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異能がサッカーを面白くする(最終回)~飛び出すGK編
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 サッカーのユニフォームには流行がある。たとえばサッカーパンツ。かつてはずいぶん短かった。しかしその一方で、"ロンパン"と言われる丈の長いサイズのものもあって、学生服のボンタンに通じる、ツッパリ系の選手が好んで使用していた印象がある。それが現在では標準的な丈との位置づけになっている。当時のロンパンが、その後の一般的な寸法になり、市民権を得ようとは、想像だにしなかった。

 GKのパンツはそれ以上の変わりようだ。かつては長ズボンスタイルのGKを普通に見かけたものだ。それがあるときから激減。フットサルではいまなお見かけるものの、フルコートの11人制では、よほど冷え込まない限り、GKも短パンで年間を通そうとする。

 だが、さらにその昔は短パンだった。筆者の子供時代の話になるが、それがあるときから、長ズボンスタイルが目立つようになった。当時、定期的に放送される唯一の海外サッカー番組だった『ダイヤモンドサッカー』を通して見る、欧州サッカーの影響が大きかったものと思われる。



1987年から99年までコロンビア代表のGKを務めたレネ・イギータ

 たとえば、1974年西ドイツW杯で準優勝したオランダのGKヤン・ヨングブルート。

 大男揃いの長身国として知られるオランダにあって、身長179センチというけっして高くない上背に、目がいった。スウェット風の長ズボンをはいてプレーすることもしばしばで、そのリラックス感を漂わせる独得の風貌に斬新さを覚えたものだ。

 ペナルティエリアの外に飛び出し、フィールドプレーヤー然とリベロのように構えるそのプレーも、異彩を放っていた。フットワークの軽いGK。よく言えばそうなるが、せわしないというか、ドシッと構えず、慌てふためきながらプレーすることになるので、その長ズボン姿でのプレーは必要以上に危なっかしく映るのだった。

 だが、思わず懐疑的になるこのヨングブルートの動きには、リヌス・ミヘルス(当時のオランダ代表監督)が唱える革新的サッカー=トータルフットボールのコンセプトが集約されていた。

 後にプレッシングフットボールを提唱したアリゴ・サッキに「それが登場する前と後でサッカーの価値観は180度変わった」と言わしめた「サッカー界最大の発明」として、サッカー史に記されたトータルフットボール。GKヨングブルートはその象徴的な存在と言えた。

 トータルフットボールの進化形とも言われるプレッシングサッカーをひっさげて、アリゴ・サッキが来日したのは、西ドイツW杯の15年後。1989年末のトヨタカップだった。アリゴ・サッキ率いるミランのトヨタカップ(現在のクラブワールドカップ)の相手は、コロンビアのアトレティコ・ナシオナルだ。

 戦前の予想ではマルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトらを擁するミラン有利が圧倒的だったが、試合は延長にもつれ込む大接戦となった。

 そこで存在感を最大限に発揮したのは身長176センチ、長ズボンをはいたナシオナルのGKレネ・イギータだった。前回のこの欄(「イニエスタをさらに多彩にしたコロンビアの怪人。敵ボールは奪わない」)で触れた、同じコロンビア人選手のカルロス・バルデラマ同様、1度見たら忘れない異様なヘアスタイルに加え、前出のヨングブルートを凌ぐ広範囲な動きに特徴があった。

 ミランのエース、ファン・バステンがペナルティエリア外でボールを保持している際にも、その足元に食らいついていくなど、超然としたプレーを随所に発揮。試合は延長後半13分、交代で入った伏兵アルベリゴ・エバーニのFKで、ミランが辛勝したが、国立競技場を埋めた日本人ファンの目をさらったのは、敗者であるナシオナルのGKだった。

 イギータは、翌1990年のイタリアW杯にバルデラマとともにコロンビア代表として出場。グループリーグを通過すると、決勝トーナメント1回戦でカメルーンと対戦した。   

 試合は0-0のまま延長戦に突入。その後半1分、カメルーンのエース、ロジェ・ミラに先制弾を許し、0-1の状況だった。そこで事件は起きた。先制弾の2分後、ペネルティエリアを飛び出し、ドリブルで攻め上がろうとしたイギータ。そこに驚異の38歳と言われたロジェ・ミラが襲いかかったのだ。

