80年代末から90年代にかけてアイドル顔負けのルックスで、それまでの女子プロレスラーのイメージを大きく変えたキューティー鈴木。雑誌のグラビアを席巻し、多くのテレビ・映画に出演。CDやビデオなどが次々と発売されるなど、絶大な人気を誇った"元…

 80年代末から90年代にかけてアイドル顔負けのルックスで、それまでの女子プロレスラーのイメージを大きく変えたキューティー鈴木。雑誌のグラビアを席巻し、多くのテレビ・映画に出演。CDやビデオなどが次々と発売されるなど、絶大な人気を誇った"元祖アイドルレスラー"に現役時代を振り返ってもらった。



現在は2児の母であるキューティー鈴木

ーーキューティーさんは、"アイドルレスラー"と呼ばれていた時代、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)の表紙も飾ったことがあるんですよね。

「はい。あの頃、急に芸能の仕事が忙しくなった時期で、自分ではそれがどれくらいすごいことかわかってなかったんですけど。兄や学生時代の友達に言われて、ことの重大さを知りましたね(笑)」

――それまで、自分がアイドル的な立場だった自覚もなかったとか。

「そうなんですよ。それまで『かわいい』とか、そんなに言われたこともなかったし。芸能の仕事をしてから急に言われるようになったので、なんかちょっと作られている感があったし。『アイドルっぽくしなきゃいけないのかな』っていう思いもちょっとありました」

――プロレスラーになろうと思ったのは、どんなきっかけがあったのですか?

「中学3年の時、友達と初めて生で女子プロレスを観に行ったら感動して、『もう、これしかない!』と思ったんです。そこからプロレスラーを目指して、中学卒業前の85年1月15日、当時は成人の日で休みだった日にフジテレビまで行って、全女(全日本女子プロレス)のオーディションを受けたんですよ。その時は落ちたんですけど、受験者が思ったよりも多くなかったので、『これなら来年、合格できるかも』と思ったんです。それで高校に進学して、翌年もう一度受けようとしたんですけど、応募者が一気に増えて、書類で落とされてしまったんですよ。あの時は焦りましたね」

――クラッシュ・ギャルズの人気が爆発して、1年で志望者も激増したんですね。

「それで『また来年、受けるしかないな』と思っていたら、友達が『ジャパン女子プロレスという新しい団体ができるみたいだよ』って、雑誌を見せてくれて。藁をもつかむ思いで受けてみたら、運よく受かって。高校を1年で中退してジャパン女子に入ったんです」

――ジャパン女子に入ってみていかがでしたか?

「夢と希望いっぱいで入ったんですけど、入寮してすぐに夢はなくなりましたね(笑)。入る前は、寮生活は修学旅行の延長みたいに考えていたけど、まったくそんなかわいいものではないし。全国各地から年齢も違う人が集まって、しかもプロレスラーになろうとする人たちだからみんな気が強くて、些細なことでも揉めるし。常にギスギスしていて、練習と人間関係、両方ともすごくキツかったんです。だけど、その一方で毎日があまりにも忙しすぎたので、『辞めたい』って思う暇もなく毎日をすごして、なんとかデビューできた感じですね」

――ジャパン女子は旗揚げ当初、"プロレス版おニャン子クラブ"とか呼ばれていて。新人のリングネームは、すべてあの秋元康さんがつけていたんですよね。

「はい。秋元さんがみんなの本名と写真を見て、ポンポンと5分くらいで決めたと聞きました(笑)。だから最初、『キューティー鈴木』って聞いた時に『えーっ!』と思ったんです。私はもっと強そうな名前がよかったんですよ。でも他の候補も『アップル鈴木』『キウイ鈴木』とか果物ばかりで。『嫌だ』と言える立場でもなかったので、つけていただいた名前をありがたくいただく感じでしたね」

――他の人たちも同じような葛藤があったんでしょうね。

「そうだと思います。たとえばイーグル沢井は最初『ターボ沢井』が候補だったらしいですし、プラム麻里子は苗字が『梅田』だったから最初は『コマ梅田』になりそうだったんですよ。当時、大阪に梅田コマ劇場っていうのがあったんですよね(笑)」

――秋元さんがアドバイザーとして関わったり、芸能界とのタイアップで華やかに旗揚げしたジャパン女子ですけど、観客動員には苦戦したんですよね。

「最初の後楽園ホールは満員だったんですけど、もう次の大会から『えっ!?』っていうようなお客さんの数でした。地方に行くと『選手の人数のほうが多いんじゃないかな?』っていう時もありましたし。お客さんのおばあちゃんから『ダンプ松本は何時に来るの?』って、聞かれたりしたんですよ(笑)。ジャパンはテレビ放送がなかったから、知名度が上がらなかったんです」
※ダンプ松本は、当時ライバル団体の全日本女子プロレス所属。



ジャパン女子プロレス時代のキューティー鈴木(写真:平工幸雄/アフロ)

――そんな中、トップのジャッキー佐藤さんと神取忍さんの間に確執が生まれて、旗揚げ1周年を前にした87年7月18日に不穏な"ケンカマッチ"が行なわれてしまうわけですよね。あの時、試合前からその兆候はあったんですか?

「あの試合が決まってから、ジャッキーさんがすごく熱心に練習されてたんですよ。私たち新人より早くから道場に来て練習されてて、『ベテランなのにすごいな』と思っていたら、当日は殴り合い、つぶし合いの試合になって......。二人の間に何があったのかはわからないけれど、私はセコンドとしてリングサイドで観ていて、怖かったし、悲しくなりましたね」

――結局、神取さんがアームロックでギブアップ勝ちしましたけど、その後、二人はどうなったんですか?

「ジャッキーさんは試合中の顔面パンチで、『人間の顔ってこんなに変わるの?』っていうくらい腫れあがっちゃったんですよ。それで翌日から欠場されたんですけど、ポスターに一番大きく載っている人だったので、欠場の挨拶のためにずっと巡業にはついてきていて。サングラスとマスクをしたまま私たちと同じ巡業バスにも乗ってたんですけど、誰も話しかけられませんでした。それで神取さんはそのままジャパン女子離脱みたいになっちゃって、ジャッキーさんもその後引退。旗揚げ1年でトップ2人がいなくなって、『ジャパン女子はもうつぶれる』って言われ始めたんです。新人の私たちは『この先、どうなっちゃうんだろう......』って、不安しかなかったですね」



「今となっては良い思い出」と現役時代を語るキューティー鈴木

後編では、ジャパン女子プロレス解散後に旗揚げすることになるJWP女子プロレスでの秘話や芸能とプロレスラーの両立の苦労話を語って頂きます。

【プロフィール】
キューティー鈴木
1969年10月22日、埼玉県川口市生まれ。1986年川口市立川口女子高等学校を中退し、ジャパン女子プロレスに入団。1986年9月19日、プラム麻里子戦でデビュー。1989年、『週刊ヤングジャンプ(7月20日号)』の表紙を単独で飾るなどタレントとしても注目を集める。1992年4月3日、JWP女子プロレスに旗揚げメンバーとして参加。1998年12月27日、後楽園ホール大会で引退。引退後、リングからは離れ、2児の母として乳がん啓発運動などの活動を行なう。