ホンダF1名車列伝(2)ウイリアムズFW11(1986年) 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)…

ホンダF1名車列伝(2)
ウイリアムズFW11(1986年)

 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)、パワーユニットのサプライヤーとして復帰した第4期(2015年〜)。どの時代にも、ホンダの冠を乗せた名車があった。2021年シーズン限りでホンダがF1から撤退する今、思い出に残る「ホンダらしい」マシンを紹介していく。

「ホンダF1名車列伝(1)」はこちら>>



ウイリアムズFW11を駆るネルソン・ピケ

 わずか5年間の第1期F1活動で、2勝を挙げてから15年。この間に売上高が1兆円を超え、世界的な自動車メーカーとなったホンダは、1983年にF1復帰を果たした。

 公害対策基本法に準拠したCVCCエンジン技術で世界をリードし、ライフ、シビック、アコードなど4輪メーカーとしての業績が拡大。1978年にレース活動再開を発表し、国内レースでの研鑽から5年をかけての復帰だった。

 それでも当時のホンダは、今に比べればまだまだ小さな組織だった。現在ホンダのF1開発責任者を務める浅木泰昭は、新人だった当時、社内公募で志願して上司とふたりだけの耐久テスト部門に配属され、F1プロジェクトに参加していたという。

 ホンダらしい技術屋魂に満ちたエンジニアたちの小さな組織だったからこそ、上下関係や部門の枠を超えて声を上げることもできれば、終業後に会社の設備を使ってこっそりと"課外活動"をすることもできた。そんなところから、ホンダらしいアイデアが生まれる時代だった。

 第2期は1982年にエンジンサプライヤーとしてF2選手権から始め、1983年にF2チームのスピリットとともにF1参戦。ホンダの出資によって設立されたチームであり、実質的なワークス参戦といってもいい体制だった。

 デビューは第9戦イギリスGP。ステファン・ヨハンソンをドライバーに起用し、第12戦オランダGPではポイント獲得まであと一歩と迫る7位の結果を残した(当時は6位までがポイント圏内)。

 しかし、ホンダはF1という世界で本気で勝ちを狙うには不十分であると判断。その年の最終戦に名門ウイリアムズとのタッグを開始する。そして翌1984年、ダラスで行なわれた第9戦アメリカGPで、ケケ・ロズベルグのドライブによって復帰後初優勝を飾った。

 ホンダのV6ターボエンジンは、F2では他を圧倒するほどの性能を見せていた。しかし、パワーこそ優れていたものの、ターボラグがひどく、トラブルも多かった。このダラスでの優勝は、酷暑のなかで他車の脱落によるところも大きかった。

 しかし、翌年にはストロークを長くする代わりにピストンを90mmから82mmまで小径化し、ピストンにかかる負荷を小さくしたことで、異常燃焼の発生や燃焼室周りのトラブルを抑えることに成功。異常燃焼を抑えるために余分に噴射していた燃料の消費も抑えられ、結果的に燃費が向上するという副産物も得られた。

 当時まだ下っ端だった浅木のようなエンジニアの「ピストンを小さくすればいいじゃないか」という声が上に届きやすかったり、上司に否定されても信念を持ったエンジニアたちが"課外活動"でテストエンジンを作って効果を実証してしまったり、清々しいまでの血気盛んな技術屋魂が炸裂し、それが結果を掴み取るという時代だった。

 そんなホンダのRA165Eエンジンを搭載した1985年。ウイリアムズ初のフルカーボンモノコックマシンFW10は、シーズン終盤戦に3連勝を果たす。そして1986年には、車体・エンジンともにひとつの完成形とも言えるFW11・RA166Eへと昇華した。

 さらにスモールボア化が進められたRA166Eは、排気量1Lあたり最大1000馬力を発したとされた。つまり、燃料制限のない予選では1500馬力近いパワーを生み出したと言われている。

 これを受けてFIAは、決勝での燃料量を220Lから195Lに制限。だが、ホンダは導入した双方向テレメトリーシステムでエンジン状況をリアルタイムで確認することによって、燃費規定に苦しめられるどころかしっかりと味方につけて勝利を重ねた。

 ウイリアムズ・ホンダの戦闘力は高く、そのマシンを駆るナイジェル・マンセルとネルソン・ピケは毎度レースで激しいバトルを演じた。ふたりが勝利を分け合うかたちになったため、ドライバーズタイトルは最終戦でアラン・プロスト(マクラーレンTAG)に奪われたものの、16戦9勝でホンダにとっては初のコンストラクターズタイトルを獲得する。

 このシーズン、ウイリアムズFW11が最速のマシンであったことは言うまでもなかった。

 最終戦オーストラリアGPの現地を訪れていた本田宗一郎(本田技研工業創設者/1991年没)は、「我々の夢をつなげてくれてありがとう。ワールドチャンピオンを獲ってくれてありがとう」とチームスタッフ全員の前で床に額がつくほど頭を下げて礼を言ったという。4輪自動車メーカーとして歩き始めた時から世界に挑戦したホンダの、まさに悲願成就だった。

 なによりホンダが、世界に先駆けた技術をF1にもたらし、血気盛んなエンジニアたちの情熱を結実させて世界の頂点に立ったという事実は、何ものにも代えがたい実りを日本のファンにもたらした。

 そして1987年の日本GP、全戦テレビ中継開始と相まって、ホンダの活躍は日本に訪れる一大F1ブームの礎(いしずえ)となった。

 その背景にあったのは、本田宗一郎の号令の下で世界に挑戦した第1期の時から脈々と続くチャレンジスピリットであり、それこそが「ホンダらしさ」だった。

(つづく)