富士急 小穴桃里インタビュー(前編) 日本の女子カーリング界は近年、「トップ4」と呼ばれる4チームが熾烈な覇権争いを繰り広げている。そのうちのひとつ、富士急でスキップを務めるのが小穴桃里。今回は彼女のカーリング人生に迫る――。 …

富士急
小穴桃里インタビュー(前編)

日本の女子カーリング界は近年、「トップ4」と呼ばれる4チームが熾烈な覇権争いを繰り広げている。そのうちのひとつ、富士急でスキップを務めるのが小穴桃里。今回は彼女のカーリング人生に迫る――。



――まずはカーリングを始めた年齢ときっかけを教えてください。

「8歳です。小学校2年生の時に小瀬アイスアリーナ(甲府市)で、山梨県カーリング協会の練習会があって、両親がそこに参加していた関係で、私も初めて体験しました。カーリングのことなんて何も知らなかったんですけれど、ただ(アイスの上を)滑るだけでも楽しかったです」

――そこで、ご自身の意外な才能を発見できたのでしょうか。

「そんなことは一切、ないです(笑)。小さい頃からクラシックバレエをやっていたので、身体が柔らかくて、デリバリーのフォームを早い段階で取れた記憶はありますが、それよりも当時はカーリングをする子どもが全然いなくて、周囲の大人たちから『いいね、いいね。うまいよ』とおだてられて、その気になった――というのが本当のところです」

――クラシックバレエはどのくらいやっていたのですか。

「3歳から14歳までです。15歳から高校のハンドボール部に所属しながら、冬はカーリングやらせてもらっていた感じです」

――ジュニア時代の実績や思い出について聞かせてください。

「よく御代田のカーリングホールで、市川美余さん(現在は解説者)のチームにボッコボコにされていました(苦笑)。中学3年生の時にジュニアの日本選手権に出ていますが、そこでも勝てなかったですね」

――ほぼ同時期に富士急、当時「チームフジヤマ」の最年少メンバーとして抜擢されます。そのあたりの経緯を教えてください。

「山中湖村にあるカーリングの専用施設『Curlpex Fuji』が2005年にオープンして、同施設を建設した小林宏さん(チームフジヤマの元GM)が『チームを作ろう』と山梨の選手を探していたんです。まだ私は中学生だったので、当初はリザーブ、5人目の選手の予定だったのですが、選手がなかなか集まらなくて『あれ、出られる!?』という感じで、試合に出ていました。そういう意味ではすごくラッキーでした」

――その頃から世界や五輪などを意識していたのですか。

「難しい質問ですね......。『チームフジヤマ』という名前で、『Top of the World』を掲げて立ち上げたチームではありましたから、目標としては持っていました。ただ当時、どれほどの現実味を抱いていたか、というと覚えていません」

――一方で小穴桃里選手自身は、高校2年生の時にカナダでカーリングキャンプに参加しています。

「はい。小林さんと親交の深かったラス・ハワードさん(2006年トリノ五輪 男子カーリング金メダリスト)が主催していたサマーキャンプに。ニューブランズウィック州のモンクトンというフランス語圏の街で、初めての海外渡航にしてはハードルが高い場所でした。でも、日本人が珍しかったのか、現地の子どもたちとたくさん触れ合うことができてとても楽しかったです」

――チームとしても、富士急は比較的早い段階に海外遠征を積んできた印象があります。

「そうですね。なんの結果も出てない頃から、毎年2週間から3週間くらいカナダに行かせてもらって、さまざまなアイスで試合ができたのは、強化という意味では本当に大きかったですね」

――当時はまだ、各選手がそれぞれのポジションを試しながら、チーム作りをしている感じだったのでしょうか。

「そうかもしれません。メンバーも入れ替わったりしながら、高校2年生の時に私がスキップとなりました。ひとりで(ハウスに)立つのに時間がかかった、苦しい時期でもありました」

