『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(6) 数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩み…

『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』
第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(6)

数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返る。世界の好敵手との歴史に残る戦いや王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。



2018年8月、トロントの公開練習で新プログラムを披露する羽生結弦

 2018年平昌五輪で、競技人生最大の目標とした五輪連覇の偉業を達成した羽生結弦は、次のシーズンのプログラムで、小さい頃から憧れていたレジェンドたちへの思いを形にしようと試みた。それは、次なる道を模索するための挑戦だった。

 18年8月、カナダ・トロントで行なわれた公開練習で、羽生は新プログラムを発表。ショートプログラム(SP)はジェフリー・バトル氏による振り付けの『秋によせて』で、フリーはシェイ=リーン・ボーン氏振り付けの『Origin』。羽生が憧憬の念を抱くジョニー・ウィアとエフゲニー・プルシェンコがそれぞれ使用した曲だ。

「フリーはプルシェンコさんが『ニジンスキーに捧ぐ』で使っていた曲で、これは僕がスケートに没頭するきっかけなったプログラムです。自分のスケート人生の起源というか、根源的なものを感じて滑りたいと思ってこのタイトルにしました。ショートも非常に印象に残っているプログラム。ウィアさんのスケートに見入り、スピン時の手の使い方や柔らかい表現、間の取り方、ジャンプのランディング姿勢など、一つひとつに注意をして演技をするようになった曲です」

 平昌五輪後、ケガでスケートができない1カ月間、羽生はずっと考えていた。「勝ち負けに固執し過ぎる必要はない。自分のために滑ってもいいかな」と思い、このふたつの曲に決めた。自ら企画・プロデュースしたアイスショー「コンティニューズ・ウィズ・ウィングス」にウィアとプルシェンコに出演してもらった際に曲の使用について伝え、「すごくうれしい」「頑張ってくれ」とふたりから了承を得たという。



2018年8月、インタビューに応じる羽生

 羽生は、自身にとって大きな区切りとなった平昌五輪をこう振り返っている。

「平昌五輪で優勝することは幼い頃から決めていた人生設計でしたし、自分の中では決定事項だった。ソチに続いての五輪連覇がこれからの人生で絶対に大事になると思っていたし、連覇を背負っていろんなことをしたいと思っていました。その大事な舞台で自分の力を出し切れない状況になったもどかしさはあったけれど、過去も捨てて未来も捨てて、『この時だけ』と集中して結果を取ることがすべてだ、と。だから全力でできたのかなと思います。ノーミスではなかったですが、あれだけのガッツポーズができたのは、あれが自分の最大限だったと思えたからですね」

 五輪シーズンに選んだプログラムの『バラード第1番ト短調』と『SEIMEI』は、勝負を懸けるための選択だった。

 羽生は「何が自分のマスターピースなのか。何が自分の完全体なのかと......。自分にとっての完全体をどうすれば見せられるかということに、すごくこだわってきた4年間だった」と話す。だからこそ、足首の痛みもあった五輪前の苦しい練習でも、「4回転ループを跳べないくらいならお前は五輪へ行くな。自分にそうプレッシャーをかけて、なんとかやってきた」と言う。

「なんとか4回転ループを降りられるくらいにはなった。でも、そのくらいの確率ではプログラムに組み込めない。だから公式練習からプランを組み立てる際にも、自分の感覚だけではなく、周囲の意見もいい意味で自分のために使うことをものすごく考えていました。

 フリーで後半の4回転トーループにコンビネーションが付かなかった時、安全に考えて次のトリプルアクセル+2回転トーループをきれいに跳ぼうとするのではなく、とっさに3連続ジャンプにしたのも、僅差で負けて苦汁を味わってきた経験があったからこその選択だった。それで納得できる演技が最終的にできたのかなと思います」

