もし東京オリンピックで、日本代表が6試合を勝ち抜いて金メダルを獲得するとしたら、それを見届けるのは誰だろう。無観客開催…

もし東京オリンピックで、日本代表が6試合を勝ち抜いて金メダルを獲得するとしたら、それを見届けるのは誰だろう。無観客開催でないのなら、抽選でゴールドチケットが当たった少人数の幸運な人たち。あとはIOCなどの大会関係者、スポンサー企業の人たち。そして、取材パスを手に入れた報道関係者だ。日本ではオリンピックの取材パスはほとんどが「運動記者クラブ」に配分される。サッカージャーナリストがそれを手にすることはまずない。できることならサッカー競技限定で、日本サッカーの当事者でもある信頼できるジャーナリストたちが、その瞬間に立ち会って取材できればいいのだが――。

■私の人生の転機だったかもしれない

 とはいっても、少なくとも日本の男女の全試合を生中継で見られる(と期待している)のは、昔のオリンピックを考えれば夢のような話だ。

 私のオリンピック・サッカーの最も古い記憶は、1964年10月14日の夕刻のことだった。私は中学1年生だった。なぜかその日は帰りが父といっしょになり、バス停から家まで歩きながら、父が「サッカーが勝ったぞ」と話してくれたのを鮮明に覚えている。それは、日本がアルゼンチンに0-2から大逆転で3-2の勝利を収めた歴史的な日だった。しかし当時まだサッカー部に入部しておらず、興味もなかった私は、「ふ~ん」と言っただけだった。なぜあんな何げない父との会話をはっきり覚えているのだろうか。もしかしたら、それは、私の人生をサッカーというものに押し出す運命の最初の一撃だったのかもしれない。

■通学中に聴いたメキシコ大会のラジオ実況

 4年後、私は高校2年生になっていた。すでに押しも押されぬサッカー・クレージーだった。メキシコ・オリンピックのサッカーのラジオ放送を、登校中の電車のなかで聞いていた記憶がある。グループリーグの第2戦、ブラジル戦だった。

 ブラジル戦のキックオフは現地時間で10月16日の15時30分。日本時間では10月17日木曜日の午前5時30分である。私の自宅は横須賀市の久里浜、学校は鎌倉市の大船である。8時10分の始業に間に合わせるために、私は6時半ごろに家を出て、JR(当時はまだ国鉄だった)の久里浜駅発7時過ぎの横須賀線に乗った。席につくと、窓のところにトランジスタラジオを置き、イヤホンでメキシコからの実況中継を聴いた。

 試合は立ち上がりに1点を失い、苦しい展開だった。電車が動き始めたときには、後半30分を回っていただろう。久里浜を出るときにはガラガラだった横須賀線も、次の駅、次の駅でほぼ満員になる。ひと駅ごとに、サッカー部の仲間が1人、2人と乗ってきては、私が座っている座席前の通路にやってくる。彼らも耳にイヤホンを入れている。

 だが、横須賀線はトンネルだらけ。トンネルにはいるたびに電波が届かなくなる。チャンスになったと思うと、ザーっと雑音になる。しかしひとつのトンネルを出た瞬間、「はいった、はいった!」とアナウンサーが言っているのを私は聞いた。語調からすれば日本の得点だ。釜本がどうのこうのと言っているうちにまたトンネルにはいる。

■白いユニホームはサッカーマンの誇り

 ともかく私は、日本が同点にしたことを確認し、サッカー部の仲間たちと「やった、やった!」と声を上げた。お気楽な高校生と違ってこれから横浜や東京まで仕事に向かうサラリーマンやOLたちも、日本のサッカーが釜本邦茂のハットトリックで初戦を快勝したのを知っているのだろう。満員電車のなかで押し黙りながらも、彼らの目が一瞬輝くのを、私は見逃さなかった。

 結局、釜本のアシストで渡辺正が同点ゴールを決めたと確認できたのは、帰宅して夕刊の記事を読んでからだった。

 この大会で日本は銅メダルを獲得しただけでなく、釜本は7ゴールを記録して大会得点王となり、日本代表はFIFAとユネスコの「フェアプレー賞」まで受賞した。

 当時、私たちはみんな日本代表のことを「全日本」と呼んでいた。FIFAに登録された代表チームカラーは現在と同じ青だったが、このころの「全日本」は好んで白いユニホームを着た。メキシコ・オリンピックでは、3位決定戦のメキシコ戦でパンツを紺色にした以外は、すべての試合を上から下まで白のユニホームで戦った。

 銅メダル、得点王、フェアプレー賞、そして真っ白のユニホームまで、全日本のすべてが、私たち日本のサッカーの末端にいる者の誇りだった。それからしばらくは、私自身がサッカーをやっていることまで、何か誇らしく思ったものだった。

■地元の大会なのにテレビ観戦とは……

 しかしオリンピックと日本サッカーの関わりは、そこで長い空白の時期にはいる。その後20年以上、6大会にわたって予選敗退を繰り返した日本のサッカー。4年にいちど、日本中がお祭り騒ぎになるオリンピックの期間は、サッカーファンにとってはカヤの外で寂しく思う時間だった。1996年のアトランタ大会で出場権を獲得したとき、取材パスなどなくても絶対に取材に行こうと思ったのは、あのメキシコのときの誇らしい思い出とともに、それから四半世紀もの悔しい思いがあったからかもしれない。

 しかしそうして見てきたオリンピックのサッカーを、地元で開かれるときにテレビで見ていなければならないとは……。残念とか悔しいなどの思いは、不思議にない。何かとても、奇妙な思いがしているだけだ。

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