ホンダF1名車列伝(1)ホンダRA272(1965年) 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)、パ…

ホンダF1名車列伝(1)
ホンダRA272(1965年)

 世界に飛び出した第1期(1964年〜1968年)、エンジンメーカーとして黄金期を築いた第2期(1983年〜1992年)、フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)、パワーユニットのサプライヤーとして復帰した第4期(2015年〜)。どの時代にも、ホンダの冠を乗せた名車があった。2021年シーズン限りでホンダがF1から撤退する今、思い出に残る「ホンダらしい」マシンを紹介していく。



1965年にF1初優勝を成し遂げたホンダRA272

 ホンダRA272は、ホンダの原点であるチャレンジスピリットを体現した、まさしく最もホンダらしいF1マシンだと言えるだろう。

 F1挑戦を打ち上げた1963年当時、ホンダは4輪メーカーとしては軽トラックを発売しただけの"赤子のような"会社だった。しかし、すでに2輪でマン島TTレースを制してヨーロッパの自動車文化を目の当たりにしてきたからこそ、ホンダ創業者・本田宗一郎は世界に挑戦し、技術を磨くことの意味を知っていた。

 当初はエンジンメーカーとして名門ロータスとのタッグを計画していた。だが、1964年2月に一方的に破談となる。本来ならばホンダのF1挑戦はそこで頓挫していてもおかしくないほどの大きな壁にぶち当たった。しかし、そこでもホンダのチャレンジスピリットが発揮された。

 自社でシャシーまで設計・製造し、F1に参戦するという決断を下したのだ。

 軽トラしか作ったことのない弱小自動車メーカーが、F1の車体もエンジンも作り、コンストラクターとしてF1に参戦する......。これが荒唐無稽と言ってもいいくらいの大きなチャレンジだったことは、言うまでもない。

 しかし、当初からホンダにそういう思いがなかったわけではなかったのだという。そして、ロータスへの供給を前提としたエンジンテスト用のテスト車両RA270をベースにしつつ、戦時中に航空機エンジニアであった中村良夫(1994年没)や、ホンダ入社間もない若手の佐野彰一(1999年までホンダに在籍/現在83歳)らを中心として、実戦用のRA271が設計・製造された。

 1964年8月、ようやくF1デビューにこぎつけて3戦を走ったRA271は、現在のF1マシンの常識となっているモノコックにエンジンを直接マウントしてストレスメンバー(構造)として使う方式を、いち早く採用していた。当時のF1ではロータスでさえ採用していなかった最新の方式だった。

 エンジンは1.5リッターNAという小排気量の規定にもかかわらず、V12を搭載して1万2000回転で"ホンダミュージック"と称される独特の甲高い音を響かせた。もちろん、馬力でもライバルを1割ほど凌駕し、220馬力を生みだしていたという。

 しかし、車体重量はライバルより75kgも重かった。ギアボックスはエンジンと一体型ゆえにレシオ(ギア比)変更のたびにエンジンを下ろさなければならず、そこにマウントされたリアサスペンションもアライメントを取り直さなければならないという整備性の悪さもあった。

 また、冷却も不足しがちで、ラジエターのあるフロントのエアインテイクを広げるものの改善が見られず、オーバーヒートでリタイアとなる。エアアウトレットを広げなければ冷却風が入ってこないことに気づくまでに時間を要するなど、まさしく実戦経験の乏しさが露呈したかたちだった。

 難題に果敢に挑戦し、失敗から学び成長していく......。これこそがホンダのチャレンジスピリットの体現だ。

 翌1965年はRA271を改良してRA272へと進化させ、エンジンも1万3000回転230馬力へとさらなる強化が図られた。

 車体の軽量化が図られただけでない。RA271で失敗を犯したフロントのエアインテイクもRA272では小型になり、かつ冷却性能を向上させていた。栃木の「ホンダコレクションホール」に動態保存(昨年2月も走行確認テストを実施)されているこれらのマシンは、その失敗と成長の軌跡を物語るように今でもそのまま残されている。

 1965年の第5戦イギリスGPでは、予選3位に入る速さを見せた。V12エンジンが持つ加速は驚異的で、スタートではトップに立ち、続くオランダGPでも序盤2周はレースをリードした。ただ、第7戦ドイツGPを欠場してマシンに低重心化の大改良を施したものの、決勝では振るわないレースが続いた。

 その背景には、F1挑戦の初期からチームを率いてきた中村良夫が現場を離れていたこともあった。

 中村はシーズン当初、市販車の開発に専念するよう会社からの命令を受けていた。しかし、最終戦メキシコGPで「もう我慢はたくさんだ!」とF1復帰を直訴し、標高2200メートルのメキシコシティへと飛んだ。

 戦時中の航空業界で培った燃料噴射装置制御の混合比調整ノウハウを生かし、高地でのパワーダウンを抑えて戦った。予選3位からスタートしたリッチー・ギンサーのRA272は、またしてもスタートでトップに立つ。しかし今度はレースでも後続に譲ることなく、トップを守り続けて65周を走り切った。

 4輪の経験も皆無と言っていい自動車メーカーが、参戦からわずか2年目で勝利を挙げるという快挙を達成した。

 ロータスとBRM、ジム・クラークとグラハム・ヒルが席巻した1965年シーズン。唯一、彼らに対抗できたのがホンダだった。その第1期F1活動での成功が、ホンダを大きく成長させ、4輪自動車メーカーとしての飛躍につながった。

 ホンダの4輪黎明期にあって、既成概念に囚われることなく、失敗を恐れず挑戦して成長し、これまでにない物を生み出すチャレンジスピリット。まだ見たことのない大きな未来を夢見る力が、すばらしい結果をもたらした。

 まさしくRA272こそ、ホンダの初期衝動の具現化であり、ホンダらしさを象徴するマシンだった。

(つづく)