「オープン球話」連載第72回 第71回を読む>>【とんでもなく足の速いルーキーが入団した】――前回までは「ライフルマン」…

「オープン球話」連載第72回 第71回を読む>>

【とんでもなく足の速いルーキーが入団した】

――前回までは「ライフルマン」こと、船田和英さんについて伺いました。前回のラストでもチラッと出ましたが、今回からは、船田さん同様、グラウンドに出る前には必ず鏡をチェックしてユニフォームの着こなしを意識していたという、ヤクルトV1戦士のひとり、水谷新太郎さんについて伺いたいと思います。

八重樫 水谷は僕の2年後輩で、三重高校から1971(昭和46)年のドラフト9位でプロ入りしたんですよ。水谷が入団してきた頃、ベースランニングの練習でチームの中で一番足が速かったのは、僕だったんです。



ヤクルトの広岡達朗監督(右)から守備の指導を受ける水谷新太郎

――以前も、「若い頃は足が速かった」と伺いましたが、ベテランになってからの八重樫さんの印象が強すぎて、「足が速い」という情報がスムーズに頭に入ってきません(笑)。

八重樫 いやいや、本当に体型もスリムで足も速かったんだから(笑)。僕より1年後に入団してきた山下慶徳さんと僕が、チームでは瞬足の部類だったんです。そこに水谷が入ってきて計測したら、初めてベースランニングで14秒台を切ったんですよ。当時、僕が14秒2くらい、山下さんも14秒1とか、そんな感じだったんだけど、水谷はアッサリと13秒8くらいを記録したんですよね。

――それは個性的な「武器」を持った新人選手ですね。

八重樫 そうですね。だから、水谷が入ってきた時の印象は「とんでもなく足が速いのが入団してきたな」という感じ。ただ、バッティングはまだまだでしたね。内野守備に関しては、足が速いから守備範囲は広かったけど、送球の確実性は今ひとつでした。

――足は速いけど、バッティングは非力で、守備も安定性には欠ける。それでも、抜群の脚力を持った俊足選手。そんなイメージだったんですか?

八重樫 まさにそんなイメージだったよ。高校からの入団だったので、チームとしても長い目で育てるつもりだったんじゃないかと思います。実際に、入団してから数年間は二軍暮らしだったし、一軍デビューもプロ3年目のシーズン終盤でしたから。

【猛練習で、プロ入り後に左打ちに転向】

――水谷さんはプロに入ってから左打ちにトライしたんですよね。

八重樫 プロ2年目くらいに右打ちから左打ちに挑戦して、最初の頃はしばらくスイッチヒッターを目指していました。変化球にすごく弱かったし、右バッターなのに走り打ちをしていたんです。それで、中西太さんが「お前は足が速いんだから、左で打ってごらん」とアドバイスをして、左打ちを始めたんですよ。

――もともとは右打ちで、プロ入り後に左打ちに挑戦したものの、スイッチヒッターにはならずにずっと左で打っていましたよね。

八重樫 最終的には「左のほうがいい」と自分で判断したみたいですね。練習ではたまに右でも打っていましたけど。一から始めたことだから、本当に大変だったと思うけど、彼は練習が大好きなんです。タフなのもあるから、自分が納得するまでは絶対に練習をやめない。いつも、「すごくスタミナのある頑張るヤツだなぁ」と見ていました。どんなにキツイ指導を受けても、決してふて腐れないんですよ。

――どんなにキツイ練習でも、ですか?

八重樫 そうそう。とにかく、コーチに食らいついていましたよ。思うようにできなかったり、満足いかない時には、自分で自分に憤慨しているんです。いつも、ひとりで怒っているんです。だから、「水谷、お前はいつも何に怒っているんだよ?」って、聞いたことがあって。すると、「いやぁ、これがどうしてもできなくて......」とか言うんで、「じゃあ、できるまで頑張れよ」って言うしかできなかったよ(笑)。

――努力家であり、練習の虫なんですね。

八重樫 入団した時から、「1年でも早く一軍で活躍したい」という気持ちが全面に出ていたのが水谷でしたね。でも、入団から数年は一軍に呼ばれることはなかったから、相当悔しかったと思いますよ。そうしている間に、広岡達朗さんがヤクルト入り(1974年から守備コーチ)して、チャンスをつかんだんです。

【徹底的に厳しい広岡と、絶対妥協しない水谷】

――後の広岡さんのインタビュー記事を読むと、「水谷を徹底的に鍛え上げた」というコメントが必ず出てきますよね。

八重樫 広岡さんは徹底的に水谷を鍛えたし、水谷は妥協せずに練習するタイプだったから、お互いにいい出会いだったんじゃないですかね。レギュラーになる前から、広岡さんは水谷を一軍に帯同させていましたから。

――自分の目の届く範囲で指導したいという意図ですか?

八重樫 そうでしょうね。試合にはほとんど出ないのに、遠征先の宿舎に帰ってから、広岡さんと水谷のマンツーマンの練習が始まるんです。主にゴロを捕球する際の足の運びでしたね。広岡さんは、ふて腐れないで黙々と食らいついてくるタイプが大好きなんです。だから両者の相性はピッタリで、広岡さんも「何とかコイツを一人前にしたい」と、水谷のことを気にかけるようになっていったんでしょう。

――自分の好きなタイプの選手の場合は、厳しい広岡さんでも、褒めたりするんですか?

八重樫 褒めるわけないでしょう(笑)。でも、決して褒めることはないんだけど、そういう選手の場合は、必ずどこかでチャンスを与えるんです。だから、広岡さんが監督になってから出場機会が増えていったし、自らノックを打って指導もしていました。スタメン出場するようになってからも、猛練習は続きましたね。

――水谷さんにとって、広岡さんとの出会いは最高だったけど、その間はずっと大変だったでしょうね。

八重樫 これから試合が始まるという時にも、激しいノックの嵐でした。ゲーム前のシートノックでユニフォームが泥だらけになるんですよ。だから水谷は、試合開始前にもう一度、ユニフォームを着替えるんです。その時間もないぐらいギリギリの時は、真っ黒なユニフォームのまま第一打席に入ったりしていましたね(笑)。それぐらいガッツにあふれたタイプでした。決して、めげないですから。

――以前、広岡さんにインタビューした時に、「自分は水谷からいろいろなことを教わった」と言っていました。その理由としては「丁寧に指導すれば、人は必ず育つのだということを確信したから」だと言っていました。

八重樫 そうでしょうね。どれだけ厳しくやっても食らいついてくるから、広岡さんとしても、「これで育たなかったら、オレのせいだ」という気持ちになったんでしょう。昔、ヤクルトに益川満育というハーフの選手がいたんです。1968年に外野手兼投手として夏の甲子園を優勝した選手で、プロでは打者だったんだけど、彼も食らいつくタイプでしたね。

――益川選手は、近鉄の伊勢孝夫さんと交換で、1977年シーズンからは近鉄に移籍していますね。

八重樫 せっかく広岡さんに期待されていたのに、試合に出るようになってから夜遊びを覚えて、二日酔いで練習に来るようになった。最初は広岡さんも我慢していたんだけど、結局それが治らずに、トレードに出されることになったんです。水谷とは対照的な結果となりましたね。水谷の思い出話、次回も続けましょうか。

(第73回につづく)