはわからないだろうなって。でも、これが僕です。豪快に勝つことができなかったけど、これが僕の柔道です」

 髙藤の柔道は変わった。豪快さは鳴りを潜め、いわば泥臭くなった。周到に準備を重ね、畳の上では勝負に徹する。とくに準々決勝のルフミ・チフビミアニ(ジョージア)戦。2016年リオ五輪の敗戦がフラッシュバックしたという。

 相手は、返し技を得意とする。だから、髙藤は無理に前に出ようとはしなかった。髙藤は「前に出ていこうとする気持ちが自分ではこわかった」と振り返る。延長戦に突入したが、最後は相手の反則に救われた。

 準決勝も決勝も延長戦にもつれ込んだ。決勝では台湾の新鋭、楊勇緯に手を焼いたが、左つり手で相手の右手を自由にさせない。組み手争いで優位に立った。延長戦の末、相手の指導3つ目の反則で勝った。

「計算通りでした」と、それまで指導の数が1つ少なかった髙藤は言った。「相手も手詰まりだったんで。両者、(指導)狙いでいいかなって。それが一番、無難な、確実な勝ち方だったんです」

 地味ながらも、そこに髙藤の成長の跡が垣間見えた。5年間の努力が凝縮されていた。自動車に例えれば、道(相手)に合わせ、アクセルとブレーキを巧みに踏み分ける。相手に応じて、押すときには押して、出ない時には出ない。リオ五輪からの成長を問えば、髙藤はこう、答えた。

「この5年間、勝ちに徹する柔道をしてきました。組み手だったり、受けの強さだったりというのを磨いてきました。プラス気持ちで、金メダルを獲れたんだと思います」

 技術的には「組み手の手順ですね。手順さえ間違えなければ負けない。自分の頭の中に攻略本をつくって、その通りに動けば絶対に負けないと思っていました」。

 そして、こうも漏らした。「とにかく、(柔道を)やり込んだ5年間だったんで。正しい努力をすれば、裏切らないと思いました」。

 決勝戦の後、髙藤は畳を下りる直前、正座をし、頭を下げた。感謝のお辞儀だったのだろう。共に戦ってきた古根川実コーチに、ずっと練習相手を務めてくれた先輩の伊丹直喜さんに、そして、応援してくれた家族やみんなに。畳を下りると、古根川コーチ、伊丹さんと抱き合って号泣したのだった。

 2013年、世界選手権を20 歳で制したあと、東京五輪開催が決まった。その日の朝、テレビで見た瞬間、髙藤は「これは俺の時代の到来だな」と思ったそうだ。

 でも、その行程はいばらの道だった。リオ五輪では、銅メダルに終わった。この5年間は、その雪辱を果たすことがすべてだった。即ち、東京五輪での金メダル奪取だ。

"やんちゃ"だった髙藤が変わった。"練習の虫"となった。その成長の結果としての優勝に、井上康生・日本代表監督は「髙藤らしい、髙藤にしかできない柔道を見せてくれた」と言って、涙を流した。

 髙藤の家のリビングには、2つのメダルが飾ってあるそうだ。1つは、リオ五輪の銅メダル。もうひとつが、所属するパーク24の五輪金メダリスト、吉田秀彦総監督から五輪延期が決まった1年前に贈られた手作りの金メダルである。「本当だったら、今日、金メダルだから」と言われて。

 吉田総監督もまた、この日、テレビのゲスト出演で、うれし涙を流した。「あいつがずっと、苦労してきたのを知っている。紙で作った金メダルがホンモノに変わってよかった」としみじみと漏らし、こうも言った。

「入社した時は"やんちゃ坊主"でね。リオで負けてから、柔道も人間性も大人になったなと思います」

 試合後のミックスゾーン。髙藤選手は記者の質問を受けながら、ずっと胸に下げた金メダルを両手で触っていた。「金メダル、どうですか?」と質問されると、「重たいです。とにかく重たいです」と言葉に実感をこめた。

 最後、どこに飾りますか?と聞かれると、金メダリストは最高の笑顔を浮かべた。

「(家の)銅メダルの前に置いてやろうと思います。ええ、上に重ねて」

 年輪のごとく、リオ五輪があればこそ、である。夢の金メダルは、鍛え、信じ、考え、挑み続ける気概の結果、とうとう獲得できた現実なのだった。