「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第18回 金城基泰・前編 (記事一覧を見る>>) メディアで取り上げられることが少…

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第18回 金城基泰・前編 (記事一覧を見る>>)
メディアで取り上げられることが少なくなった「昭和プロ野球人」の貴重な過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。中高年の野球ファンは、広島、南海などで活躍し、現役晩年は韓国プロ野球の発展にも貢献した金城基泰(かねしろ もとやす)さんのことを覚えているだろうか。
体をグッと低く沈み込ませながら、ボールを持った右腕が一瞬、天空を突き刺すように真っすぐ伸びる独特のアンダースロー。誰にも真似のできない美しいフォームはどのようにしてつくられ、プロで最多勝、最優秀救援投手のタイトルを獲得するまでに磨き上げられていったのか。

右腕が天を突く、金城基泰の独創的な投球フォーム(写真=共同通信)
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金城基泰さんに会いに行ったのは2016年10月。きっかけはその1ヵ月前、広島が25年ぶり7度目の優勝を決めた試合で、それが1975年の初優勝時と同じ巨人戦だった。往時の活況を伝える報道に触れたとき、[カープ初の胴上げ投手]となった金城さんの勇姿が思い浮かんだ。
テークバックの大きい、ダイナミックなアンダースロー。その独特のフォームは一度でも見たら忘れられず、僕自身、初めて目撃したのは小学生時代だったがはっきり記憶に残っている。下から浮き上がるような快速球は威力があった。
広島入団は1971年。大阪の此花(このはな)商高(現・大阪偕星高)出身で、ドラフトでは5位指名だった。それでも金城さんは3年目の73年に10勝を挙げると、翌74年には20勝で最多勝に輝き、リーグ最多の奪三振を記録。一気に成長したのだが、同年オフ、交通事故に巻き込まれて長い入院生活を送っている。一時は失明の危機もあったという。
では、なぜそれほどの重傷を負いながら早期復帰し、翌年の初優勝に貢献できたのか。それ以前に、なぜ4年目で急成長できたのか。投手としての技量、力量の原点から聞きたい──。そう思って取材を申し込み、大阪に向かった。
新大阪に着いたところで電話を入れるように言われていた。第一声、「そら、遠いわあ」と金城さんは言った。低音が響くしゃがれた声で、ご自宅に近い大和路線の駅までかなりの時間を要することを教えてくれた。初めての会話なのに朗らかで、人懐っこい口調で、話しているだけで愉(たの)しくなった。
大阪駅から環状線、天王寺で乗り換え、3つ目の加美駅で降りる。改札がある橋上駅舎の通路は狭く、現役時代と違う短髪でも面長の風貌ですぐわかった。金城さんも気づいてくれて笑顔で挨拶を交わし、案内されるまま南口へ降りた。ランチタイムでも静かな商店街を歩きながら僕は取材主旨を説明し、金城さんの連絡先になかなかたどり着けなかったことを付け加えた。
「そんなん、球団に電話してくれたらよかったのに。カープは今も昔と変わらずちゃんとしてくれるし、広島の町も、いつ行ってもよくしてくれます。家庭的っていうのか、郷土愛がすごい。ええとこですよ、広島は」
広島の話題が出たところで、外木場義郎(そとこば よしろう)、安仁屋宗八(あにや そうはち)、長谷川良平──、過去に取材したOBの名前を挙げていった。すると金城さんは素早く反応した。
「長谷川さんは僕がまだ若いときにピッチングコーチで来られてね、ケンカしたことある。まあ、ケンカっていうか......、ふふっ」
長谷川コーチは現役時代、広島球団創設1年目からエースとして活躍し、通算197勝。身長167センチで[小さな大投手]と呼ばれ、監督も務めた。それだけの指導者と衝突した経験があり、その思い出を笑いながら話すあたり、人間としてのスケールの大きさを感じる。5分ほど歩いて商店街の通りを抜け、お知り合いが営む喫茶店に到着した。
