『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 第Ⅴ部 プログラムの完成(3) 数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを…

『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』
第Ⅴ部 プログラムの完成(3)

数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返る。世界の好敵手との歴史に残る戦いや王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。



2015年のスケートカナダで『SEIMEI』を滑る羽生結弦

 2015ー16シーズンに挑戦したフリー曲『SEIMEI』は、羽生結弦にとって新たな挑戦であり、決意のプログラムだった。

 フィギュアスケーターとしての幅を広げたいと考え、『和』に挑むことを決めた。羽生には「今の日本男子で、"和"のプログラムをできるのは自分しかいない」との自負があった。

 シーズン2戦目のスケートカナダは、技術点では基礎点が13.5点低いパトリック・チャン(カナダ)に3.18点の差をつけるにとどまり、演技構成点では6.22点上回られて敗れた。

「純和風を表現するという点では、その曲や自分の見せ方が、まだまだ未知の領域」

 羽生は『SEIMEI』についてそう話し、続けた。

「自分の伸びしろというより、このプログラムの伸びしろがあり過ぎるんです。それくらい僕は『SEIMEI』に誇りを持っているし、滑らせてもらうことがすごくうれしい。僕は自分のプログラムを作品だとは言わないですが、シェイ=リーン(・ボーン)さんが振り付けしてくれたこの曲に関しては、ジャンプ抜きだとしたら本当に作品に近いものだと思います。その中にジャンプを組み込んで演技にするのは僕自身。男子シングルのプログラムとして完成させるためには、もっとうまくならないといけない。こんなにすばらしいプログラムをせっかくいただいたから、もっとプログラムについていかなければいけないし、最終的には僕がリードしていけるくらいまで追い込んでいかなければいけないと思います」



2015年NHK杯の羽生。『SEIMEI』を完璧に演技してみせた

 その痛烈な悔しさがあったからこそ、次戦のNHK杯では思い切った構成変更に出て、難度を高めたショートプログラム(SP)を成功させた。106.33点の世界歴代最高得点を出した。そして、フリーでまたしても記録を更新したのだった。

 羽生は、演技を終えると大きく右腕を振り上げて満足の気持ちをあらわにし、得点を確認すると驚きの表情を見せた。表彰式後の記者会見で、「正直、自分自身がまだ興奮していて、何と言っていいかわかりません」と口にした。

 そのフリーの得点は、それまでの最高記録を20点近く上回る216.07点。SPとの合計でも史上初の300点超えを果たし、一気に322.40点まで伸ばした。

 振り返ってみると、この日、男子シングル・フリーの上位選手は苦しい展開が続いていた。

 まず、今大会で5位以内ならグランプリ(GP)ファイナル進出が決まるSP4位のマキシム・コフトゥン(ロシア)が10位に沈んだ。最初の4回転サルコウとトリプルアクセルを決めながらも、次の4回転サルコウが1回転になるなどジャンプミスを連発した。また、SP3位の無良崇人も、冒頭からの4回転トーループこそ2回決めたが、スピードのない演技になってミスが続き、思うように得点を伸ばせなかった。結果は3位だった。そして、SP2位で、フリーでは3種類の4回転を合計4回入れていたボーヤン・ジン(中国)も細かなミスを繰り返し、合計で266.43点。2位だった。

 ところが羽生は、そうした流れにまったく影響されなかった。前日のSPの勢いそのままにスピードに乗って滑り始めると、冒頭の4回転サルコウを難なく決めてGOE(出来栄え点)で2.86の加点。続く4回転トーループも完璧に決めて2.57点の加点をもらった。

 さらに、スケートカナダは少し抑え気味だった前半最後のステップシークエンスも力強く踏んでレベル4を獲得。今シーズン過去2戦で苦しんでいた後半の4回転トーループもセカンドに3回転トーループをつけて成功させたのだ。

 その後、トリプルアクセルからの連続ジャンプでは、両手を挙げてダブルトーループを跳ぶことでGOE満点の3点が加算された。ジャンプだけでなくスピンやステップでも最高のレベル4に認定される完璧な演技を披露。

 結果、技術点は118.87点で、演技構成点は満点の100点に迫る97.20点。ダントツでの優勝を決める演技だった。

「一番よかったのは、精神状態をコントロールしてフリーの演技ができたことだと思います。(2014年の)ソチ五輪のフリーの後も同じようなことを言ったと思いますが、あの時は演技が終わった瞬間、『これで金メダルがなくなった』と思い、自分が金メダルを意識して緊張していたんだと気がついたんです。

 その経験が今回すごく生きて、会場に来る前から『自分はフリーで200点超えをしたいと思っている』とか、『(合計は)300点超えをしたいと思っている』『ノーミスをしたいと思っている』という風に、自分で自分にプレッシャーをかけてしまうようなことを考えているということを、ちゃんと認識できていたんです。『緊張している、それならこうしよう』というのが、ある程度わかっていたので、気持ちをコントロールできたんです」

 スケートカナダから約1カ月間、悔しさを晴らそうと、入念な体のケアをしながら、「自分でも驚くほど一生懸命練習をしてきた」という手応えもあった。また、SPのプログラム構成を変更したことに表れていた進化への積極的な姿勢など、さまざまな要素がこの結果を生み出したといえる。

 しかし、次を同じ構成で演技をしても、同じ得点が出るとは限らないのがフィギュアスケートという競技だ。羽生が「これからはこの得点のプレッシャーが、自分自身にのしかかってくる。それをコントロールできるくらいの精神力をつけなければいけない」と言うように、新たな重圧との戦いも待っている。

 羽生はすぐに次を見据えた。

「正直、フリーではなかなかノーミスの演技ができていなかったのでうれしかった。でも、これが限界ではないと思うし、後半の4回転トーループも、もっときれいに跳べると思う。もっともっと複雑な跳び方もできると思う」

 SP、フリー両方の「歴代世界最高得点」という完璧な演技で、さらに異次元の高みへ駆け上がった羽生。だが、その記録は競技者であり続ける以上通過点にすぎない。歴史的な快挙を果たした羽生は大きな決意をその身にまとったように見えた。

*2015年11月の記事「これぞ絶対王者。300点超えを達成した羽生結弦の新たな決意」(web Sportiva)を再構成・一部加筆

【profile】 
羽生結弦 はにゅう・ゆづる 
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。

折山淑美 おりやま・としみ 
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。