「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第19回 長池徳士・後編 当時を知る者にとっては懐かしく、伝説のみ聞かされた者は…

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第19回 長池徳士・後編
当時を知る者にとっては懐かしく、伝説のみ聞かされた者は想像力をかき立てられる「昭和プロ野球人」たち。彼らの貴重な過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズで、"ミスター・ブレーブス"と呼ばれた長池徳士(ながいけ あつし、1978年までは徳二・とくじ)さんの言葉を伝える。
4番候補として阪急(現・オリックス)に入団した長池さんが打撃開眼するきっかけとなった"スペンサー・メモ"とは何なのか。そして、本塁打王3回、打点王3回のタイトルをもたらした"左肩にアゴを乗せた打撃フォーム"は、どのようにして生まれたのか。

1973年の後期優勝を決め、西本幸雄監督を担ぐ長池(中央)、山田久志(左)、福本豊(右)の各選手(写真=共同通信)
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阪急で通算7シーズンにわたって活躍したダリル・スペンサーが相手投手のクセを盗んで書き取ったノート、"スペンサー・メモ"のことは、以前に取材した長池さんの同僚、[代打男]高井保弘さんにも聞いていた。長池さんは小さなノートがベンチの隅に置いてあるのを発見し、通訳を介して「解読」。真似してメモするようになり、それが打撃成績向上につながったという。
「スペンサーはとにかく闘志満々で、常に前向きで、野球先進国のアメリカから来た選手です。僕に限らず、みんながいろんなことを教わった。クセ盗みもそのひとつですけど、最後は僕がスペンサーに教える立場になりました。『おまえ、そんなとこまで見るんかあ』って言われてね。
僕、練習でもバッティングピッチャーのクセを探しましたから。これはうちのチームのみんなにも教えましたけど、『試合だけじゃダメだぜ、練習のときからやっておかなきゃ』って。カーブを自分で要求したときに、真っすぐとの違いを探さないと」
練習でも盗む。これは、同じくクセを盗んでいた高井さんからは聞けなかった話で、長池さんがチーム内でリーダー的存在だったことも伝わってきた。
「だからそういうことがあって、まあ、僕みたいなもんでも打てるようになって、それが32試合連続安打というものにもね、つながったんじゃないかと思いますよ」
ごく自然な流れで記録の話が出た。71年5月28日の南海(現・ソフトバンク)戦から7月6日の西鉄(現・西武)戦まで32試合、40日間にわたって、長池さんはヒットを打ち続けた。79年、広島の高橋慶彦が33試合連続安打を達成するまでは日本記録だった(現在もパ・リーグ記録)。
「ただね、おおよそ、僕みたいなタイプが作るような記録じゃないでしょう?」
実際、僕は意外だと思っていた。連続安打記録といえば、足の速い左の好打者タイプが作るもの、というイメージがある。高橋慶彦はスイッチヒッターだが俊足であり、30試合連続の記録を持つ張本勲(元・東映ほか)、福本豊(元・阪急)は象徴的。そういう意味で、長池さんのようなホームランバッターは意外なのだ。
「自分でも不思議なんです。その間には自打球が足に当たったり、4の0だったのが延長戦になって打てたり、何度か途切れそうなピンチもあって、記者の人にも連日あおられたけど、何とか続きました。でも、27試合のパ・リーグ記録を抜いて、これで新記録と思った途端、1リーグ時代の31試合が出てきたときは参りましたね。阪急の大先輩、野口二郎さんの記録でした」
野口二郎の記録は1946年、本人も周りも気づかぬ間に作られ、3年後の再調査で掘り出されたという。当時は戦後間もなかったことで記録も注目されず、野口が投手でもあったために見落とされたらしい。
[記録の神様]宇佐美徹也はこの一件について、〈野口のは騒がれずにできた記録だが、長池のはマスコミに大騒ぎされながら作った記録。ハンデをはねのけ意識して作ったところに大きな価値がある〉と、著書『プロ野球データブック』に書いている。