金城さんと同年代とおぼしきマスターは意外にも「巨人ファン」で、取材で来たことは承知していて、席に着くなり「今回、広島が100年ぶりのアレやから?」と言われて笑うしかなかった。もちろん大阪にも巨人ファンはいるわけだが、こんな冗談を言う巨人ファンは東京にはいなさそうだ。
ともかく、巨人の話題が出て話の取っ掛かりがつかめた。金城さんが一軍で結果を出し始めた72年は、V9時代の真っ只中。逆に広島は同年から3年連続最下位。巨人というチームは、まだライバルではなかっただろう。
「全然、ライバルじゃない。ヤクルトがライバル。だから神宮に行ったらね、3連戦の1戦目、2戦目は険悪なんですよ、お互いに。5位6位争いやから。で、3試合目になったら最後、7回ぐらいからね、応援団がエール交換するんです。『また頑張って会おうぜ〜』『あんまり上に行くなよ〜』言うて」
奇しくも、前年(2015年)優勝チームのヤクルトと、今年(16年)優勝チームの広島の話だから感慨深い。応援団といっても、当時は外野席ではなく内野席で小規模に形成されていたから、それはそれはささやかなエール交換だったのだろう。
「カープは僕らの頃、ほんまに田舎球団でしたからね。お金がなかったし、最初は球場もなかったし、練習グラウンドもなかったから、球団ができて25年間も優勝できなかった。ピッチャーだけは常に四本柱っていうのがあったから、5月まで、鯉のぼりの季節までは持つけど、打力が弱かったから」
事実とはいえ、自身が育った球団に関して、卑下するように語る。そんな金城さんにとって、プロ野球とは憧れの世界だったのだろうか。
「いや、憧れはないです。そのへんの畑で三角ベースやってるうちに好きになっただけで。クラブでもやったことないし、本格的にやったのは中学校から。しかも僕は鈍くさくて守備が下手だったから、弱い学校なのに補欠でね。ほかに誰もやらないキャッチャーでやっとレギュラーになれたんです」
それでも、此花商高入学に際しては、野球部監督の前でキャッチボールを何球か行ない、バットを数回振っただけで合格したという。
「でも、軽い気持ちで、ええ加減な感じでやってました。野球は好きで、うちの親父も好きでしたけど、途中で『お金かかるからやめてくれ』って言われてね。先のことは特に考えてなかった。だいたい無名校の無名選手やし、夏の大阪大会も一回戦で負けてるし。それで親には『どこでもええから大学は出とけ』と言われていて、プロなんて考えようもなかったわけですよ」
無名校の選手でも、法政大への進学が決まりかけていた。中学時代と同様、当時の松永怜一監督の前で投球を披露する機会を得ると、それだけで即ベンチ入りが期待されるほどだった。ご本人が謙遜し続けているだけで、潜在能力は相当に高かったのだろう。
「入れると思ってないのに『本当に来るなら獲るよ』と監督に言われて、もう有頂天ですよね。それがどうなってカープに入ることになったのか、全然わからんけど。ふふっ」
いたずらっぽい笑みが浮かんだ。じつは、プロ12球団のスカウトが金城さんに視線を送っていた。いちばん熱心なのはヤクルトだったが、ドラフトで指名したのは広島だった。しかし法政大しか頭になかった金城さん。「断っておいて」と父親に言ったのだが、息子に向かって父親はこう言って諭(さと)した。
「そんな失礼なことをしたらあかん。断るんやったら、相手の顔を見て、自分の口でまず謝れ。それでおまえが自分で断ってこい」
断りを入れる相手は、「スカウトの神様」と呼ばれた木庭教(きにわ さとし)スカウト。断るためだけに会うはずが、面会は一度で終わらなかった。木庭スカウトはこんなふうに口説いた。
「大学に行ってどないすんの?」
「大学行っとかんと。別に、大学行ってどないするわけでもないけど」
「大学に行って、プロ行くんやろ?」
「僕は別に行きませんよ」
「いやいや、十分できるから。もしプロを考えるんやったら、バッターなら大学で4年間やったらいい。野手ではなかなかすぐに出られんから。でもピッチャーは消耗品やから、4年間、毎日、投げさせられて、肩壊したらどうにもならんぞ。プロ入ったほうがええ」
「プロ入って、できるんですか?」
いつの間にか、名スカウトの話術でその気にさせられていた。金城さんは言う。
「うまいですよね、そのへんが。『もう行きません』『わかった』って言いながら、また電話かかってきて『時間あるか?』って。何回、会ったか、わからないですね」
