ホンダF1名車列伝(7)トロロッソSTR13(2018年) 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)…

ホンダF1名車列伝(7)
トロロッソSTR13(2018年)

 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)、パワーユニットのサプライヤーとして復帰した第4期(2015年〜)。どの時代にも、ホンダの冠を乗せた名車があった。2021年シーズン限りでホンダがF1から撤退する今、思い出に残る「ホンダらしい」マシンを紹介していく。

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ホンダとのコンビで急成長を遂げたトロロッソSTR13

 2015年にF1に復帰したホンダの第4期F1活動は、苦難の連続だった。

 名門マクラーレンとタッグを組み、往年の「マクラーレン・ホンダ黄金期」の再現を目指したものの、プロジェクトは難航した。その原因はマクラーレンとホンダの双方にあったが、巧みな印象操作によってその責任はすべてホンダに押しつけられ、ホンダの名声は地に落ちたと言っていいほどズタズタに傷つけられた。

 初年度は"サイズゼロ"というコンセプトに沿って作られたがために、ターボとMGU-H(※)からのエネルギー回生量が乏しく、その点でパワーユニット規定2年目に大きく進化してきたライバルメーカーに後れを取った。日本GPでフェルナンド・アロンソがトロロッソに抜かれて「GP2エンジン!」と叫んだのは、まさにそのディプロイメントが切れた瞬間だった。

※MGU-H=Motor Generator Unit-Heatの略。排気ガスから熱エネルギーを回生する装置。

 当初の計画よりも1年早く参戦することになり、極めて短い時間で開発しなければならなかった。それによって信頼性面で苦しんだことや、2008年以降F1から完全に離れていたためにF1界の最新の"常識"に疎く、その学習に予想以上に時間を要したことも苦戦の原因だった。

 しかし、空力最優先のために"サイズゼロ"のコンセプトを採用したにもかかわらず、肝心の空力性能が乏しかったこともまた事実だった。アロンソにGP2エンジンと言われた鈴鹿のコーナーセクションでも、マクラーレンMP4-30は最速だったわけではない。

 そこからの3年間で、マクラーレンとホンダの関係はさらに悪化していった。

 技術面では双方のエンジニアたちが力を合わせ、英国ウォーキングとHRD Sakuraを行き来して改善努力を続けていた。だが、マクラーレンの経営を任された「雇われ首脳陣」たちは保身のためにこれ以上の成績低迷を許容できず、2017年のシーズン序盤にはすべてをホンダのせいにして関係を断つべく動き始めた。

 ホンダはマクラーレンと独占供給契約を結んでおり、レッドブルやトロロッソとの供給交渉を進めたことはあったものの、ロン・デニス代表の強い反対にあって2チーム目の供給は頓挫していた。そのため、マクラーレンに捨てられれば供給先がなくなり、F1からの撤退を余儀なくされる。

 そして、7月のイギリスGPでマクラーレンとの決裂は決定的となる。サマーブレイクの頃にはそんな危機的状況に直面していた。

 そんななか、ホンダとタッグを組むことを選んでくれたのが、トロロッソだった。

 もちろんその背景には、頂点に返り咲くためにパワーユニットのワークス供給を望むレッドブルの意向があり、その先遣隊としてトロロッソが抜擢されたことは言うまでもない。しかし当時、パワーも信頼性もないと酷評されたホンダにスイッチすることを受け入れるのは、相当な覚悟を伴うことだった。

 9月に入ってからの数週間で、マクラーレン、トロロッソ、ルノー、FIA(国際自動車連盟)とFOM(フォーミュラ・ワン・マネジメント)が協議し、マクラーレンとトロロッソの間でのパワーユニット交換が決まった。

 これによって、ホンダはF1撤退の危機を脱する。

 ホンダは、総責任者が開発と現場の両方を統括するという体制を改め、開発責任者には第2期F1活動に携わった浅木泰昭、そして現場責任者であるテクニカルディレクターには第2期・第3期を経験してきた田辺豊治を呼び戻し、2018年シーズンに挑むことを決めた。

 こうして生まれたのが、2018年型マシンのトロロッソSTR13だった。

 9月というかなり遅い時期までパワーユニット決定がずれ込んだため、トロロッソは当初計画していたルノー製からホンダRA618H搭載のための設計変更を強いられた。そのため、まずはパワーユニット変更に対応することをマシン開発の主眼とし、マシン前半部分はそのままに、後半部分のモノコック変更や冷却レイアウト変更に集中した。