◆レアルで先発抜擢、ミス連発、お払い箱...第2GKという生き方

 イギータ対ロジェ・ミラ。この野性味溢れる対決を制したのは後者で、その結果、0-2としたカメルーンは、勝利に大きく前進した。しかしその後、コロンビアはバルデラマの鮮やかなラストパスが決まり1-2に迫る。残り10分強。試合は緊迫を保ったままタイムアップを迎えたが、カメルーンらしさ、コロンビアらしさが発揮された、隠れた好試合と言えた。

 筆者は、前回のこの欄で、何度となくコパ・アメリカの取材に通った動機として、バルデラマ見たさを理由に挙げたが、イギータ見たさもそのひとつだった。だが、1993年のコパ・アメリカ(エクアドル大会)では、そんなイギータの前に強烈なライバルが現れた。

 コロンビアは準決勝で、アルゼンチンに0-0から延長PK負け。イギータを凌ぐ異端のGKは、そのアルゼンチンと決勝で対戦したメキシコにいた。

 ホルヘ・カンポスだ。メキシコは世界においては日本と並ぶ低身長国。それでいながら毎度好チームを編成。W杯では日本の上をゆく成績を収めている。日本にとって目標とすべき国になるが、メヒア・バロン監督率いる1993年のメキシコは、中でも秀逸な、美しいパスワークが光るチームだった。

 1-1で迎えた後半29分、ディエゴ・シメオネが狡賢いプレーで獲得したスローインを、ガブリエル・バティストゥータが蹴り込み、アルゼンチンが2-1で勝利した決勝戦だったが、そこからのラスト15分強は、見応えがあった。理由は、GKカンポスが持ち場を離れ、ほぼFWの位置でプレーしたことにある。

 通常、GKが相手ゴール前に上がるのはラスト数分という段で得たCK等のセットプレーで、それが終了すれば、自軍のゴールに戻るものだ。だが、カンポスの上背は168センチ。その分、ロジェ・ミラにボールを奪われたイギータとは比較にならないほど、足技が巧かった。

 できれば夜道ですれ違いたくない風貌をしていたイギータに対し、カンポスは短パン姿がよく似合う、少年のような爽やか系。フィールドプレーヤーに負けない足技を備えていたので、エンタメ的にも申し分ない選手だった。

 カンポスはGKとしてではなく、最初からFWとして出場した記録も残されている。メキシコ代表キャップは130。これはGKとして同国最多の数字になる。メキシコサッカー史に名を刻む小柄な名GKだ。

 翌1994年も、筆者は風変わりなGKを目撃している。バルセロナの2人のGKだ。カルレス・ブスケツとフレン・ロペテギ。このシーズン、バルサはそれまで正GKを務めていたスペイン代表のアンドニ・スビサレッタがバレンシアへ移籍。その下でセカンドGKを務めたブスケツと、このシーズンからバルサ入りしたロペテギが正GKを争うことになった。

 ユニフォームはともにスウェット風の長ズボンだった。一見、ヨレヨレというかダボダボで、バルサという一流クラブに相応しくない姿に見えた。プレースタイルも似ていた。カンポス的というかイギータ的というか、サッカーのスタイルを考えると、ヨングブルートにも似ていた。

 正確に言うならば、この2人のプレーを見て、ヨングブルートを想起した格好だ。ペネルティエリアを飛び出し、フィールドプレーヤー然と構える姿。仕事量が多いために、あたふたしながらプレーする姿。そして時に、普通のGKはしそうもないミスを犯す姿は、すべて一段高いレベルのサッカーを目指そうとするが故の産物だった。ヨハン・クライフ(当時の監督)が、トータルフットボールを意識させるために、2人に敢えてヨングブルート的なプレーを要求したのである。

 バルサのサッカーはその結果、常に不安定だった。しかし、そこに余裕というか、独得の美学が鮮明に浮き彫りになるのだった。クライフは、その翌シーズン、バルサの監督を途中で解任された。だが、筆者には、この2人のGKがゴールを守った1994-95及び1995-96シーズンのサッカーが、バルサ史において最も記憶に残っている。

 高いバックラインを維持し、その背後をリベロ然としたGKがカバーしたサッカー。その不安定な今日性は、いまなお称賛したくなるのだった。