アフリカ「エスワティニ」で陸上教室、五輪メダリストの夢「自分の走りで笑顔に」 2016年リオ五輪の陸上男子400メートルリレー銀メダリスト・飯塚翔太(ミズノ)が6月上旬に「THE ANSWER」のインタビューに応じ、海外で陸上教室を開く理由…
アフリカ「エスワティニ」で陸上教室、五輪メダリストの夢「自分の走りで笑顔に」
2016年リオ五輪の陸上男子400メートルリレー銀メダリスト・飯塚翔太(ミズノ)が6月上旬に「THE ANSWER」のインタビューに応じ、海外で陸上教室を開く理由を語った。2018年9月には、アフリカ大陸南部のエスワティニ(旧スワジランド)という国で現地の子どもたち向けに陸上教室を開いた。貧困地で走る魅力を伝えるという夢には、現役選手だからこそできるこだわりがある。東京五輪は男子200メートルで3大会連続出場する30歳に、28年ロサンゼルス五輪までは現役を目指す理由を聞いた。(文=THE ANSWER編集部・浜田 洋平)
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五輪メダリストが走っていたのは、競技場ではなかった。遠くに山々が連なり、景色の邪魔をするビルなんてない大自然。コンクリートを探す方が難しい。18年9月に初めて外国人相手に実施した陸上教室。無造作に雑草の生えた、ただの空地に等しい場所だった。「好きなんです。楽しいんですよ」。とにかく広いアフリカの空のもと、飯塚は裸足の子どもたちと駆け回った。
きっかけは、ふとした会話からだった。中大4年時の13年ユニバーシアード男子200メートル決勝。選手8人が集まった待合席で、たまたま隣に座った選手と打ち解けた。相手はエスワティニ(当時スワジランド)代表の25歳シブシソ・マツェンジワ。国も名前も聞きなれない。日本人には発音さえも難しい。それでも大学時代に勉強した英語を生かし、持ち前の人当たりのいい性格で仲良くなった。
レース後も話が弾んだ選手村。その中で彼にはスポンサーがいないことを知った。
「日本では当たり前のようにサポートしていただける環境。高校生でもたくさんいただいています。でも、ユニバーシアードの決勝に出るような選手が何も提供されていないことがショックでした」
相手は出会った時点で世界選手権に2度、12年ロンドン五輪にも出場していた実力者。恵まれない環境で戦い続ける同志にスパイクをプレゼントした。リオ五輪の200メートルでは同組に。連絡を取り続けるうちに、日本から約1万3200キロ離れた地に興味を引かれていった。
「彼に会ってから彼の国の話をよく聞きました。子どもたちはみんな裸足だし、靴を買うお金があったら、まずは運動靴よりも登校用の革靴を買うような環境だそうです。日本の子どもたちって、僕と競走すると『うわーっ!! はえー!!』ってなってくれるんですよ。超盛り上がるんです。それを海外でやってみたいなって。最初は本当にそれだけ。自分と走って喜んでもらいたい。そっちに行かせてくれって言いました」
日本では陸上教室を含めた年間何十回ものイベントを経験。18年9月、大会の合間を縫い、1週間の強行スケジュールでアフリカへ。プレゼント用のバトンやストップウォッチ、ワクワク感をバックに詰め込み、成田空港から飛び立った。
失業率22.5%、絶対君主制の国で見た陸上教室の光景とは
南アフリカから車で7時間。18年4月にスワジランドから国名が変更されたエスワティニは、世界でも数少ない絶対君主制がしかれている。日本の外務省ホームページによると、面積は四国より少し小さい1万7000平方キロメートル、人口は約113万人。18年の失業率は22.5%で「近年旱魃(かんばつ)による食糧危機が断続的に発生しており、エイズの影響による生産者の減少が状況を悪化させている」と説明されている。
日本を代表するスプリンターは別世界に降り立った。30人を超える参加者のうち、半分以上が日本すら知らない。準備運動も、クラウンチングスタートの構えもぎこちなかった。4日間の滞在でかけっこ、リレー、エアロビクスなど運動会のように実施。「日本の子どもたちと反応が全く同じでした」。ハイライトは飯塚が一緒に走った時だった。
200メートルで2大会連続五輪に出場し、100メートルも10秒台で駆け抜けるトップ選手。軽く力を入れただけで異次元のスピードを見せつけた。「速い!」「勝負しよう!」「もう一回! もう一回!」。運動する環境も、言葉も、文化も、肌の色も違うけど、そんなことは関係ない。子どもたちの目の輝きは、万国共通だった。
「スポーツの力」について人に聞いたり、メディアを通して知ったりすることは多い。でも、地肌で体感することは、ひと味違う意味を持つ。まさに百聞は一見に如かず。「海外で陸上教室をやりたい」という想いが強くなった。
「自分が走ることで笑顔になってくれる。少しでも平和な影響を与えられたのかなと思います。貧しい国ですが、家に帰った時に『今日、日本から足の速い人が来たよ!』ってお母さんに喋って、ちょっとでも明るい話題になってくれたら凄く嬉しいです。
