『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 第Ⅴ部 プログラムの完成(2) 数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを…

『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』
第Ⅴ部 プログラムの完成(2)

数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返る。世界の好敵手との歴史に残る戦いや王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。



2015年NHK杯SP『バラード第1番』を滑る羽生結弦

 2014年ソチ五輪で金メダルを獲得した羽生結弦は「五輪王者だからこそ進化した姿を見せたい」と考えていた。2014ー15シーズンはフリーのみならず、ショートプログラム(SP)でも基礎点が上がる演技後半に4回転ジャンプを入れようとしたが、グランプリ(GP)シリーズ初戦中国杯の直前練習での激突事故、全日本選手権後の緊急手術などで実現できなかった。

 そして、『バラード第1番ト短調』を継続すると決めた15ー16シーズン、羽生は再びその挑戦をした。だが、シーズン2戦目のスケートカナダまでは「演技後半の4回転は難しい」という先入観にとらわれ、苦しんだ。

 スケートカナダはSPで6位と出遅れ、フリーも休養からの復帰戦だったパトリック・チャン(カナダ)に4点弱及ばず2位。その悔しさが、羽生の心に火をつけた。「もし後半の4回転ができても、それは前(14ー15)シーズンにやっておかなければいけなかったこと。それでは進化を目指すとはいえない」と考え、SPで4回転を2本の構成にするという攻めの姿勢に転じた。

 NHK杯では、4回転サルコウと4回転トーループ+3回転トーループを前半で続ける構成に挑戦。ノーミスの滑りで歴代世界最高得点となる106.33点を獲得し、もやもやしていた気持ちを吹き飛ばしたのだ。

 その納得の滑りは、挑戦する意識が成し遂げたものだった。最初の4回転サルコウの着氷ではつんのめるような形になりながらも、なんとか踏ん張ったが、それは攻めの意識がもたらしたと言える。その勢いは翌日のフリーにもつながった。後半の4回転トーループ+3回転トーループを成功させるノーミスの演技で、史上初の合計300点突破となる歴代世界最高得点の322.40点で優勝を果たした。



2015年GPファイナルSPで『バラード第1番』を滑る羽生

 それから中1週で臨んだGPファイナルで、羽生は歴代世界最高得点を再度更新した。これは、NHK杯の記録とはまた違う意味を持っていた。大会前1カ月間みっちり練習に打ち込むことができたNHK杯と違い、疲労が残る中での戦いだったからだ。

 スペイン・バルセロナで開かれたGPファイナルでの羽生の演技は、「すごい!」としか言いようのないものだった。公式練習では4回転トーループが決まり切らない状態で、6分間練習でもその不安を引きずっていたが、本番は関係なかった。

「意外と緊張していました。でも自分に緊張感があるということを認識していて、『そういう状態ではどうしたらいいんだろう』と考えながら滑れたと思います。ただ、ショートの演技に入る前は、会場のモニターを見て、『(演技に入るまでの)時間があと1秒しかない』と焦りましたけど......」

 SP冒頭、練習でも成功率が高かった4回転サルコウをパーフェクトに決めた羽生。次の4回転トーループ+3回転トーループの連続ジャンプはこの日一番と言えるきれいなジャンプ。この2種類のジャンプはともに、9人中8人のジャッジがGOE(出来栄え点)加点で満点の3点をつけた。

 それで気持ちが乗ったのか、羽生の演技は力強さと迫力に満ちあふれたものになっていった。スピードに乗って回転したスピンはすべて最高レベルの4。後半に入ってすぐのトリプルアクセルも難なく決めた。ステップも羽生自身は「レベル3だったのでそこが反省点」と振り返ったが、力強く踏み続けた。

 14年ソチ五輪SPの『パリの散歩道』で感じたような、自信に満ちあふれた演技。終了直後、羽生もうっすらと満足の笑みを浮かべるほどだった。

 演技構成点は、最低がトランジション(要素のつなぎ)で9.61点。動作や身のこなしのパフォーマンスは8人のジャッジが満点の10点をつけて、振り付けと曲の解釈は9点台後半の得点だったが、ジャッジ6人が満点をつけていた。

「『バラード(第1番ト短調)』は1年間しっかり練習してきましたし、NHK杯で、ノーミスで滑ってやっと自信もついたところです。やっぱり曲を聞き込んできているというのはすごく大事ですし、これまで積み上げてきたものは絶対に無駄ではなかった。

 加えて、ジャンプも不安がないとは言わないですが、一つひとつがしっかり決まっていたから、より自分がピアノの曲に乗っていけた。ジャンプはもちろん、スピンやステップも曲の一部として決まっているからこそ、評価をもらえているのではないかと思います」

 NHK杯のフリーで、自分の心の中に芽生えてきた「緊張感との付き合い方のコツ」をつかんだ羽生。選手は一度完璧な演技ができてしまえば、どうしてもそれを再現しようという意識になり、心のどこかに「守りの気持ち」が生まれてしまうものだ。だが、彼は攻め続けることで、守りの意識を吹き飛ばしている。

 このGPファイナルのSPで、羽生はまたひとつ別の次元へと進んだ。SP前日の公式練習では、疲労が蓄積しているのは明らかだった。NHK杯後、バルセロナに出発するまでは中8日しかなく、羽生自身、「調整をしっかりしなければ」と意識していた。

 公式練習後には、「NHK杯の高揚感のようなものはないですね。ファイナルまでが短い期間だったからなのか、NHK杯が終わった直後は『これからはこの得点を意識するだろうな』と思っていましたが、今は最高得点も特に意識していないし、演技に対する期待感もあまり感じていないです。非常に集中した、いいコンディションだと思います」と話した。

 歴史に残る得点を記録したことで、周囲からはさらなる高得点を期待されることは承知していた。だが、羽生はこのように話した。

「ここ(GPファイナル)ではNHK杯の時のようなテンションでいかなくてもいいのかなと思っています。この会場で行なわれるこの大会、この試合でできるコンディションづくりや集中の仕方をうまく引き出せればいいかなと思います」

 頭の中には、どこかにNHK杯の高得点のことが残っていたはずであり、期待を感じてプレッシャーもあっただろう。しかし羽生は、それを心の片隅にしまい込み、もう一度冷静になろうと努めた。

 そうした精神状態だったからこそ、挑戦の姿勢を前面に出したNHK杯とはまた違う、完成度の高い演技ができたのだろう。9人のジャッジが提示した演技構成点5項目の得点は、半分近い項目で10.00点が提示され、合計も満点に0.86点足りないだけの49.14点と高かった。

 NHK杯とGPファイナル、違う精神状態の中でともにノーミスの演技。そうした経験をして、羽生は4回転2本、後半にトリプルアクセルを入れる難度の高い構成のプログラムを自分のものにした。

*2015年12月の記事「羽生結弦、また異次元へ。ファイナルSPの世界最高得点演技を分析」(web Sportiva)を再構成・一部加筆

【profile】 
羽生結弦 はにゅう・ゆづる 
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。

折山淑美 おりやま・としみ
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。