――その苦しい時期をどうやって乗り越えていったのでしょうか。

「高校時代は平日に部活の練習をしながら、小瀬スポーツ公園のジムでトレーニングをしていたんですけれど、西室雄二コーチ(現SC軽井沢クラブコーチ)が週に一度、山中湖から来てトレーニングを見てくれていたんです。そのあとに、『1点アップの後攻で、曲がるアイスでリードの1投目から』という感じで具体的なシチュエーションを作って、丁寧に戦術面でのコーチングを1時間くらいしてくれたんです。本当に地道な作業なんですけれど、あの時にスキップとして考える能力の基礎が養われて。それから徐々に、ですかね」

――チームは小穴選手が高校を卒業したシーズン、2014年に初めて日本選手権に出場しますが、結果は5位でした。

「まずは日本選手権に参加できないと話にならないので、出られたのはすごくうれしかったのですが、いざ試合になると、なんていうか、怖かったのを覚えています。(小笠原)歩さんであったり、(本橋)麻里さんだったり、憧れていた選手を目の当たりにして、さらに中部電力さんもジュニア時代に勝てなかったメンバーが多くて、そういうチームを相手になかなかいいゲームができなかったです。あれは、悔しかったですね」

――それでも、翌年には3位という好成績を残しました。以降、2016年は準優勝、2017年は3位と安定した結果を出し続けています。

「少しずつ戦い方はわかってきたのですが、オリンピック選考に引っかからないもどかしさのようなものは(心の中に)ずっとあります。日本のカーリングは、どうしてもオリンピックの4年サイクルで動いている部分があります。そのなかで、2014年ソチ五輪は箸にも棒にもかからずに終わって、2017年の日本選手権でも勝てずに2018年平昌五輪への道も断たれてしまいましたから......」

――その辺り、やはり責任を感じる部分も大きいのでしょうか。

「私は中学3年生でチームに入って、よく『若いのに偉いね』と言われていました。でも、学生時代はお金こそいただいていなかったけれど、遠征にかかる費用などは会社がずっと負担してくれていました。そのことについて、『あなたの競技力を買ってもらっているんだから、そこに年齢は関係ない。そこにプロ意識は持ちなさい』と、西室コーチがずっと言い続けてくれたんですね。

 それは今も身に染みついていて、プロではないのですが、お金をいただいて競技をしている限りは、パフォーマンスが出せなかったら、何かしらのアクションがあるのは当然だなとは思っています。ですから、2017年の日本選手権で負けて平昌五輪に行けないことが決まった時には、チームの解散も覚悟したぐらいです。でも、その時に『もう4年、がんばれ』と(富士急の)岩田大昌社長が言ってくださって、負けて悔しいのと、カーリングを続けられるうれしさで泣いてしまいました」

――2018年にはついに日本選手権で優勝。世界選手権にも初めて出場しました。

「世界選手権の結果(5勝7敗で10位)がいいものではなかったので、言いにくかったりもするのですが、本当に楽しかったです。オンタリオ州のノースベイという街で開催されたのですが、小さな街にもかかわらず多くの観客が集い、特にカナダ代表の試合がある日はいつも満席で、私たちのショットにも惜しみない歓声と拍手を送ってくれました。世界でいちばんカーリングが盛んな国の温かさを感じて、またカーリングが好きになりました」

(つづく)


小穴桃里(こあな・とうり)
1995年5月25日山梨県甲府市出身。8歳の時にカーリングを始め、中学3年生の時に2010年に結成したチームフジヤマ(現富士急)のオリジナルメンバーとして抜擢される。以降、チームとともに成長を続け、2018年には日本選手権で初優勝。世界選手権にも初出場を果たす。翌2018-2019シーズンにはワールドツアーで2勝するなど、近年大きな躍進を見せている。趣味はロードバイクとピストバイク、カメラなど。好きな食べ物は、いももち。

「真央さんのお母さんの手作りがいちばん美味しいです」