ホンダF1名車列伝(4)ジョーダン199(1999年)&ホンダRA099 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年…

ホンダF1名車列伝(4)
ジョーダン199(1999年)&ホンダRA099

 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)、パワーユニットのサプライヤーとして復帰した第4期(2015年〜)。どの時代にも、ホンダの冠を乗せた名車があった。2021年シーズン限りでホンダがF1から撤退する今、思い出に残る「ホンダらしい」マシンを紹介していく。

「ホンダF1名車列伝(1)」はこちら>>



無限ホンダパワーで2勝をマークしたジョーダン199

 1999年シーズンを戦ったジョーダン199は、公式的にはホンダのF1活動の範疇には数えられていない。しかし、1992年で休止した第2期から2000年に第3期として復帰を果たすホンダにとって、大きな役割を果たしたことは間違いない。

 1992年、無限はホンダのV10エンジンRA101Eを引き継ぎ、さらなる開発を進めてMF351Hとして鈴木亜久里がドライブするフットワークへの供給を開始した。そして、ホンダがF1から去ったあとも単独で開発・供給を進め、1995年にリジェ、1998年からはジョーダンへと供給してF1参戦を続けてきた。

 その背景には、栃木研究所をはじめとしたホンダ本体の技術者たちも密接に関係しており、実質的にはホンダのF1活動も脈々と続いていたことになる。

 3リッターV10の5年目となった1999年の無限MF301HDエンジンは、重量こそメルセデスやフェラーリといったワークスのそれに比べれば重いものの、ワークスエンジンさえ上回るほどのパワーを生み出していたという。多少重かろうと、高回転・高出力という、ある意味でホンダの伝統とも言えるエンジンだ。

 そのパワーを武器に、新加入のハインツ・ハラルド・フレンツェンが開幕戦オーストラリアGPから2位表彰台を獲得。第2戦ブラジルGPでも3位表彰台に立った。マイク・ガスコインが仕上げたシンプルで堅実マシンも無限エンジンとのマッチングがよく、常に予選は2列目、3列目につけ、表彰台を争うポテンシャルを見せた。

 そして第7戦フランスGPでは、マクラーレンのミカ・ハッキネンを抑えて優勝。さらにはパワーサーキットのホッケンハイムでフロントロウから3位、モンツァでもフロントロウを獲得して2勝目を挙げ、なんとドライバーズチャンピオン争いに加わった。

 メルセデス育成プログラムでミハエル・シューマッハ、カール・ヴェンドリンガーとともに"三羽ガラス"と呼ばれ、シューマッハと同期でありながらF1での飛躍が大きく遅れたフレンツェンは、ようやくその才能を開花させたのだ。

 フレンツェンの地元ニュルブルクリンクの第14戦ヨーロッパGPではついにポールポジションを獲得し、決勝もライバルをリード。フレンツェンのタイトル挑戦は、さらに現実味を増したかに見えた。しかし、ピットアウト直後にマシンが止まってしまい、望みは潰えた。

 当時のレギュレーションでは、スタート時に最適な加速を生み出すローンチコントロールは禁止されていた。だが、ジョーダン無限はピットスピードリミッターやアンチストールシステムを利用してエンジンを制御し、これに極めて近い効果を生み出していたと言われている。

 エンジンにかかる負荷を抑えるため、10秒以内に解除しなければエンジンが自動的に停止するフェイルセーフが設定されていた。ただ、ピットアウト時にこれを使ったフレンツェンが解除し忘れ、1コーナーの先でマシンが止まってしまったのだった。

 裏を返せば、当時の無限はただのエンジンサプライヤーではなく、そのくらい高度なエンジン開発と高い性能をF1にもたらしていたということだ。

 フレンツェンはタイトル争いから脱落したものの、最終的にドライバーズランキング3位を獲得。そしてジョーダン無限も2勝と6回の表彰台獲得で、コンストラクターズランキング3位というチーム史上最高の成績を収めた。

 ホンダは1998年にF1復帰を発表してRA099というテストシャシーを製作し、フルコンストラクターとしてのF1参戦に向けて1998年末からテスト走行を開始した。そのマシンに搭載されていたのも、無限のMF301HDだった。



もしホンダRA099がF1デビューしていたら...

 RA099は当時の最もパワフルなエンジンを搭載し、ガスコインの恩師でもあるティレルのハーベイ・ポスルスウェイト博士が製作とチーム運営の指揮を執った。もちろん、ホンダとしてのバックアップもある。ジョーダン無限がタイトル争いを繰り広げたのだから、RA099がそれと同等かそれ以上の速さを見せるのは当然のことだった。

 外連味のないシャシーに、パワーではピカイチのエンジン。まさしく、本田宗一郎の夢を乗せて世界に羽ばたいた第1期F1活動の理念をそのまま蘇らせたような、ホンダらしいマシンだった。

 現在レッドブル・ホンダのドライバーであるマックス・フェルスタッペンの父、ヨス・フェルスタッペンがドライブし、F1の公式テストにも参加してトップタイムを連発するなど、世間を驚かせた。第2期のホンダ黄金期の記憶がまだ鮮やかな頃だけに、誰もがホンダの第3期活動には期待と脅威の目を向けた。

 しかし、ポスルスウェイト博士の急死や社内の派閥争いなどの影響で、RA099を中心としたフルコンストラクターとしてのF1復帰計画は1999年4月、急遽白紙となる。第3期F1活動は新興チームB・A・Rと組んでのエンジンサプライヤーとしての活動へと方針転換がなされた。

 これによって、2000年にホンダはワークスとしてB・A・RにRA000Eを供給してF1復帰を果たし、無限はMF301HEをジョーダンに供給してそれぞれ別の道を歩む、という奇妙な事態となった。

 1992年かぎりで撤退したホンダの穴を埋めるようにF1の世界に関わり続け、最新の技術を磨き続けてきたのが無限だった。ホンダの第3期F1活動は、その無限が蓄積してきたノウハウを生かしながら、フルコンストラクターとして第1期のような原点回帰が果たされるはずだった。

 もしその計画が実現していれば、第3期のF1活動はこれ以上ないくらいにホンダらしいマシンで、もっとホンダらしいF1活動になっていたはずだ。そしてその後のホンダのあり方も、もっと違ったものになっていたのかもしれない。

(つづく)