五輪サッカーの光と影(1)~1996年アトランタ五輪 五輪のサッカーは、世界最高を決める大会ではない。1992年のバルセ…
五輪サッカーの光と影(1)~1996年アトランタ五輪
五輪のサッカーは、世界最高を決める大会ではない。1992年のバルセロナ五輪以降は、23歳以下という規定の大会(※東京大会は24歳以下)となった。あくまで育成年代の頂点を競う大会で、世界最高を決めるワールドカップと区別された。
欧州や南米のフル代表で活躍している若手トップ選手も、その多くが五輪出場を見送っている。東京五輪でいえば、キリアン・エムバペ(フランス/パリ・サンジェルマン)、ヴィニシウス・ジュニオール(ブラジル/レアル・マドリード)、ラウタロ・マルティネス(アルゼンチン/インテル)などがそうだろう。そもそもFIFAの開催ではないため、クラブに選手派遣義務はない。「世界の若手見本市」とも違い、位置づけが難しい大会だ。
しかし、日本人にとっては世界と遭遇する貴重な大会と言えるだろう。過去、その空気を味わうことで、多くの選手が羽ばたいていった。例えばアテネ五輪の大久保嘉人は、パラグアイ戦、ガーナ戦のゴールで、スペイン1部マジョルカへの移籍の道を切り拓いた。
また、敗北を突きつけられた大会後の選手たちも、捲土重来を期した。
「このままでは勝てない」
北京五輪で惨敗した本田圭佑、長友佑都らは焦燥と向上心に駆り立てられ、その後の躍進につながった。
一方で、奇跡的な勝利に酔い、流転を余儀なくされた選手もいる。燃え尽きたようにキャリアが下降線を辿る選手もいた。育成年代だけに、周囲の熱狂に我を失う危うさもあるのだ。
五輪が生む栄光と流転とは......短期集中連載で、その実像に迫ることにした。
誤解を恐れずに言えば、アトランタ五輪は「マイアミの奇跡」に集約される。リバウド、ロベルト・カルロス、ロナウド、ベベット、サビオ、ジュニーニョ、アウダイール、ジーダなど錚々たる面子で金メダルを獲りにきたブラジルを、1-0で撃破した大番狂わせだ。
圧倒的に攻められていたし、ブラジルを崩し切った場面はない。しかし、必死に守った"ご褒美"か、あるいは天啓か。路木龍次のクロスに対して相手GKとDFが交錯し、こぼれたボールを伊東輝悦が押し込んだ。

アトランタ五輪ブラジル戦でGKジーダと競り合う中田英寿
当時の日本は中田英寿だけが突出し、彼には大会を攻めて勝つビジョンがあったという。ただ、戦力的に比較をすると、徹底的に守ることで活路を見出すのが常識的な時代だった。GK川口能活のビッグセーブ連発は、まさに象徴的だ。
「ブラジルの良さをどうやって消すか、それしか考えていませんでした」
アトランタでは3バックの中心で活躍した田中誠は、拙著『フットボール・ラブ』(集英社)の中で、そう振り返っていた。
「(ボランチの)ハットさん(服部年宏)がジュニーニョをマークしてパスの出どころをつぶし、ストッパーの2人が2トップに食らいついてくれたので、僕はコースを消し、相手の攻撃の芽を一つ一つ摘み取ることに集中しました。相手にはサビオ、ベベット、ロナウドら決定力のあるFWがいたので、ペナ(ペナルティエリア)にだけは近づかせないよう、能活(川口)とは『エリアの外からはある程度、シュートを打たせよう』と話していました。コースを限定した上で、遠目からはあえて打たせたほうがリスクは低いだろうと」
その粘り強く、計算された守備が勝利を呼び込む。ただ、集中力を使い切り、試合後は疲労感で一歩も歩けないほどだったという。
大会後、イタリアの有力紙『ガゼッタ・デッロ・スポルト』はベストイレブンに、予選リーグで敗れた日本から田中を選出した。当時、日本における五輪のスターは前園真聖、中田、川口、城彰二だったが、カテナチオという守備美学を生んだイタリアの記者の目にとまったのは田中だった。最終ラインでの読みとカバーリングが冴えていた。
その後、田中はジュビロ磐田の黄金期を支え、二度のベストイレブンに選ばれている。「彼ほどクレバーなディフェンダーはいない」と現場での評価は高く、フル代表では主にジーコジャパンでプレーした。
しかし、海を渡ってプレーすることはなかった。
「当時は日本人センターバックが、海外でプレーするのは考えられなかった時代だったから」
ブラジル戦ではサビオのマンマークを完璧に遂行し、途中出場のロナウドも封じた松田直樹は生前、そう説明していた。
◆中田英寿を上回る天才に起きた悲劇。リーガに「ぶっとんだ自信」で挑んだ
「その点、ヒデ(中田英寿)はすごかったよ。どんどん世界に飛び出して、新しいことをやっていった。でも自分はマリノスの選手として、クラブを強くして、優勝させて、自分自身も成長することができた。実はスイスのクラブとかからオファーはあったらしいけど、自分にはマリノス以外、考えられなかったし。そうやって生きてきたことを誰よりも誇りに思っているよ」
それはひとつの選択であり決断だった。
松田は2000年のシドニー五輪にも中田とともに出場し、準々決勝のアメリカ戦に出場した。2002年の日韓ワールドカップでは、Jリーガーとして世界と互角に渡り合った。田中と同じく、Jリーグを代表するディフェンダーだ。
松田と同じくアトランタでメンバー最年少だった中田は、「このやり方では世界では勝てない」と言い切ったという。五輪という舞台を戦ったことで、その野心は巨大化した。何かに取り憑かれたように上を目指し、1998年のフランスワールドカップで世界に名前を売って、セリエAデビューを颯爽と飾った。スクデット獲得という快挙を成し遂げ、日本人の欧州進出の先駆けとなった。「世界に負けない」というよりも、世界を飲み込もうとした。
一方、五輪は光と影が交差する場所だ。
アトランタでエースだった前園は眩い脚光を浴びたが、運命に翻弄されることになった。大会後、欧州のクラブへの移籍に動いていたようだが、交渉は難航。瞬く間にプレーのキレがなくなっていった。国内のクラブへの移籍後、ブラジルに渡るなどしたが、完全にタイミングを逃した。アトランタでのプレーは、儚い夢のように消えてしまった。
「自分は運が良かった」
そう松田は語っていた。
「高校生の頃から、世界の強豪と戦う機会をもらった。"少しでもミスしたらやられる"という感覚を養えたっていうか......。怖さを肌で感じて、びびった。でも、それよりも(やられると)むかついたし、燃えずにはいられなかったよ。(ヌワンコ・)カヌー、ラウル(・ゴンサレス)、(二コラ・)アネルカ、ロナウド......こいつらに負けねぇぞ、という反骨心と緊張感を持ってやり続けてきたから、成長できた」
松田の言葉は、東京五輪を戦う選手たちへのメッセージにもなるだろう。五輪は終着点ではない。出発の場所だ。
(つづく)