実業団退社後に経験したハローワーク通いの4か月「私のターニングポイントだった」 2004年8月、気温30度を超える炎天下でのレースとなったアテネ五輪の女子マラソン。1896年に第1回近代オリンピックの開催地ともなった、ゴール地のパナシナイコ…
実業団退社後に経験したハローワーク通いの4か月「私のターニングポイントだった」
2004年8月、気温30度を超える炎天下でのレースとなったアテネ五輪の女子マラソン。1896年に第1回近代オリンピックの開催地ともなった、ゴール地のパナシナイコスタジアムに最初に姿を現したのが、日本代表・野口みずきさんだった。当時、世界記録保持者だったポーラ・ラドクリフ(英国)、キャサリン・ヌデレバ(ケニア)という強豪選手を振り切ると、左腕を天高く掲げ、充実の笑顔を浮かべながら優勝のゴールテープを切った。
あれから16年。昨年開催予定だった東京五輪は、コロナ禍により1年延期となった。昨年3月にギリシャを訪れ、東京五輪に繋ぐ聖火リレーで日本人最初の聖火ランナーという大役を務めた野口さんは「希望を持って、灯り続けてほしい」とオリンピアの街を走ったという。
「五輪はアスリートにとって特別な場所。特別だからこそ、あの場所で金メダルを獲ったからこそ、何度でも挑戦したくなりましたよね。どの大会とも雰囲気が違うし、本当に最高レベルの人たちが集まってくる。『ここで走るのは最高に気持ちいいな』って感じましたね」
最高の舞台で最高の結果を掴んだ野口さんだが、その原動力となったのが「チームハローワーク」時代に手に入れた「ポジティブ思考」だ。
高校卒業後に女子陸上の強豪・ワコールに入社したが、1年半で退社。次の所属先となるグローバリーに入社するまでの4か月間は、ハローワークに通って雇用保険の求職者給付を受けながら競技を続けた。野口さんは当時を「“チームハローワーク”って呼んでいる時代なんですよ」と振り返る。
「よく取材で『チームハローワークの時代は苦しんだんじゃないんですか?』って聞かれるんですけど、そんなことは全然なくて、むしろありがたい機会。私のターニングポイントだったのかな、と思います」
まだ20歳そこそこで、所属先が決まらず“無職”の状態。至れり尽くせりだった実業団の寮生活から、食事の準備、洗濯、掃除などすべてを自分たちでこなす生活となった。もちろん、競技者として練習も続けている。それでも「栄養のことも考えながら食事を作ったので勉強になりましたし、何より寮生活ではなくなって門限がなくなった(笑)。マイナスと感じられる状況でもポジティブに捉えれば、全てがいい方向にいくような気がするんです」と、前向きな姿勢を崩さない。
チームハローワーク時代があったからこそ、実業団選手として給料をもらいながら競技を続けることが当たり前ではなく、いかに恵まれた幸せな環境なのかを実感した。「お給料という形であれ、お金をいただいている以上はプロ。しっかり結果で返したい、というプロ意識が芽生えました」。プロ意識を持ち始めると、自然と思考はポジティブになり、自分でも驚くくらい自己記録の更新が続いた。
「本当にあの時が心の成長にも繋がったし、『私はいける。もっといける。ドンドンいける!』って、いい意味で自意識過剰になれました。あの思考の転換がなかったら、金メダルは獲れていなかったかもしれませんね」
ハーフマラソンを走っていた頃は、「自分で言うのも恥ずかしいんですけど(笑)、ハーフマラソンの女王っていう渾名がつけられたくらい負け知らずで安定していました」。確かな土台を積み上げたこともあり、フルマラソンに転向した時も「すごく面白いかな」と前向きな気持ちしかなかった。すると、2002年の名古屋国際女子マラソンで初マラソン初優勝を飾り、翌年の大阪国際女子マラソンでも優勝。同年8月の世界選手権で銀メダルを獲得し、アテネ五輪代表の座を手に入れた。
「本当に、私とにかく運がいいと思います。ただ、勝ったら世界陸上だったり五輪だったり、何かに繋がるレースは絶対に逃したくなかった。その気持ちの強さと前向きな思考が引き寄せたのかもしれません」
出場辞退を余儀なくされた北京五輪の経験も「当時の私には必要な時だった」
2大会連続で出場を決めた2008年の北京五輪では、練習中に左脚を故障し、レース5日前に出場辞退を決めた。「さすがに辞めたいって思うくらい、気持ちがネガティブにいきがちでした」と振り返るが、次の瞬間、「ま、これも本当にポジティブ思考なんですけど、あの経験もあった方がよかったのかな、と思います」とカラッと晴れやかな笑みを浮かべる。
「北京で走れなくなったのも、自分で自分をディフェンディングチャンピオンだって煽ってしまい、与えられた練習以上のことを影でやったり、やらなくてもいいことをしていたことが原因でもあるんです。あと、精神的にもイライラしたり、ツンツン尖っていた感じがあって、取材も結構あったんですけど『ちょっとやめてください』って、自分でフィルターをかけてしまったり。天狗ではないですけど、あまり良くない方向に行っていたんですね。そういうことも全部ひっくるめて、当時の自分は良くなかった。だから、もし怪我をしていなくて北京五輪で走っていても、メチャクチャ悪い成績だったかもしれないって思うんです。当時の私には必要な時だったと思うようにしています」
また、この時の経験がなければ、2016年まで長く現役生活を続けることはなかったかもしれないとも言う。
「もし2008年、いい成績で北京五輪を終えていたら、長く現役を続けていなかったかもしれません。実業団に入った当初に掲げた『ボロボロになるまで走りきる』という目標から、全然かけ離れた結果になっていたかも。もちろん『タラレバ』の話になってしまいますが」
場合によっては心の傷になりかねない出来事を、少しだけ見る角度を変えてポジティブに捉えることで、さらなる成長の糧とする。チームハローワーク時代に身につけた思考の転換=ポジティブ思考があったからこそ、現役生活を完全燃焼で終えることができたのかもしれない。
延期された東京五輪。世界ではまだまだ新型コロナウイルスが猛威を振るっている。しかし、昨年9月のリモート取材で、開催が実現した時には「世界が一つになれるかなって思うんです」と思いを馳せていた。
「まだ先行きは不透明ですけど、ちゃんと五輪が開催できた時には、全世界の人たちが病気と闘い、立ち上がったという証明の五輪になるのかなと。また、そうなれたら素晴らしいですよね。私がアテネでゴールした時、ドーピング検査の対応をしてくれたのが、日本語を話せるギリシャの方だったんです。その方に『アナタは英雄です!』って言われた時、すごく嬉しくて泣きそうになりました(笑)。現地で応援してくれた私の家族も、近くにいた別の国の方々が金メダリストの家族だって知ると、みんなで『良かったね!』と言って握手を求められたりしたそうです。こういう繋がりや一体感が生まれるのが五輪。これを東京でも生み出せればいいですよね」
コロナ禍で先行きが見えづらい今、不安な気持ちや、やりきれない思いに駆られることも多いだろう。だが、これを乗り越えた先にはきっと笑顔の日々が待っている。野口さん流のポジティブ思考を持つことにも、今を乗り越えるヒントが隠されているかもしれない。(THE ANSWER編集部・佐藤 直子 / Naoko Sato)