評価がそこまで高かったのは、ボールの威力が飛び抜けていたからなのだろうか。
「それが面白いんです。後で聞いたらね、『ピッチャーでもまあまあやと思っとったんやけど、本当はバッターやった』って。『1年間、好きにやらして、本人が納得したらバッターに変わるやろう』って。実際、自分でもバッティング、好きでした。そっちのほうが自信あったかもわからんですね」
日本ハム(当時)の大谷翔平がDHから抑えに成り変わり、165キロを出したのが3日前(2016年10月16日)。全盛期の速球は150キロを超えていたといわれる金城さんがもしも"二刀流"だったら、などと瞬間的に妄想したのも束の間、肝心の取材テーマから離れていることに気づく。その独特のアンダースローのフォームは、高校時代が原点だったのか。
「高校2年生のとき。3年生が抜けて、ピッチャーをやるようになってからですね。投げとって、ストライク入らない。球速いんですけど。そしたら監督に言われてね」
監督は「ちょっと腕下げてみい」と言った。当初、感覚としてはスリークォーターだった。が、気がついたら下手投げになっていて、手が地面に着くほどだったという。では、腕を下げることによって、ストライクが入るようになったのだろうか。
「いや、それでも入らなかった。要はストライク取りにいって、撫(な)でるように投げてた。で、最後、うまいこといかんからイライラして、思いっ切り投げたんです。そしたら、その球がバシッと決まった。え? 思い切り投げたらええんかと。それから入るようになって。プロでもそんなにコントロールよくなかったけど、ストライクはいつでも取れるピッチャーになりましたね」
それにつけても不思議なのは、金城さん自身、自然に下から投げるようになっただけで、アンダースローという感覚がなかったということだ。何しろ、自身が投げる姿を初めて映像で見たとき、「誰や? これ」とびっくりしたというのだから。
「本格的にアンダースローを意識したのはプロ入ってすぐ、監督の根本さんが、杉浦さんのフォームの分解写真を持ってきてくれてからです。新聞社に頼んでくれたらしくて、『これを見て勉強せえ』と。それまでまともに野球やってなくて、自己流でしたから、実際、写真はよう見とったんです」
就任1年目の68年、広島を球団初のAクラスに押し上げた根本陸夫監督。のちに実質GMとして西武、ダイエー(現・ソフトバンク)の黄金期を築いた手腕で知られるが、それ以前、広島初優勝の礎(いしずえ)を作ったといわれる。その監督が参考にさせたのが、同じアンダースローで南海の大エース、杉浦忠のフォームだったとはゾクゾクさせられる。
というのも、通算284勝を挙げたアンダースローの山田久志(元・阪急)も、杉浦の分解写真を見て参考にしたことを過去のインタビュー記事で語っているからだ。

アンダースローになった経緯を語る取材当時の金城さん
特に手本になったのが手首の使い方だそうで、他のほとんどのアンダーハンドと違って、テークバックで手首を立てていることに注目。そのほうがリストも効いてスピードも出るので山田も立てたというが、同じように手首を使うアンダーハンドとして、唯一、金城さんの名前を挙げている。山田はこう評していた。
「彼は珍しく腕が主導なんです。普通、アンダーハンドは左サイドで隠しながら体をもぐらせるのに、彼は隠すより先に右手を思い切り引き上げてそこから投げにいく。あんな投げ方ができるのは、まず肩、ヒジの関節が異常なほどに柔らかくて、可動範囲が広いから。
だって普通ね、あそこまで肩や腕が後ろに行くはずがないし、行かす必要もない。でもそれができる体があったから普通じゃマネできない投げ方ができた」
この評価を伝えると、「えっ、山田さんが?」と反応した金城さんだったが、特別な興味は示していないようだった。
「ちょっと他の人には真似できん投げ方やから、印象には残ったと思う。あれだけ腕を高く上げて、真っすぐ伸ばして投げるフォームというのは。ただ、僕が大事にしたのは、木庭さんから言われたこと。『お前は球を長く持てる。相手バッターから手元が見にくい。これは教えてもでけへんことやから、これはいけるんちゃうかと思った』ってね」
(後編につづく>>)
※引用文献 『野球小僧』2011年8月号〈山田久志から見た新旧アンダースロー〉