「それで32試合目、僕、3連発です。1打席目にポンと出たら、何かこの全身、余分な力がスッと抜けるっていうんですかね。あのときは力以上のものが出ましたよ」
左の好打者にふさわしい連続試合安打記録を、右の強打者の長池さんは最後、3打席連続本塁打で飾った。あくまでも4番打者らしいと思えるし、32試合中の本塁打数は実に16本とすさまじい。打率も4割2分4厘、40打点と打ちまくっていて、なおかつその間、阪急は破竹の15連勝を記録。23勝5敗4分けと圧勝しているのだった。
「4番がそれだけ打ってるんですから、チームが勝つのは当然といえば当然ですね。おそらく、バッターというのは、40日間ぐらいは好調が続くんでしょうね。人にもよるんでしょうけど、僕のようにあまり器用じゃない人は、一回、カタッと形にはまれば崩れにくい。
崩れると今度、形に戻るのが大変だってこともありますが、はまったときには相手は防ぎようがなくなる。足を上げる、あの王さんも形にはまるタイプだったと思います」
とっさに一本足打法を思い浮かべると、同時に、左肩にアゴを乗せる長池さん独特の構えが頭に浮上した。子どもの頃、真似していたことを伝えさせてもらった。
「ああ、あれはですね、僕、弱点のインコースを得意にした代わりに外の変化球を振るようになってしまって......。そこで、振らないように、ボールをしっかり両目で見ようと。そういう意図からああいう形になったんです」
一瞬、長池さんの頭が左を向きかけたが往年の打撃フォームは再現されず、束の間の沈黙が流れた。僕は持参した文献資料を差し出した。文献には左肩にアゴを乗せるフォームの連続写真が掲載され、記事中には、〈好きなところだけ待って全打席ホームランを狙っていた〉という長池さんの発言が載っていて驚いた。
「それはあの、僕がプロに入った当初、南海の野村克也さんが5年も6年もホームラン王を獲ってましてね。『よっし、何とか俺が』って思いまして、"打倒野村"でやってたところが4年目に40本打って、やっと野村さんを超えられて。そういうことで、僕、常にホームランを意識して、練習のときから『スタンドへ』っていう気持ちで打ってました」
本当に〈全打席ホームラン〉だったのか。
「そうです。スランプになると打球が上がらないんですけど、調子のいいときは別に意識しなくても、プンと打てばスーッといい角度で上がっていく。やっぱり、バットの角度とか、とらえるポイントがいいんでしょうね。
で、角度はいろいろあるわけじゃなくて、僕はもう、ひとつの角度です。その角度でとらえるための練習をするんです。いかにボールを押しこんでいくか、っていう練習をしました」
よく言われる「ヒットの延長がホームラン」という考え方。長池さんのなかにはなさそうだ。
「ホームランの打ち損ないがヒットですね、僕は。打ち損なわなければホームラン」
予想以上にあっさりした答え方に対して僕はのけぞり、天を仰いだ。
「それはね、僕だって、ライナーでヒット打てば気持ちいいですよ。センター前、レフト前にカチーン! と。真芯で打てばスーッとしますよ。でもやっぱり、とらえる角度がもうひとつよくないからホームランにできなかったんだ、と思ってしまうんです。
ヒット打って、満足感があるというのにね、『よーし、次はホームラン』って思ってるんです。いやっはっはっは。欲張った考えですかねぇ? 僕、欲張り過ぎですかねぇ? 今思えば」
真芯でとらえてヒットでも、全打席ホームランを狙っていた長池さんとしては、よくない結果なのだ。ここまではっきり言い切る野球人、滅多にいないだろう。
「そのくせね、野球中継の解説では『ホームランは狙って打てるもんじゃない』とかね、『ヒットの延長がホームランですよ』なんて言ってるんですから、あっはっは」
甲高い笑い声が上がり、こちらも思い切り吹き出すと対話の勢いが増し、巨人V9時代のON、オールスターの思い出から晩年のDH出場に話がおよぶと、引退後に5球団でコーチを務めた経験談につながった。西武では秋山幸二、南海では佐々木誠、横浜(現・DeNA)では鈴木尚典、ロッテではサブローと、長池さんが指導に取り組んで結果を出した選手の名前が次々に挙がった。
「残念ながら、僕、阪急のコーチのときは選手を作れなかったんですけど、次に行った西武で『4番を作ってくれ』って広岡さんに頼まれて、秋山を手取り足取り、それこそマンツーマンでね。どういう体の動きで、どういう手の使い方で振ればいいか、勉強させられました。これは秋山に限らずですが」
