滝沢ななえさんインタビュー後編 引退から7年、自身の人生を回想 高校時代、強豪・八王子実践で1年生からレギュラーとして活躍。卒業後はV・プレミアリーグなどでプレーした元バレーボール選手、滝沢ななえさん。高校時代の厳しい部活、選手としては活躍…

滝沢ななえさんインタビュー後編 引退から7年、自身の人生を回想

 高校時代、強豪・八王子実践で1年生からレギュラーとして活躍。卒業後はV・プレミアリーグなどでプレーした元バレーボール選手、滝沢ななえさん。高校時代の厳しい部活、選手としては活躍できなかったVリーガー時代にこそ、得るものがあった、と振り返る。そして引退から7年。パーソナルトレーナーとして第二の人生を歩む今、「1日1日、地に足をつけて進んでいきたい」と語った。

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 無駄のない、シャープで、しなやかな体。カメラマンのシャッターに合わせて、手足が淀みなく、自由に動く。

「バレーボールをやっていた頃より、トレーナーをやっている今のほうが楽しいかな。クライアントさんに体の動かし方が一つでも伝わると嬉しいし、感謝の言葉を頂くのも嬉しい。何より、お客さんの体がどんどん変化し、よくなっていくことを実感できる。本当にすごくやりがいのある仕事です」

 そう話すのは東京にジムを構える、パーソナルトレーナーの滝沢ななえさん。かつて、Vプレミアリーグ、Vチャレンジリーグでプレー。“美人すぎるバレーボール選手”と言われメディアからも注目された選手だった。

「正直、当時はツラかったですね。注目はされるのはありがたいけれど、実力が伴っていない自覚がありましたから」

 小学校2年生からバレーボールを始めた滝沢さん。中学は日本代表、Vリーグ選手を数多く輩出するバレーボールの名門・八王子実践高校の付属校である、八王子実践中に入学した。しかし中学入学前から「もうバレーボールはやりたくない! 行きたくない!」と、母に向かって泣いて騒いだ、という。

「でも、我が家は母強し、です。気づいたら入学していました(笑)。母も高校までバレーボールをやっていたので、お話しを頂いたからには、頑張ってほしかったんじゃないかなと思います」

 中学卒業後は、そのまま八王子実践高校へと進学。高校時代は、学校から徒歩2分の場所での寮生活を送っていた。9人部屋で、プライベート空間は割り当てられた一人用のマットレスと小さなラック1つ。「マットレスの上でずっと生活していた」と笑う。

「強豪校にはいても、バレーボールが大好き、という感覚はなく、中学・高校時代は、毎日、辞めてやる! と思っていました。でもこれ、“部活動あるある”だと思うんです。毎日、どれだけ頑張っても怒られてばかりだし、理不尽なことも多い。練習も上下関係も寮生活も、とにかくいろいろな面で厳しい部活でしたから」

 週1の部活休みに合わせて実家に帰るたび、母親にも『辞めたい』と訴えていた。

「すると、母も『じゃ、やめれば?』と引き止めない(笑)。でも、そう言われると悔しくて、『もうちょっと、頑張るわ』となる。自分から途中で投げ出すことが嫌だったんですよね。それと、やっぱり試合に勝てたときの嬉しさや、「一緒に頑張ろうよ」と言ってくれる仲間の存在が大きかった。飴と鞭ではないですが、たまに掴める『飴』が大きかった」

 高校の大先輩であり、バレーボール元日本代表の三屋裕子氏との出会いも、バレーボールを続ける発奮剤となった。

「春高バレーのコーチングキャラバンという企画で指導していただいたのですが、三屋さんとのバレーボールはすごく刺激になりました。めっっちゃ怖かったけれど、厳しさのなかに、本当に私たちに勝たせたいんだな、という強い思いが伝わってきた。だから辛くても頑張れたし、乗り越えられました」

 滝沢さんは1年時からレギュラーで活躍。3年の間に全国ベスト8の成績を残した。離脱する選手もいるなか、今考えると最後まで続けたことはよかった、と話す。

「練習、上下関係、寮生活での規律と、厳しいなかやってきたことが、自分を育ててくれた。仕事で難しいことがあっても頑張れるとか、困難に立ち向かえる強さ、何かを継続する力は、中学・高校時代にバレーボールを頑張ってきたことで得られたと感じています。厳しいなかでも踏ん張ることで、得られる何かがある。だから、今、部活で頑張っていることがある子たちには、本当に続けてほしいなと思います」

高校卒業後、初めて感じた実業団の壁「自分よりスゴイ人しかいない」

「将来は体育の先生になりたい」。中学・高校とバレーボールを続けるなか、滝沢さんはそんな目標を抱き続けていた。高校卒業後の第1希望は体育大への進学。母に希望は伝えていたものの、「絶対に進学したい」という想いは口にしなかった。

