このレアな存在である蹴球放浪者は、いったいどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか。その果てしないサッカー旅は、い…

このレアな存在である蹴球放浪者は、いったいどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか。その果てしないサッカー旅は、いったいいつ、どこで、どういう理由で始まったのだろうか。今回は、ついにその謎のベールがはがされる。さあ、東西、東西~。

■すべての始まりは東京オリンピックの開幕2日目

 間もなく東京オリンピックが開幕します(たぶん)。そこで、今回はオリンピックの思い出を……。

 僕が初めて見たオリンピック。それは、今から57年前に東京で開かれた1964年の大会でした。

 当時、僕は東京の新宿区内の公立小学校の6年生でした。

 今年開かれる東京大会でも首都圏各自治体で学校単位での観戦が幅広く計画されていたようですが(新型コロナウイルス感染症の影響で多くの自治体で中止)、57年前も同じように学校単位での見学(または見物)が企画されていました。

 日本のサッカー界にとって、1964年の東京オリンピックといえばアルゼンチン戦での勝利です。

 第二次世界大戦前からの名選手たちが引退した1950年代後半から日本のサッカーは低迷していました。戦争の混乱のせいで若手選手が育っていなかったのです。1956年のメルボルン大会には出場できたものの(一回戦でオーストラリアに敗退)、次のローマ大会予選では韓国に敗れてしまいます。

 危機感を抱いた日本サッカー協会の野津謙会長は西ドイツ協会にコーチの派遣を要請。西ドイツ協会はデットマール・クラマー・コーチを派遣してきました。極東の島国からの要請に、将来、自国の代表監督になるかもしれない優秀なコーチを派遣してくれたのです。

 クラマー・コーチの指導の下、基礎から鍛え直した日本代表(全日本)。同コーチの推薦で1962年には当時33歳で古河電工の監督兼選手だった長沼健が監督に就任し、来日時からクラマーの通訳を務めた岡野俊一郎(32歳)がコーチとなります。

■当時のサッカーはマイナー競技だった

 自国開催のオリンピックということで、日本体育協会からの資金も使えたので、日本代表は毎年のようにソ連やヨーロッパに2か月ほどの長期遠征を行って強化を進めました。そして、オリンピックでアルゼンチンに3対2と逆転勝ちしたのです(日本のグループではイタリアがプロ問題で棄権していたため、ガーナに敗れて1勝1敗だった日本は2位で準々決勝に進出)。

 そのアルゼンチン戦の写真は、若い方でもたぶん一度はご覧になったことがあるでしょう。バックスタンドが映っている写真を見ると、スタンドは白や黒の制服を着た人たちでいっぱいです。つまり、中学生や高校生の団体がスタンドを埋めているのです。

 会場は駒沢陸上競技場。収容人員は2万人強です。アルゼンチン戦の観客数は1万9000人台でしたが、バックスタンドに一般客の姿はあまり見えないのです。サッカーはマイナー競技だったので入場券が売れなかったのです。

 オリンピック入場券購入のための整理券は1963年10月に配布が始まりました。配布は不人気競技から開始され、その“栄えある第1回”に輝いたのがサッカーとヨット、ボートでした。ちなみに第2回がホッケー、射撃、近代五種、馬術、カヌーというのですから、サッカーがいかに不人気だったかが分かります。

 2万人収容の駒沢での日本戦ですらそんな状態だったのですから、大きな国立競技場のスタンドが埋まるわけはありません。というわけで、僕たちは開会式の翌10月11日に国立競技場で行われたハンガリー対モロッコ戦に連れて行かれたのでした。

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