広岡達朗監督の要請は、長池さんの新人時代、当時の西本幸雄監督による青田昇コーチへの要請と相通じるものがある。これはまた、現役時代の長池さん自身、青田コーチから教わったことにもつながるものだろうか。
「そうです、つながります。そこに自分の経験したもの、引退してから学んだことをプラスして。広岡さんにもずいぶん教えてもらいました。日本刀を使ったりしましてね」
想像もしていなかった指導法に驚かされたが、球史上で日本刀といえば有名な人がいる。荒川博コーチの指導を受けたときの王貞治が日本刀を使っている。
「王さんのは天井から吊るした紙をスパッと斬るでしょ? 僕が教わったのは藁(わら)、束ねた藁です。広岡さんが『長池、見とけー!』って、バシャーン!って斬る。『おまえ、やってみい』って言われて僕もやってみたら、こねると刃がビャッと回る。真っすぐにスパーンと行かないとダメ。途中でスイングの軌道がちょっとでも狂うと刃が回って、見ると、藁が何本か残ってる」
手刀で何度も手のひらが叩かれ、ずっと落ち着いていた口調が速くなっていた。
「だから、斬らすと、その選手のスイングがこねているのかいないのかってすぐわかる。実際にバットで打つように斬りますから。こうやって、バッと構えてて」
手刀と手のひらがグリップに成り変わり、右手親指がピンと立って、座ったままでバッティングの構えが作られた。アゴは左肩に乗っていないが体は微動もせず、目つきは鋭く、今ここにボールが投げられてもおかしくない、と思えるほどに打つ気満々の[ミスター・ブレーブス]が目の前に出現して、僕は息を呑んだ。
「で、バックスイングしてバシャッと斬るんです。面白いし、緊張します。ひとつ間違えば危険ですけど、でもその緊張がいいんです。緊張がないとダメ。キャンプで毎日同じ練習じゃ、選手も飽きてきます。飽きてきた頃にバシャッとやる。面白いし、危ないし、緊張するしね」
「キャンプで毎日同じ練習」と聞いて、長池さんが青田コーチによって作られ、その長池さんがコーチとして何人も選手を作ったのだと思い直した。そのとき、長池さんならば、バッティングでいちばん大事なものをわかっているのではないか、と直感した。
「いやあ、まだまだわかりません。わかってるなら、誰か、教えてもらいたいですねえ。僕、いちばん興味あるのは落合博満なんですけど、三冠王を3回も獲ってる落合がどういう考えでやっているのか、一回、教えてもらいたいです。やっぱり、バッティングって、こうしないといけない、というのはないじゃないですか? だから難しい」
バッターそれぞれに構えが違う、フォームが違う。それだけに「バッティングでいちばん大事なものはこれだ」とは言えない難しさがある。
「だから、本も出てないでしょ? これだ、っていう本はないでしょ?」
そもそも長池さんの著書が出ていない、という事実が、難しさの証(あかし)なのかもしれない。
「出したいです。残したいですよ。でも、僕一人で書くというよりも、例えば僕が落合と話して、打つ難しさをわかっている人と綿密に話し合って、そこに僕の考えを入れて作れば、いいものができると思う。残したいですね、『長池徳士の打撃論』というのを。死ぬまでに」

打撃について熱く語った取材当時の長池さん
笑みを浮かべ、ソファに身を沈めた長池さんは腕時計に視線を落とし、「じゃあ、そろそろ、いいですか?」と言った。1時間半近く経過していた。取材はそこで終了となった。
長池さんを見送った後、ホテルを出て、宝塚駅前の伊丹空港行きバス乗り場を目指す。その途上、宝塚大劇場の近くに手塚治虫記念館があることを知った。歌劇には縁のない僕も、この地で育った手塚治虫が少年時代から観劇していて、後年の漫画作品に影響を及ぼしたことは知っている。帰りの飛行機までまだ3時間もあり、記念館に足を運んだ。
さまざまな手塚キャラクターが置かれたショーケース。そのなかに、西武のユニフォームを着たレオのぬいぐるみがあった。全長30センチもなく、特に説明もなく、無造作に置かれている。それでも、忘れていた手塚作品とプロ野球の関係性が呼び覚まされた。
ふと、西武コーチ時代の長池さんが、藁を斬り裂く姿が思い浮かんだ。『長池徳士の打撃論』には、日本刀の効果も書かれるだろうか。
(2011年6月3日・取材)