「うちは母1人、兄妹5人の大家族。妹や弟もいて、経済的なことを考えると『大学に行きたい』とは言えませんでした。奨学金を借りて進学する道もありましたが、当時の自分は、そこまで考えが至らなかった」

 そんななか、V・プレミアリーグのパイオニアレッドウィングス(2014年に廃部)から、入団のオファーを受ける。「果たして、自分の力で通用するのか?」。思いがけない話に、一時、躊躇した。

「プロなんて、感じたことのない未知の世界。本当に私に出来るのか、という不安はすごくありました。けれど、大学は行く気さえあれば大人になってからもいける、多分、こんな機会は人生に二度とこない、と思いました。怖かったけれど、実業団への道を選びました」

 そして2006年、パイオニアレッドウィングスに入団。ここで滝沢さんはバレーボール人生で初めて、「お山の大将」から山の裾野へと転がり落ちた。

「中学・高校は1年からずっとレギュラーでやってきたし、『辞めたい』と言えば皆、引き留めてくれる。自分は出来る子だと、どこかで調子に乗っていたんです。でも、実業団に入ったら、プレーも、身体能力も、自分よりスゴイ人しかいない。例えば『足は速い』と自負していたのに、何なら下から数えたほうが早かった。練習の一つひとつも『出来て当たり前』の世界。大人だから強要もされないし、自分でやらなければ置いていかれるという状況に、初めて立たされました」

 いわゆる『雑用係』も初めて経験。朝の練習前は毎日、コートを掃除し、ボールの気圧を計り、コーチや監督のドリンクを準備する。シーズン中は、試合に必要な道具を準備し、移動用のバスに詰め込み、選手たちのために更衣室をセッティングした。練習が始まっても、試合に出る人しかコートには入れない。メインの選手たちが終わった後、若手だけの練習がスタートし、やっとそこで、ボールを触れた。

「『ユニフォームを着られない立場』に置かれて、謙虚さを学びました。試合には出られないし、下手くそだし、びびるし、の毎日でしたが、この3年間は、本当に充実していたし楽しかった。一人の人間としてすごく成長した時期でした」

 2年目に入り、滝沢さんは開幕戦でリーグ戦初出場を果たす。しかし、次のチームに移籍する日まで、レギュラーポジションを獲得することは叶わなかった。試合に出られず、バレーボールから気持ちが離れることはなかったのか? その問いに、サラリと答えが返ってきた。

「いや、離れなかったですね。心が離れた瞬間、多分、バレーボールなんてできなかった。そのぐらい、毎日、必死でしたから」

 その後、2009年7月、滝沢さんはV・チャレンジリーグ(現V.LEAGUEのDIVISION1)の埼玉上尾メディックスに移籍する。同年からレギュラーに定着し、チームもリーグで準優勝。新天地で選手として息を吹き返したかに見えた。

 ところが、翌年からは途中出場が多くなり、スタメンで出場する機会はほとんどなくなる。一方で、『美人すぎる』という称号でメディアには取り上げられるようになり、「埼玉での4年間はもっとも苦しかった」と振り返る。

「埼玉での立場はいわゆる中堅選手。レギュラーではなかったが、試合にはちょこちょこ出場していたし、若手がいてくれるので雑用をすることもありませんでした。本来、私のような中堅選手は、チームの士気に関わる大事な立場です。でも、若手のようなフレッシュな気持ちも必死さもなく、途中出場をくり返すうちに、責任感も薄れていった。毎日、気持ちがふわふわしていて、心ここにあらずでしたね。当時に戻れるのなら、チームのことを考えてしっかりしろ! と自分に言いたい。特に引退前の最後の2年間は、モチベーションを保てず、かなりしんどかったです」

 3年目、「今シーズンで引退したい」とチームに申し出る。しかし、すでに引退が決まっていた選手もいたこともあり、チーム側は滝沢さんを慰留。「よし、ならばもう1年やろう」。心を新たに最後の1年間、戦った。

 そして4年目のシーズン終了後、2013年に現役を引退。同時に、約20年のバレーボール人生は幕を閉じた。「『あと1年』と決めていましたから。最後は思い残すこともなく、サッパリしていました」。

現役引退~トレーナーとして歩きはじめるまで

 27歳を目前にした夏。引退した滝沢さんは「バレーボール選手」ではない道に一歩踏み出す。

「アルバイトの経験さえなかったので、働くって何だろう?ってところからスタート。ただ、バレーボールに関係する仕事をしたいな、という気持ちはありました。元々、体育の先生になりたかったこともあり、じゃあ、指導者はどうかな、と思って」