 一方的に完成品のパワーユニットを供給されるカスタマーとは違い、ワークス供給は車体側の要求とパワーユニット側の要求を擦り合わせながらマシンパッケージを開発していく。そのメリットを最大限に生かし、スリムでコンパクトなリアエンドを実現した。長きにわたって予算に制約のあるなかでマシン開発を続けてきた中堅チームのトロロッソらしく、堅実かつ効率的なマシン開発が功を奏した。

 トロロッソのフランツ・トスト代表は、1998年にフォーミュラ・ニッポンに参戦したラルフ・シューマッハのマネジャーとして来日。日本で1年間を過ごし、日本の文化や企業文化をよく知る人物だ。

 その彼とともに働くチームスタッフは、全員が文化講習を受けて日本人との付き合い方を学ぶという歓迎姿勢をとった。ヨーロッパと大きく異なる日本人の考え方や行動様式を知ることが、このプロジェクトをスムーズに進めるためには必要不可欠だということを、トスト代表が熟知していたからだ。

 ホンダも浅木のもと、目先のアップデートではなく、地に足をつけた開発アプローチへと切り替えた。2017年型をベースに信頼性確保を最優先としたRA618Hを作り上げ、トロロッソが開幕前テストをしっかりと進められることを最優先とした。

 最大の課題であったMGU-Hの設計刷新に手間取って開幕戦には間に合わなかったが、第2戦のバーレーンGPに投入すると、トロロッソ・ホンダSTR13はいきなり快走を見せた。

 フル参戦初年度のピエール・ガスリーが中団グループ最上位の予選6位、そして決勝でも中団トップを堅守して4位でフィニッシュ。トロロッソにとっても滅多にない会心のレースであっただけでなく、過去3年間の不振と批判でボロボロになったホンダにとっても、再び自信と誇りを取り戻すきっかけとなる鮮烈なレースとなった。

 トロロッソのメカニックたちは我を忘れて飛び合って喜び、その輪の中にホンダのスタッフたちもいた。開幕戦で5位に入賞してホンダへの当てつけのように「これで僕らは戦える」と言ったフェルナンド・アロンソ(マクラーレン・ルノー)の言葉に反論するように、ガスリーはアロンソよりもひとつ上のポジションでフィニッシュして、「Now we can fight!」とまったく同じ言葉を叫んでみせた。

 ホンダにとってトロロッソは救世主となり、トロロッソにとってもガスリーにとってもホンダが救世主となった。両者の相思相愛はここに始まり、2019年ブラジルGPの2位表彰台、そして2020年イタリアGPの初優勝へとつながっていく。

 ホンダの八郷隆弘社長が2021年かぎりでの撤退を表明する際、最も記憶に残るレースは「2020年イタリアGPだ」と語ったのは、窮地を救ってくれたトロロッソへの感謝の思いがあったからだ。

 2019年の豪雨のドイツGPでレッドブルのマックス・フェルスタッペンが優勝した際、「ダニール・クビアト(トロロッソ)が表彰台に立ってくれたことのほうがうれしい」と田辺テクニカルディレクターが吐露したのも、ホンダを救ってくれたトロロッソに恩返しができたという思いがあったからだ。

 2020年イタリアGPで、アルファタウリのマシンのサイドポッドに「ホンダとトロロッソのタッグ50戦目」を記念した巨大なロゴを貼り、山本雅史マネージングディレクターとトスト代表がその前で記念撮影をしたのも、トロロッソ改めアルファタウリからも大きな感謝の思いがあったからだ。

 保留となっていた2018年型トロロッソSTR13のマシン前半部分の開発は、シーズン中も意欲的に進められた。トロロッソは、途中で開発が停滞して順位が下がっていくそれまでのシーズンとは見違えるような活躍を終盤まで見せた。

 そしてホンダも、シーズン終盤戦には"スペック3"と呼ばれる改良型へと進化。これが2020年末まで戦う燃焼コンセプトとなった。ホンダが進化するために、トロロッソはグリッド降格ペナルティを受け入れて導入し、翌年に向けた実戦テストの役割を担った。

 まさに二人三脚、相思相愛の関係が、ホンダに自信を取り戻させ、未来をくれた。

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 ホンダにとって「2018年」は大きなターニングポイントとなり、その後のレッドブルとのF1の頂点を争う舞台へとつながる重要なシーズンとなった。F1参戦最後のシーズンである2021年を迎えることができたのも、そしておそらくは最後のシーズンにチャンピオンを争うことができるのも、すべてはこのトロロッソと過ごした2018年があったからにほかならない。

 ホンダのF1活動がどのような結末を迎えようとも、その事実は永遠に変わることはないのだ。

(おわり)