ホンダF1名車列伝(6)ホンダRA107(2007年) 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)、パ…

ホンダF1名車列伝(6)
ホンダRA107(2007年)

 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)、パワーユニットのサプライヤーとして復帰した第4期(2015年〜)。どの時代にも、ホンダの冠を乗せた名車があった。2021年シーズン限りでホンダがF1から撤退する今、思い出に残る「ホンダらしい」マシンを紹介していく。

「ホンダF1名車列伝(1)」はこちら>>



ジェンソン・バトンがドライブするホンダRA107

 2007年のホンダRA107は、混迷を極めたホンダの第3期F1活動のなかで最もホンダらしいマシンだったと言うと、驚かれるかもしれない。

 しかし、第1期F1活動がそうであったように、失敗を恐れず果敢に挑戦し、愚直なまでに勝利を探究するチャレンジスピリットこそがホンダらしさなのだとしたら、RA107はまさしくそういうマシンだった。

 第3期のF1活動は、フルコンストラクターとしての参戦計画が白紙撤回され、B・A・Rへのエンジン供給と車体共同開発というスタート地点になり、株式の45%取得によるB・A・Rホンダへの移行、そして2006年には完全にホンダとなった。

 しかし、その実体は元レイナードのB・A・RのままであるブラックリーのHRF1(ホンダ・レーシングF1チーム)であり、それとホンダ本社、ホンダの開発部隊である栃木研究所、ホンダの現地拠点HRDといったように、それぞれの間に微妙な溝があった。1999年に思い描いていたフルコンストラクターとしての参戦とは、大きく隔たりのあるものとなってしまっていた。

 B・A・R時代からポジションは、トップチームの背後にはいた。今のF1でいえば、中団グループトップのマクラーレンやレーシングポイントと同等か、それ以上の存在だった。度々表彰台に立ち、とくに2004年には勝利寸前までいった。

 しかし、勝利には手が届かなかった。

 テクニカルディレクターのジェフ・ウィリスを筆頭とした当時のB・A・Rホンダは、「失敗しないこと」を最優先とした守りの組織になってしまっていた。せっかく速さの片鱗があっても、リスクを背負ってそれを勝てるレベルにまで磨き上げることができなかった。だから、勝利のために極限まで攻めているライバルに勝つことはできなかったのだ。

 フルワークス復帰初年度の2006年は、ハンガリーGPで1勝を挙げた。しかし、これは天候の変動によるところが大きく、マシンもB・A・Rホンダ時代に作りあげられたものでしかなかった。

 しかし2007年に向けたマシン作りでは、シニアテクニカルディレクターに就任した中本修平が組織改革に乗り出す。失敗を恐れる保守的な管理職は解雇し、下っ端の人間でも自由に意見を言える闊達な組織作りを徹底した。

 まさにこれはホンダの「ワイガヤ(※)」精神であり、第1期や第2期に自由な発想で革新を生みだし、時代を席巻した原動力だった。

※ホンダが大切にしてきたコミュニケーション方法。語源となっている「ワイワイガヤガヤ」と集団で議論を重ねることにより、物事の本質に深くアプローチして高い価値やイノベーションを生み出す。

「ホンダは挑戦者ですから、失うものは何もありません。もし仮に今、ランキング最下位になったとしても構わないんです。そうなってしまったら、その原因を分析して来年もっといいクルマを作ればいいんです。でも最初から4、5位狙いだけはするなと。それを何年作っていても、決してトップにはなれませんから」(中本シニアテクニカルディレクター)

 こうして作りあげられたRA107は、徹底的に空力性能を優先し、極めてスリムなノーズにサイドポッド後方が極端に低くコンパクトに落とし込まれ、まさしく今のF1でトレンドとなっている手法を他に先駆けて採り入れていた。

 空力を追究するということは、マシンの姿勢変化に過敏なマシンとなってしまうリスクもはらむ。しかし、その領域まで攻めていかなければ、勝てるマシンはできない。

 RA107はそのリスクを承知のうえで「攻めたマシン」だった。若いエンジニアの意見まで分け隔てなく採り入れ、中低速域でのダウンフォース増大を狙い、ホンダがホンダらしく挑戦した。まさにホンダらしいチャレンジスピリットの体現だった。