海外で貧困地に行きたい。そこで元気になってもらいたいというだけです。平和活動というと大きなことかもしれないけど、それくらいになってほしい。勉強は凄くやるけど運動をしない国もあって、日本の体育はニーズがあるみたいです。『うわー、凄かったぁ』って、1%でも貢献できたらと思います」
「今」これらの活動をすることにこだわりがある。国内外で走って見せた経験から「現役じゃないとできないことがほとんど」と言い切った。
「競走したり、走りを見せたりすることは引退したらできないんですよね。体をキープしても、やっぱり全盛期より圧倒的に落ちてしまう。陸上教室やイベントで一番盛り上がるのは僕が走る時。子どもたちのコメントも速かったことに対するものがほとんどなので、これは現役じゃないとできないなって。あとは、アスリートとしての価値もガクンと下がってしまいます。今まさに前線で戦っている選手が来るのと、10年前にやっていた人では違う。
もちろん、元選手でも僕らからすれば凄い人なので価値はあるんですよ。でも、子どもたちは今の人じゃないとわからない。だから、現役選手が来るのが大事。その後にテレビで知っている人が大会に出ていたら盛り上がりますし、僕らも気持ちを背負いながらプレーできるのは幸せなことです」
コロナ終息後の未来に描くビジョン「海外で一つの形を作りたい」
12年ロンドン五輪後、モチベーションの作り方に影響を与える出来事があった。トークショーが終わり、車椅子に座った80代くらいの女性に話しかけられた。「走りを見て寿命が延びました。もっと長生きして頑張りたい」。長い競技生活、気が乗らない日もある。「でも、この言葉を聞いた瞬間に変わりました。誰かに影響を与えられて、やってよかったと思えたんです」。人の喜びを力に変える術を学んだ。
だからこそ、陸上教室で出会った子たちに掛けられる「頑張ってください」という言葉が力になる。「競技だけはしっかりやらないといけないと思っているアスリートが多いですが、陸上教室を開く方が競技へのモチベーションも全く違う。これは、若いアスリートに伝えたいですね」。自分の考えがまとまっていないと人に伝えられない。年代や性格によってアプローチを変えることを学んだ。現役で陸上教室を開くことは、「与える」だけでなく「受け取る」場にもなっている。
海外では日常に笑顔を与えることを目的としているが、国内では大人を対象とした競技普及を目指す。「長距離種目の市民ランナーはたくさんいるけど、短距離種目はいないんですよね。それを増やしたい」。短距離種目は筋力が必要。筋力をつけて基礎代謝を高めれば痩せられるため、健康増進に繋がるという。
「30歳を過ぎて代謝が落ちると、有酸素運動でも痩せにくくなる。筋力は年をとっても鍛え続けられます。全力で走ったり、飛んだりするのは健康に良いのかなと思う。実際に短距離種目をやっている大人の方々には『始めてからすごく元気になって、楽しくなった』という話を聞きます。今は場所が少ないのと怪我のリスクがあるのが課題ですが、これはみんなに味わってほしいです」
コロナ禍により海外開催はもちろん、国内でも以前のようにはいかない状況だが、終息後のビジョンは描いている。
「海外では少し交流して終わるだけだったので、一つの形を作りたいと思っています。運動会でみんなと団結できることをやりたいですね。リレー以外だと、綱引きや大玉転がしとか。協力して何かをするのは大事です。国内でやりたいのは競技普及。探求心をつくって子どもたちの教育に繋げたいし、お年寄りにも元気になってもらいたい。僕のスポーツを通じた経験で街を盛り上げる。今ある市民スプリンターの大会も盛り上げていければ」
長く現役でいればいるほど、夢を叶えるチャンスは増える。6月に30歳となり、若くはない。「パリとその次まで頑張るんで。自分の中ではあと2回。そこまでは頑張り続けます」。見据えているのは、なんと24年パリ五輪の先の28年ロサンゼルス五輪。大ベテランの37歳になる年だ。
「まあ、はっきりと五輪が目標とかは決めずにやれるところまで。2回ぐらいは頑張りたいっすよね」
終始明るく、軽妙な口ぶりに夢を乗せた。トラックで見れば、そのスピードは当たり前かもしれない。でも、自分の街で目の前に現れたら……。価値のある体験を世界に届けていく。
■飯塚翔太 / Shota Iizuka
1991年6月25日、静岡生まれ。ミズノ所属。小学3年から競技を始め、藤枝明誠高3年でインターハイ200メートル優勝。2010年のU20世界選手権では、短距離種目において日本男子初の優勝。12年ロンドン五輪、16年リオ五輪では200メートルと4×100メートルリレーに出場。リオ五輪ではリレーの第2走者を務め、史上最高の銀メダル獲得に貢献。日本選手権200メートルでは13、16、18、20年に優勝。自己ベストは日本歴代3位の20秒11。100メートルは10秒08。(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)