2月12日、富士通スタジアム川崎で2017年シーズンをスタートさせたアサヒビールシルバースターに一人の男が帰ってきた。大森優斗。2014年入団、2015年にはシーズン4インターセプトを記録し、Xリーグのインターセプト王となり、オールXリーグ…

2月12日、富士通スタジアム川崎で2017年シーズンをスタートさせたアサヒビールシルバースターに一人の男が帰ってきた。

大森優斗。2014年入団、2015年にはシーズン4インターセプトを記録し、Xリーグのインターセプト王となり、オールXリーグに選出された。2016シーズンは副将に任命される話も内々に進んでいた。しかし、大森の2016年シーズンの戦いの場はフィールドではなく病院だった。

大森が右膝に違和感があることを自覚したのは2015年の年末。正確にはシーズン中から違和感があったが、大学3年時に前十字靭帯を断裂した古傷が傷んでいると思っていた。

しかし、骨を握りしめられるような、なんとも言えない痛みが日に日に増していった。動かすと痛みが和らいだが、起床時など、長時間動かさない状態が続くと痛みが増した。

「これは古傷の痛みではないのではないか?」

そう思った大森は、昨年1月中旬にシルバースターの河井洋次トレーナーに相談し、MRIの撮影を行い、チームドクターの立石智彦医師の診断を仰いだ。レントゲン画像には、膝関節部分に骨よりも濃く白い影が映し出されていた。これが痛みの原因であることは間違いなかったが、立石医師はもっとよく調べた方がよいと、別の病院への紹介状を書いた。紹介先は『がん研有明病院』。はっきりと病名は言われなかったが、病院名を聞いて、大森は自分の病名を悟った。

がん研有明病院でもう一度、一通り検査をした。しかし、腫瘍が良性か悪性かは手術で組織を採取して調べてみないと分からなかった。

検査のための手術は昨年2月25日、全身麻酔で行われた。

目が覚めた時、父から悪性だったことを告げられた。

骨に発生する悪性腫瘍はいくつか種類がある。大森がかかったのは骨肉腫だった。

国立研究開発法人国立がん研究センターが発表しているデータによれば、骨肉腫はドラマや漫画で取り上げられることも多いため、名前はよく知られているが、日本での年間発生は200〜300人ほどの希少がんの一種。主に10〜20代の若年層の膝や肩に発生する場合が多い。世界的に抗がん剤と手術を併用する標準的治療法が確立されており、転移のない、四肢に発生した症例の5年生存率は70パーセント。一昔前は四肢の切断をしなければならないケースが多かったが、早期発見なら温存できる確率が上がってきている。

大森の場合、ステージは1と2の間だった。治療によって高い確率で完治が期待できる状況だったが、膝は人工関節にすげ替えなければならず、選手生命は諦めねばならなかった。

治療は術前3回の抗がん剤治療により、腫瘍をできるだけ小さくした上で、患部を含む膝関節を人工関節に置換する手術を行い、術後7回の抗がん剤治療を行うというものだった。

抗がん剤治療は1週間の入院投薬、3週間の自宅療養という1ヶ月クールが1セット。これが計7回繰り返された。

吐き気、嘔吐、食欲不振、味覚障害、耳鳴り、脱毛など、抗がん剤治療には副作用があることが知られている。「治療前に個人差があると説明を受けていましたが、僕は全部出ました。特に1回目の治療は辛かった」(大森)

体力をつけるために食事はしっかりとらねばならない。しかし、吐き気がある上に味覚障害で味を感じることができない。朝起きると枕にごっそりと抜けた毛髪の塊が残っていた。

3回の抗がん剤治療を終えて手術をしたのは5月22日。麻酔から覚めると携帯電話のメールやメッセージの着信音が鳴りっぱなしの状態になっていた。

手術中に父・高清さんが、SNSを通じて息子の状況を公開したからだった。

それまで大森は自分の状況をごく限られた人にしか明かしていなかった。

「最初は正直、『なんてことをしてくれたんだ』と思いました」

大森は当時の心境を思い出し苦笑する。しかし、続々と送られてくる励ましや応援のメッセージが辛い治療を乗り越える力になった。

「思いがけない方が自分を思ってくれていることを知り、周囲に支えられていることを実感しました」

フットボールの仲間たちの支えも力強かった。

検査手術によって2月に病名が判明し、チームに報告した翌日には、シルバースターの阿部敏彰監督が見舞いに駆けつけた。

「びっくりしました。監督から『治ると信じれば治る』と、励ましの言葉をいただきました」

この時点で治療は秋のシーズン一杯かかることは分かっていた。しかし、シルバースターはコーチングスタッフとして大森を登録した。これも、大森への励ましのメッセージの一つだった。

秋のシーズン前には関学大時代のチームメイトで、現在エレコム神戸ファイニーズでプレーしている池田雄紀から、大森が学生時代、そしてシルバースターでも着けていた14番をつけてプレーしてもいいか?と、連絡があった。

「14番をつけて活躍して、大森が病と戦っていることを多くの人に知ってもらいたいと考えていました。残念ながらそこまでの活躍ができなかったですが…」

池田は多くの人に大森のことを知ってもらうことで、大森を励まそうと考えていた。

関学大4年時、副将で守備リーダーだった池田と大森は、チームをどう導いていくか、違う考えを持っていたため、事あるごとに衝突していた間柄だった。

「仲が悪かったのではなく、本心をぶつけ合える仲間でした」と、池田。

大学4年時の甲子園ボウル直前に池田が負傷し、甲子園ボウル出場ができなくなった時、前日のミーティングで、「俺たちが池田をライスボウルにつれていこう」と、チームを鼓舞したのは大森だった。その言葉は、今でも池田の心の中に感謝とともに刻み込まれている。

手術後、7回の抗がん剤治療は11月22日に終了。今後は3ヶ月に1回の検診を1年間、2年目は6ヶ月に1回、それ以降は1年に1回の検診で5年間、再発がなければ完治となる。

「同じような境遇にある方から、『前を向く姿勢を見て、頑張ろうと思いました』というメッセージもいただきました。そう言っていただけたことは、自分の励みにもなりました。今は自分の闘病を公にすることによって、誰かの支えや励みになれるなら、と考えています」

大森は自分を支えてくれた周囲への感謝を、自分が誰かの支えになることで表したいと考えている。

シルバースターのコーチとしての再スタートはその第一歩だ。

「戦術を考えることはもちろん、どうやって選手を教えるか、勉強しなければならないことはたくさんあります」

再びフィールドに帰ってきた大森は、充実した笑顔だった。

※ハドルマガジン2017年3月号Vol.26掲載記事