男子柔道100キロ級の日本代表であるウルフ・アロン。柔道着の上からでもわかる強靭な肉体を持ち、豪快な柔道で東京五輪内定の座をつかんだ。 柔道は日本のお家芸であり、しかも100キロ級は井上康生らが数々の栄冠を勝ち取った伝統の階級である。それ…

 男子柔道100キロ級の日本代表であるウルフ・アロン。柔道着の上からでもわかる強靭な肉体を持ち、豪快な柔道で東京五輪内定の座をつかんだ。

 柔道は日本のお家芸であり、しかも100キロ級は井上康生らが数々の栄冠を勝ち取った伝統の階級である。それゆえ、東京五輪でウルフにかかる期待は大きい。しかし、ここに至るまでにいくつもの大きな試練があった。

「中学までは、そんなに柔道を頑張っていなかったんです」

 ウルフはそう苦笑しながら語る。



東京五輪の金メダル候補、男子柔道100キロ級のウルフ・アロン

「小学校に上がる前に母方の祖父に『体が大きいから柔道でも』と言われて、講道館の春日柔道クラブに行ったのですが、何が面白いのか理解することができなくて......。帰り際に道場の先生から『面白かった?』と聞かれたんですけど、『面白くない』と言ったら問題になってしまうかもしれないと思って『面白かったです』と答えたんです。そうしたら(道場に)通うことになってしまって」

 周囲の空気を読んだのか、それとも道場の先生が怖かったのか。いずれにしても気遣いのできる子どもだったようだ。

 祖父が言っていたように体の大きさはずば抜けており、小学校時代からかなり目立っていたという。

「入学した時は130センチ、30キロでしたが、卒業する時は160センチ、90キロでした。相当育ちましたね(笑)。当時の卒業アルバムを見ると、すげぇ体型しているなって思いますね」

 この規格外の体型を生かし、ウルフは中学1年の時までは勝ち続けていく。だが2年の時、大きな転機が訪れる。

「それまでは練習しなくても体の大きさを生かしパワーで勝っていたんですけど、中学2年になると勝てなくなり、年下の選手にも負けるようになってしまって......さすがにそれは自分でも許せず、そこからどうやったら勝てるかを考えるようになり、真剣に練習するようになりました」

 柔道を好きになり、本格的に取り組むきっかけになったが、ターニングポイントはここではない。ウルフにとってその後の柔道人生に大きな影響を与えたのは、中学の担任の先生だった。

 ウルフは柔道を続けるためにある高校を選択した。担任の先生にその志望校について相談すると、意外な答えが返ってきた。

「この高校に行くと、柔道でダメになった時にほかに道がなくなる。ここに行くなら、推薦書は書かない」

 当時、その高校は学力的に高いとはいえず、いわゆる柔道をするための学校だった。担任の言葉は進路指導としてはかなり強気だが、柔道がダメになっても、大学進学などの選択肢がある高校を考えてほしいということだった。

 だが柔道しか頭になかったウルフは「なんで?」と、担任の先生の言葉を素直に受け入れることができなかった。しかし、担任の先生も頑なだった。

 そこでウルフが新たな進学先として見つけてきたのが東海大浦安高校だった。柔道では千葉県でもトップクラスの強豪校で、東海大への道も開けている。志望校を担任に伝えると、今度は気持ちよく承諾してくれた。

「いま考えると、東海大浦安に入って初めて日本一になりましたし、そこから東海大に行って世界一にもなれた。あの時の担任の先生の言葉がなかったら、今の僕はないのかなって思います」

 ウルフは高校2年の時に団体戦で高校三冠(全国高校選手権、金鷲旗、インターハイ)を達成。3年時にはインターハイ100キロ超級の個人戦で優勝した。東海大では4年の時に世界選手権ブタペスト大会の100キロ級で優勝し、世界一に輝いた。ウルフ曰く「東海大の4年間は一番成長できた時代だった」。

 1学年上には高校時代からの先輩であるベイカー茉秋(ましゅう)がおり、日本の柔道界を牽引していた。

「茉秋さんのほかにも強い先輩がたくさんいて、その方たちを間近で見られたのは大きかった。柔道のレベルををワンランク上げるために、寮生活を含めた大学生活は必要なものだったと思います」

 強い先輩に囲まれレベルが上がったウルフは、100キロ級の第一人者となった。だがその後、大きな試練が待ち受けていた。

 2019年12月、ワールドマスターズの決勝で右膝半月板損傷の重傷を負ってしまった。それまでも2017年に右胸鎖関節挫傷、2018年には左膝半月板を損傷したこともあったが、東京五輪代表選考前のケガはウルフに暗い影を落とした。

「正直、かなり焦りました。東京五輪の選考がかかっていたので、早く戻らないといけないという気持ちがあったので」

 ケガから4日後には手術を受けた。早く実戦に復帰するため、半月板の縫合ではなく、切除にした。そのため、痛みが出たり、膝が緩むこともあった。

 2020年2月、グランドスラム・デュッセルドルフ大会に出場予定だったが出場を回避。試合に出られないことで、東京五輪選考について不安が募った。

 だが2月27日、全柔連の強化委員会でウルフの東京五輪内定が満場一致で決まった。「うれしかった」とウルフは安堵した。

 ところが、それからわずか1カ月後、コロナ禍の影響で東京五輪は1年延期になり、緊急事態宣言が発令され活動停止となった。

「東京五輪が中止ではなく延期になったのは、ケガをしていた自分にとっては大きかったですが、復帰に向けてやれることに制限があったりして、ストレスを感じていました。とにかく開き直ってやるしかないって感じで、黙々と練習していましたね」

 思うように回復が進まないなか、支えになったのは打ち込みパートナーの存在やトレーナーの言葉だった。

 そうして今年4月、グランドスラム・アンタルヤ大会に一昨年の12月以来の実戦復帰を果たした。準決勝まで4試合オール1本で勝ち進んだが、決勝で敗れ惜しくも準優勝に終わった。

「実戦復帰することに怖さはありました。1年以上ぶりだったので、動きが鈍かったり、感覚的にももうひとつで。とにかく怖さを感じないぐらい練習を積むことが大事かなと思いました」

 実戦から離れている間、柔道について考える時間が増えた。自分はどのような柔道家を目指すのか──。考えを巡らせていくと、ひとつの結論に達した。

「柔道は投げられてしまうと一瞬で終わってしまう。僕は負けない柔道家を目指そうと思っています。どうやったら勝つかよりも、この相手はどういう特徴があるのか......ひとり一人対策をしっかりすれば、負ける確率を減らせられると思うんです」

 東京五輪に向けて、気持ちは高まりつつある。ウルフにとってはどのような舞台になるのだろうか。

「五輪は4年に一度しかないので、すごく価値のあるものだと思いますし、柔道が生まれた日本で開催される五輪に出られるのは、運がいいなって。その舞台で優勝したいです。目標は金メダルです」

 リオ五輪の男子90キロ級で金メダルを獲った先輩のイカー茉秋のように結果を残せば、柔道ファンだけでなく、世界中の多くの人がウルフ・アロンの名前を知ることになるだろう。

プロフィール
ウルフ・アロン/1996年2月25日、東京都生まれ。祖父の勧めで6歳の時に柔道を始める。東海大浦安高校では2年の時に高校三冠を達成。東海大学進学後、1年生ながら全日本学生柔道優勝大会の7連覇に貢献。2年の時にグランプリ・ウランバートルでIJFワールド柔道ツアー初優勝。4年時には全日本選抜体重別選手権で2連覇を飾り、世界選手権でも優勝。2018年4月より了徳寺学園の職員。