 苦しい戦いを乗り越え、ようやく安心して次へ進めたという。

「曲と自分との関係も、その曲にどういう深みがあって、その深みを作るために自分の演技をどう融合させていくか。今はそんなことをすごく考えています」

 この年、羽生が新たに選んだプログラムを見て、彼がもう一度、競技人生を生きようとしていると感じられた。それを羽生に問うと、朗らかに笑いながら次のように答えた。

「競技人生というより、スケート人生が新たに始まった感覚があります。今までは五輪で勝つことが一番大きかった。それだけをモチベーションにやってきたところもある。だから今は、その大きなモチベーションを失ったかなと思います。ソチ五輪で金メダルを獲った時、あまりにも辛すぎたからやめようとも思っていたんです。でも、やっぱり小さい頃から平昌で優勝したいと思っていたので、五輪連覇が目標になって。だから、平昌で連覇できた後は『ああ、もう終わった』と思っていたんです。ただ、自分の心の中にちょっとモヤも残っていて......」

 羽生が新たなスケート人生の第一歩に、憧れのスケーターのプログラム曲を選んだのは必然だったのかもしれない。そして、リスペクトするレジェンドたちと同じリンクで演技することで実感したこともあった。

「自分では、圧倒的な差を感じているんです。プルシェンコさんやジョニー・ウィアさんだけではなく、ステファン・ランビエールさんやジェフリー・バトルさんなど、いろんな人たちとアイスショーを一緒にやらせていただいていますが、スケーターとしての自分と、もしくは人間としての自分と(彼らを)比べると、圧倒的な格の差を感じます。年齢的なものかもしれないし、これからいろんなことを経験して出てくるものかもしれないし、円熟味というものかもしれない......。

 いろいろなアイスショーをやってきてすごく感じたのは、彼らが自分のことを同等だと考えてくれていることでした。『五輪で2回金メダルを獲るのはすごいことだよ』と、何度も言われたました。でも、僕自身はあんまり"対等"とは考えていないんです。

 もちろん、日本のアイスショーだからだとも思いますが、自分をリスペクトしてくれているというのがわかりました。それがすごく大きくて、五輪連覇の自信につながっていきました。自分が認められるようになってきたこととともに、今回選んだこの曲たちに関しては、ただ単純に自分が小さい頃に滑りたかった気持ちを大切にしてあげたい。そんな思いでした」

 尊敬するスケーターと同じ曲を使っても、羽生結弦の色は出ていた。練習を見ただけでも、至るところにそのことは感じられ、それは彼が自分の表現の世界を確立してきていることの証とも言えた。

「以前はプルシェンコさんの『この部分』を受け取ってウィアさんの『ここの部分』を受け取ってとか、自分の色じゃなくて尊敬している方々の演技や表現をつなぎ合わせて自分になればいいな、と思っていたんです。でも、やっと去年(2017年)くらいから自分らしさが見えてきていて。エキシビションプログラムの『春よ、来い』とか『天と地のレクイエム』などもそうなんですけど、自分の色がやっと出てきたなと......。だから、尊敬している方のプログラム曲にその色を入れたうえで、リスペクトを持ちながらやってみたい。そんな気持ちがあります。

 同時に、今は自分の好きなようにしてしまおうかな、とも思っていて。今は達成感が大きいので、素直に自分の気持ちとか、大きな意味での童心にあった夢を、素直にかなえてあげようと。今は、なんというか、すごく子供に戻った感じです」

 羽生はそう言って明るい笑みを浮かべた。

 この時の公開練習での『Origin』のステップからは、これまでの『SEIMEI』や『ホープ&レガシー』などとは違う印象も受けた。そして、「起源というか根源的なものを感じて滑りたい」という羽生の言葉を聞いた時、そのステップは古代日本の巫女による祈りの舞のようにも思えた。

 そのことを伝えると、羽生は「そうかもしれないですね。シェイ=リーンさんが振り付けを考えるとき、『古事記』にインスパイアされたと話していたので。それもあって『Origin』と名付けたんです。でもシェイ=リーンさんが難しいステップを作ったから大変なんです。休みどころがなくて」と笑いながら答えた。

 羽生はこれからのプログラムづくりを、「みんなに共感してもらえるものに、それぞれの人たちが持っている背景に訴えるようなものにしたい」とも話していた。観ている側がそれぞれに想像できるような、映画のような印象的なプログラム。羽生は、これからもそんなフィギュアスケートの魅力を見せてくれるはずだ。

*2018年11月の記事「羽生結弦インタビュー『新世界を拓く』」(Sportiva)を再構成・一部加筆

【profile】 
羽生結弦 はにゅう・ゆづる 
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。

折山淑美 おりやま・としみ 
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。