 とはいえ、学校の部活動でバレーボールのコーチをするだけでは生活はしていけない。そこで、求人情報を片っ端からチェックすると、バレーボールの個人指導を請け負う会社が目にとまった。「これが仕事になるならいいな」と即応募。面接を通り、採用された。

「当時は本当に一つも社会常識がなく、面接にもTシャツで行きました(笑)。社長と総務の方にも後日、『あれは本当にビックリしたよ』と言われましたね。でも、せっかく元アスリートの方が入ってくれたからと、名刺交換、パソコンの操作、秘書検定の受験まで、社会人として必要なマナーや知識をイチから教えてくれた。これからは、社会人として出発しなければならない。そのことをきちんと教えてくれた2人には、感謝しかありません」

 新しい世界での新たな刺激。仕事も楽しかったが、次第に将来を考え始めるようになり、コーチ業を続けることに迷いが生まれた。

「当時、お付き合いしていた方と一緒に暮らしていたのですが、ゆくゆくはパートナーを養えるぐらいの経済力はつけたい、と考えていたんです。でも、その頃の給料は、一人暮らしを何とかやっていけるぐらい。仕事はすごく好き。でも、自分が描く将来像に近づくには、この仕事を続けていても難しいかもしれない、と思うようになりました」

 同じ頃、女性専用のトレーニングジムをオープンする計画を立てていた知人から、「トレーナーとして、一緒にやらないか」と声がかかる。

「トレーナーと聞いたとき、まるっきり出来ない仕事ではないな、と思ったんです。コーチ業を通じ、人に教えることは好きだし、向いているとも感じていた。今まで自分が経験してきたことにも近い仕事、という印象があったので、チャレンジしよう、と決めました」

 それから3年。ジムのトレーナーとして経験を積み、独立。2019年、東京に自身が経営するパーソナルジム「PERSONS Training Salon」を開業し、第二の人生を、着実に歩み続けている。

「現役引退後、いちばん最初に痛感したのは、『何をしたいのかわからない。何が出来るのかもわからない』ということです。

 一つの競技に打ち込んできたアスリートが第二の人生をスタートさせる際、そのことに直面することが、いちばん大変だと感じます。実際、自分は本当に何も出来ない、と痛感しましたから。

 また、自分が長年、打ち込んできたもの以上に打ち込めるものが見つからない、ということもアスリートのセカンドキャリア形成の難しさです。何か始めてはみても、これではない、つまらない、楽しくない、と、職を転々してしまう人もいます。

 私の場合、移籍するときも引退するときも、指導者の仕事を始めるときもやめるときも、誰にも何も相談しませんでした。迷わずここまで来れたのは、周りに流されることなく、節目、節目で自分と向き合い、自分で選択をし、選択した理由もはっきりさせたことが大きかったのだと思います」

 引退し、7年以上が過ぎた。今担当しているクライアントは、滝沢さんが元バレーボール選手だったことを知らない人も多い。

「これからどうしたいか、ですか? 私は10年後をイメージするより、1歩ずつ進むのが好きなんですよね。今は、1年後、2年後、そのまた先も、ちゃんと地に足をつけて、自分でやっていくために、試行錯誤しながら毎日を進んでいます。

 1日1日、お客さんと向き合い、そのお客さんがまた、私の元にトレーニングに来てくれる。日々のその積み重ねのことしか、考えられないかな」

滝沢ななえ
たきざわななえ 1987年9月22日生まれ、東京都出身。八王子実践中学・高校と進み、高校2年時に春高バレーでベスト8進出。卒業後、V・プレミアリーグ、パイオニアレッドウィングス(2006-2009年)に入団。2009年、V・チャレンジリーグ上尾メディックスに移籍し、2013年7月に現役を引退した。その後、バレーボールスクールのコーチをへてパーソナルトレーナーに転身。2019年11月、東京・六本木にパーソナルジム「PERSONS Training Salon」開業する。2017年、出演したテレビ番組で、レズビアンであることを公表。スポーツ界では数少ない、セクシャルマイノリティであることを公表している一人。(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)

長島 恭子
編集・ライター。サッカー専門誌を経てフリーランスに。インタビュー記事、健康・ダイエット・トレーニング記事を軸に雑誌、書籍、会員誌で編集・執筆を行う。担当書籍に『世界一やせる走り方』『世界一伸びるストレッチ』(中野ジェームズ修一著)、『つけたいところに最速で筋肉をつける技術』(岡田隆著、以上サンマーク出版)、『走りがグンと軽くなる 金哲彦のランニング・メソッド完全版』(金哲彦著、高橋書店)など。