80年代末から90年代にかけてアイドル顔負けのルックスで、それまでの女子プロレスラーのイメージを大きく変えたキューティー鈴木。前編では、デビュー秘話とジャパン女子プロレス時代を振り返ってもらった。後編では芸能界との両立、そしてJWP時代を…

 80年代末から90年代にかけてアイドル顔負けのルックスで、それまでの女子プロレスラーのイメージを大きく変えたキューティー鈴木。前編では、デビュー秘話とジャパン女子プロレス時代を振り返ってもらった。後編では芸能界との両立、そしてJWP時代を中心に思い出を語る。

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今年はデビューしてから35周年となるキューティー鈴木

ーー旗揚げ1年で「つぶれる」と言われ始めたジャパン女子プロレスを救ったのが、キューティーさんのアイドルレスラーとしてのブレイクだと思います。一般誌やテレビで数多く取り上げられるようになったきっかけは、何かあったんですか?

「デビュー3年目くらいに、フィリピンのエルニドで初めてプロモーションビデオを撮ったんですよ。その宣伝の写真をいろんな媒体に載せてもらったのがきっかけで、芸能の仕事が増えたって聞きました。その後、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に出させてもらって、そのあたりから急に忙しくなりましたね」

――当時、男性向けの週刊誌にキューティーさんが試合中に悶絶している写真がよく載っていましたよね?(笑)。

「最初の頃はそれがすごく嫌だったんですよ。でも、だんだん開き直って『それでもいっか』ぐらいになっていきましたね。やっぱり、お客さんがまったく入ってなかった頃を経験してきたので、きっかけはどうあれ、ジャパン女子プロレスに興味を持ってくれたらそれでいいって」

――ジャパン女子の宣伝のためと割り切っていた部分もあったんですね。

「でも、芸能の仕事が忙しすぎて、プロレスをするのも嫌になった時期があったんですよ。当時はVシネマがすごく流行ってて、朝まで撮影して家に帰ってちょっと仮眠をとって、それから試合に行くっていうような日々が続いたりして。

好きで芸能の仕事をしてるわけではないのに、他の選手からは『なんでアイツだけ特別扱いなの?』みたいに思われたりもして。みんな私の陰口を言っていたり、試合中も、巧妙な嫌がらせを受けて。髪を引っ張られたり、えげつない攻撃をされたり。でも、プロレスは闘いだし、『私が我慢すればいいんだ』と思ってやっていました」

――芸能の仕事のお金はちゃんともらえたんですか?

「それが『新人だから』とか『宣伝だから』って言われて、ほとんどお金はもらえなかったんですよ。当時の私は無知だったから、『そういうものなのかな?』って思っていたんですけど。ある時、『仕事なんだから、絶対にギャラはあるはずだよ』って言われて、勇気を出して会社に聞いてみたら、誤魔化されながらもある程度はもらえるようになって。でも、今考えるとバブルの時代だから、Vシネマ一本でかなりの額がもらえていたはずなので、実際の金額を知っていたら暴れていましたね(笑)」

――キューティーさん個人の人気はありましたけど、結局、ジャパン女子自体の経営状況は改善されず、92年1月についに解散。その後、キューティーさんや尾崎魔弓さんたちのJWP女子プロレスと、神取忍さん・風間ルミさんらのLLPWには、どのようにして分かれたんですか?

「私はジャパンがつぶれた時点で、もうプロレスは続けられないものだと思ってたんですよ。でも、ジャパンは興行とグッズの会社が別々で、グッズ会社の方はお金が少し残っていたので、それを元手に新団体をやることになったんです。そして選手全員参加の会議があって、『やる』と言って残った人がJWP、出ていった人がLLPWになったんです」

――風間ルミさんたちは、その会議の前からLLPW旗揚げで動いていたんですかね?

「真相はいまだによくわからないんですよ。私はLLPWに行ったイーグル沢井と同期で新人の頃はすごく仲が良かったので、あとで『ねえ、ホントのこと教えてよ』って聞いたんですけど、『会議の時点では本当に続けるつもりなかったのよ』って、口を割らなかったですね(笑)。

結局、別れ別れになりましたけど、『寂しい』という気持ちはあまりなくて。『これが最後のチャンスだから、やるなら悔いがないように思いっきりやろう』と思ったし、ジャパンでは人任せだったけど、JWPでは『私がこの団体を引っ張って、お客さんを入れよう』と考えるようになったので。プロ意識が芽生えたのはJWPからでしたね。『LLPWにも全女にも絶対に負けたくない』って思っていました」



JWP女子プロレス時代のキューティー鈴木。(写真:平工幸雄/アフロ)

――93年4月2日、横浜アリーナで全女主催の女子プロレスオールスター戦が開催されて、そこから団体対抗戦ブームになります。対抗戦はやってみていかがでしたか?

「やっぱり『負けたくない』『なめられたくない』っていう気持ちがありましたね。そして、全女の井上京子ちゃんと試合をやったことで、私のプロレスに対する考え方が変わりました。『私はもしかしたら自己満足のプロレスをやっていたのかも』と思わされて。京子ちゃんはお客さんのこともちゃんと考えてるし、マスコミのことまで考えて試合をしていた。『この人、ホントにすごいな』って思えたので、試合で当たれて良かったなって思いました。

あとは全女と対抗戦をやったことで、フジテレビで自分の試合が放送されたので、それも嬉しかったです。私がファンの時代から観ていた番組ですからね。15歳の時の私に『私、プロレスラーになってがんばってるよ!』って教えてあげたいって思いましたね(笑)」

――キューティーさんは98年に引退されましたが、いまの女子プロレスは見ていますか?

「同期の尾崎魔弓が、OZアカデミーという団体を率いてまだ現役を続けているので、『えらいなー、尾崎は』って感心しながら年2回くらい見てますけど、それくらいですね」

――今の女子プロレスはアイドル的な選手がたくさんいるので、キューティーさんは30年くらい早かったのかなって思います(笑)。

「アハハハハ! そうしたら、いじめられなかったかもしれないですね(笑)。今はアイドルからプロレスラーになる人もいるんですよね? 女子プロレスの人気が復活してきているのはうれしいです。私たちの時代は、10代の女の子がみんな女子プロレスラーに憧れて、大勢の人がオーディションを受けていたので、またそういう時代が来たらいいなって思いますね。YouTuberより女子プロレスラーが憧れの対象になったらいいなって(笑)」



昨今のアイドルレスラーブームを微笑ましく見守るキューティー鈴木

【プロフィール】
キューティー鈴木
1969年10月22日、埼玉県川口市生まれ。1986年川口市立川口女子高等学校を中退し、ジャパン女子プロレスに入団。1986年9月19日、プラム麻里子戦でデビュー1989年、『週刊ヤングジャンプ(7月20日号)』の表紙を単独で飾るなどタレントとしても注目を集める。1992年4月3日、JWP女子プロレスに旗揚げメンバーとして参加。1998年12月27日、後楽園ホール大会で引退。引退後、リングからは離れ、2児の母として乳がん啓発運動などの活動を行なう。