 その結果、RA107はブレーキング時に突然ダウンフォースが抜けてひどく過敏な挙動を示すマシンとなった。その問題解決にはかなりの時間を要し、それを抑え込むためにリアウイングを立てざるを得ず、ストレートで多くのタイムを失った。

 RA107はフルスケールの風洞を導入して開発された。だが、風洞と実走の誤差を埋め切れず、実走でマシンの姿勢が変わった時のダウンフォース発生量推移が、想定にも増して急激すぎた。

 前年に勝利を挙げ、ドライバーとして脂の乗りきった時期だったジェンソン・バトンは、このマシンに手を焼いた。ブレーキング時にマシンを安定させるためにリアにダウンフォースを乗せると、アンダーステアがひどくターンインしていけない。コーナーで車速が落ちるから、立ち上がりではリアが滑ってオーバーステアが出る。

 ベテランのルーベンス・バリチェロはリアを安定させたマシンでまずまずの走りを見せた。だが、バトンのようにスムーズなドライビングながら一発の速さも追求しようとすると、RA107の挙動ではどうにもならなかった。

 2006年かぎりでのタバコ企業の広告自主規制を受けて大スポンサー不在となったホンダは、「Earth Dreams」という名を冠してマシン全体に地球を描くという大胆なカラーリングを施した。環境問題への配慮はすばらしい取り組みだが、BATに代わるスポンサーを見つけられなかったがための苦肉の策であることは明らかで、奇抜すぎるカラーリングをまとったRA107はそのコース上での成績とあいまって、完全に"失敗作"の烙印を押されてしまった。

 だが、中本シニアテクニカルディレクターが語っていたように、失敗を恐れず挑戦するのがホンダだ。

 果敢に挑戦し、失敗し、その失敗から学んで革新的な技術を捻り出す。それが第1期、そして第2期のホンダが実践し、成功を収めてきた道のりだった。

 第3期のホンダは、2000年の復帰からホンダらしくない組織で、ホンダらしくない戦いを続けてきた。一部の人たちが必死にもがいていただけで、そこにホンダらしいチャレンジスピリットは浸透していなかった。

 しかし2006年にフルワークスとなり、2007年にようやくホンダらしい挑戦のマシン作りを始めた。ある意味で純然たる第3期ホンダのデビュー作がRA107であり、それが失敗をしたからといって、すべてを否定する必要などない。失敗から学び、さらなる挑戦と成功へと結びつければよかった。ホンダの戦い方は、そういうものだ。

 RA107が失敗作に終わったことで、ホンダは翌2008年を移行の年とし、2009年に導入される新レギュレーションに向けた開発にリソースを集中することを決めた。そこから生まれたのが、ブラウンGP BGP001としてチャンピオンに輝くことになるマシンだ。

 ここにはブラックリーと栃木の技術者たちの自由闊達な発想が詰め込まれていた。

 ベンチ上で高い性能を示していたRA809Eエンジンがサーキットを走ることはなかったが、RA109と呼ばれるはずだったマシンは圧倒的な速さを見せ、ダブルディフューザーをはじめとする革新的なアイデアの正しさを証明してみせた。2007年の大改革と挑戦と失敗がなければ、この成功が生まれなかった可能性は高い。

 当時LPL(ラージプロジェクトリーダー)として車体開発を率いていた田辺豊治らホンダの技術者たちは、成功目前での撤退に悔しさもありながら、2009年の開幕の地メルボルンで自分たちの作ったマシンが勝利を収めた姿に涙を抑えられなかったという。

 ホンダとしてのホンダらしい挑戦は、実質的に2007年だけで終わった。しかし、そのチャレンジスピリットは引き継がれ、2009年に結実した。その意味でRA107は、ホンダの第3期F1活動において最もホンダらしく、そのチャレンジスピリットを体現したマシンだった。

(つづく)