プロレスラーの谷津嘉章が、義足レスラーとして来月6日に再デビュー戦を行なう。 谷津は1976年モントリオール五輪にレスリング・フリースタイル日本代表で出場、続く1980年のモスクワ五輪も代表に選ばれていたが、日本が不参加であったため出場は…
プロレスラーの谷津嘉章が、義足レスラーとして来月6日に再デビュー戦を行なう。
谷津は1976年モントリオール五輪にレスリング・フリースタイル日本代表で出場、続く1980年のモスクワ五輪も代表に選ばれていたが、日本が不参加であったため出場は叶わず、当時「幻の金メダリスト」と呼ばれた。
五輪をあきらめた谷津は、1980年に新日本プロレスに入団。同年12月29日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてデビューという破格の待遇を受ける。翌81年6月24日の蔵前国技館にて、アントニオ猪木とタッグを組みスタン・ハンセン&アブドーラ・ザ・ブッチャーを相手に国内デビューも果たした。
その後、ジャパンプロレスを経て、全日本プロレスに移籍後はジャンボ鶴田と「五輪コンビ」として人気を博した。その後はSWS、WJプロレスなど様々な団体を渡り歩き2010年に引退。
2019年6月に糖尿病の合併症により右ヒザ下を切断。しかし、プロレスへの想いは断ち切れず、64歳にして"復帰"ではなくマット史に類を見ない義足レスラーとしての"再デビュー"をすることになった。
前編では過去の激闘を振り返ったが、後編では義足レスラーとしての今後の展望、そしてさらにその後のビッグプランについて明かした。
1985年、ジャパンプロレス時代の谷津嘉章 photo by 平工幸雄/アフロ
約40年ぶりの再デビュー戦への想い
「日本でのデビュー戦が、1981年6月24日の蔵前国技館ですから、次の6月6日の義足レスラーとしての試合は約40年ぶりに再デビュー戦を行なう気持ちです」
1980年に新日本プロレスに入団をした谷津は、まずはアメリカでデビュー。翌81年6月24日にアントニオ猪木とタッグを組み、スタン・ハンセン&アブドーラ・ザ・ブッチャーという強力外国人タッグを相手に流血のデビュー戦を果たした。
「新型コロナウイルスの感染拡大がなければ、昨年再デビューをする予定でした。延期になってしまったことは歯がゆい気持ちでしたが、悪いことばかりではありませんでした。延期の1年分、義足がさらに進化をしたからです。義足を開発されている川村義肢株式会社さんの熱心な研究もあり、さらに性能が向上しています」
義足レスラーにとって、体を鍛えることと同様に、義足の技術向上は自身のパフォーマンスに直結をする。
「再デビュー戦は自分だけでなく、義足の開発研究に携わっていらっしゃる皆様の想いも背負って戦いたいです」
DDTの懐の深さと前例を作る重要性
再デビューに向けて想いを馳せるのは義足開発会社だけではない。
「川村義肢株式会社さんの他にやはり感謝を申し上げたいのは、再デビュー戦を行なわせて頂くDDTです。"義足レスラーの試合"という歴史上前例のないことですので、普通はリスクを計算して断られてしまうこともあると思います。義足を履いている自分のケガのリスクや、義足による攻撃力が未知数のため、相手のレスラーも予期せぬケガをしてしまうリスクがあるためです」
万全の準備をしたとしても前例のないことはリスクを計算し尽くせないケースもある。そんなリスクを背負ってでも再デビュー戦を組んだDDTに対して感謝とリスペクトを語った。
「ニュースなどを見ていても前例がないからやりませんという話はよく聞きます。しかし、誰かがやらないと前例は生まれません。そんな前例を自分が作ることで、谷津がやってるんだったら自分も!と後に続く誰かが出やすくなればいいなと思います。前例がないならば作ればいいんです」
パラリンピックの種目にレスリングを。狙うは金メダル
前例のないことに挑む谷津はさらなるビッグプランがあることを打ち明けた。
「義足レスラーとしてしっかりとプロレスをすることが今の目標ですが、その次の目標もあるんです。それはレスリングをパラリンピック種目にすることです。レスリングはハードコンタクトなので、パラリンピック種目にするためにハードルが高いことは想像がつきます。しかし、だからこそチャレンジをする意味があるのかなと。そしてそのチャレンジをするのは、元五輪選手であり義足である自分しかいないのではないのかと思うんです」
義足になっても大きな夢を持ち続ける姿勢は、まさに『義足の青春』という自身のYouTubeチャンネルのタイトルそのものであった。
「後輩の馳(浩)先生※にもご協力頂いたりして、持てる力を尽くせばパラリンピック種目の実現はあるかもしれません。そして、パラリンピック種目になった最初の大会で谷津が金メダルを獲れば夢がありますよね?1976年のモントリオール五輪では獲得できず、1980年のモスクワ五輪は幻となってしまった谷津が、何十年以上の時を超えてパラリンピックで金メダルを獲ったぞ!となれば、世界の誰かの背中を押すことができるのかなと思います」
※自由民主党所属の衆議院議員。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問会議の顧問。ロサンゼルスオリンピックにレスリング日本代表として出場。1985年にジャパンプロレス入団し、翌86年にデビュー。06年に引退後するも17年に復帰、今もスポット参戦をしている。
「五輪を目指していた自分は、今も目標を作ってそれに向けて動くようにしています。逆に目標がないと動けないんですよ」
義足での再デビューという高いハードルのその先に、さらに大きな目標を掲げるのはアスリート精神がそうさせる。
「パラリンピックでの金メダルを果たすためにも、義足レスラーとしてしっかりとデビュー戦で活躍しないといけないんです。今はそこに全力で集中しています。デビュー戦はバトルロワイアル形式ですが、やはり最終的にはシングルマッチで戦いたいと思っています。義足を使ったプロレスというのは、今まで誰も見たことのない戦い方ですので、不安もありますがワクワクが大きいです」
幻のモスクワ五輪から41年。谷津は3月末に聖火ランナーを務めることになり、これは新型コロナウイルス感染拡大でまたも幻となりかけたが、無事に走ることが叶った。何かとオリンピックイヤーと縁がある谷津嘉章から、今年は特に目が離せない。
谷津 嘉章(やつ よしあき)
1956年7月19日生まれ。群馬県明和町出身。日大時代からレスリングで名を上げ、76年モントリオール五輪に出場。80年モスクワ五輪では金メダル候補とされたが、日本が参加をボイコット。同年に新日本プロレスへ入団し、12月ニューヨークにてデビュー。新日本、全日本のメジャー団体からインディ団体まで幅広く参戦し活躍。総合格闘技のPRIDEにも参戦した。2010年11月に引退。2019年6月に糖尿病の合併症により右ヒザ下を切断した。